先輩が筋トレをやめた理由

淡島かりす

居酒屋での兄妹の会話

 筋肉というとどうしても鍛え上げられた「ムキムキ」のものを想像するが、そもそも筋肉とは体を動かすためのものだから、貧弱だろうとどの部位にあろうとも筋肉であるし、心臓だって筋肉で動いている。

 この手羽先だって生きていた頃は筋肉だったのだ。死んだものに対して筋肉という言葉はあまり相応しくないように思うから、もしかしたら筋肉とは生と結びつくものなのかもしれない。


「いつもそんなこと考えながら手羽先食べてるのか、お前は」

「いつもなわけないでしょう。お兄様ったら」


 器用に手羽先を解体しながら妹はすました顔で言った。駅前の商店街にある居酒屋は、古い割には広くて、さらには値段も安いとあっていつも賑わっている。

 客層の殆どは中高年のサラリーマンで、その中にあって若い男女、特に片方がゴスロリ服に赤い髪というのはかなり浮いていた。しかも頼んでいるのが黒ホッピーに手羽先である。しかし周りから突き刺さる視線などものともせずに、若い女は二十歳に相応しい勢いで手羽先を平らげた。


「いつもそんなことを考えていたら変わり者です」

路代みちよは既に変わり者だから安心しろ」


 若いサラリーマン、安倍智樹あべ ともきはネクタイを緩めながら言った。路代と呼ばれた女の方は黒いアイシャドウを塗った目を見開く。


「路代ではなく、ロッテと呼んでください。前からお願いしてます」

「やだよ」


 妹の懇願をたった三文字で切り捨てた兄は、テーブルの上のメニューを手に取る。そして特に目的もなくページをめくりながら、ふと思い出したように顔を上げた。


「筋肉で思い出したけど、最近まで別の課の先輩が身体鍛えてたんだよ。毎日毎日ジム通いして、それこそムキムキ目指してます、って感じの人でさ」

「素晴らしいですね。お兄様もお腹がビール工場になる前に見習ったほうがよろしいかと」

「そしたら焼酎に変えるよ。でも見習おうにも、その人は突然鍛えるのやめちゃったんだよな」

「あら、どうしてですか」


 首を傾げながら、路代は兄にメニューを見せてくれるよう手振りで示す。何か食べたくなったらしい。


「ほら、見ていいよ。……問題はその理由がさっぱりわからないことなんだ。あんなに熱心に、しかも会社の昼休みだって近くの公園で運動してたような人がさ、突然何もしなくなった」

「お怪我やお病気では?」

「俺の同期が直接聞いたけど、どっちも否定されたらしい。でも理由については困ったような顔をするだけで教えてくれないんだとさ。気になるだろう?」

「それは気になりますね。……お兄様、ねぎぬたとはなんですか?」

「酢味噌でネギを和えたやつ」

「食べたいです」

「なら一緒にオニオンフライ」


 近くを通りかかった店員に、路代は手早く注文をすると、いそいそと智樹の方に向き直った。大学のミステリ研究会に所属する妹が、こういった話に目がないのを智樹はよく心得ていた。そしてそれは、かつてそのミス研の代表だった自分にも当てはまることも。


「その方は男性ですか?」

「あぁ。歳は二十九か三十。背が高くて、爽やかな感じの人だよ」

「何かスポーツはされてたのですか?」

「社員紹介には、学生時代にテニスと水泳をやってたって書いてあった。会社に入ってから数年は野球部に入ってたらしい」

「会社に部活動があるんですか」

「あとテニス部や卓球部もある。とにかく活動的な人でさ、社内でも色んな企画を立ち上げたり、サークル活動みたいなのを呼びかけたりするんだよ」

「所謂、陽キャですか?」

「まぁ間違ってもミス研には入らないかもね」

「あら、わかりませんわ。有名な探偵小説も怪盗小説も、主人公はマッスルですもの。マッスルがマッスルを呼ぶかもしれません」


 智樹は思わず、小さい頃に遊んだゲームを思い出した。モンスターが仲間を呼んで増えていくタイプのゲームである。ただ、本来魔物が出てくるはずの領域には白い歯を見せてポージングをした男が並んでいた。マッスルAはマッスルBを呼んだ。マッスルBは笑っている。


「体を動かすのが好きな方なのに、どうして筋トレをやめてしまったのでしょう。今は何を?」

「特に何か目立ったことはしてないね。てっきり筋トレしてから何かスポーツでも始めるもんだと皆思ってたらしい」

「月並みな表現ですが、誰か想い人が出来たとか。その方が筋骨隆々とした男は嫌いだと言った……という線は?」


 テーブルにねぎぬたが置かれた。路代はそれを箸で摘み上げて口に運ぶ。好きな味だったのか嬉しそうな顔をした。智樹は酢味噌が苦手なので、手はつけないまま話を続ける。


「それはないと思う。陽キャらしく……って言ったら偏見かもしれないけど、先輩は色んな女性と付き合ってきたらしくてさ。同期も何人か見たらしいけど見事に見た目や雰囲気がバラバラ。最初は二股、三股を疑ったくらいだって言ってた」

「違うのですか」

「交際期間は被ってないって自慢されたんだってさ。そんな人だから、自分に好意を向けてこない女性は相手にしないんじゃないかな」

「羨ましい限りですね。うーん……そうなると考えられるのは……」


 真面目な顔で考え込んだ路代は、しかしふと眉を寄せて兄を見遣る。


「お兄様はおわかりになったのですか?」

「多分」

「それは、お兄様……というか同じ会社の方やお知り合いでないとわからないことですか?」

「もしそうだとしたら、問題としてアンフェアだろ」


 確かに、と路代は呟いた。そして仕切り直すようにジョッキの中の酒を口の中に入れる。


「お兄様はその方と面識は?」

「まぁ新人の頃に一度話したことはあるけど、去年の話だから向こうが覚えてるかはわからないな」

「なるほど。それで大体わかりました」


 路代は似合わない咳払いをして背筋を正す。


「その方は、学生時代……つまり大学の時にテニスと水泳をしていた。会社に入ってから数年は野球部にいた。非常に活動的で、色んな企画を立ち上げる。そして交際する女性の数も多く、お兄様の同期……すなわち二年目の方が複数人存在を把握しているほど。そして話を聞いた私にも推測できることとなれば……」


 黒く塗った人差し指の爪を、路代は真っ直ぐ天井に伸ばした。


「その方は、筋トレに飽きてしまった」

「なんでそう思った?」


 智樹が笑いながら聞き返せば、路代は真面目な顔で続ける。


「まず、学生時代に二つのスポーツをしていたというのは、有り得ない話ではありません。しかし、会社にテニス部があるのに、野球部に入った。そして数年後には辞めている。色々な企画やサークルのようなものを立ち上げたと言いますが、現在その方が「何もしていない」ということは、それらは継続されていないことを示します」

「それで?」

「女性についてもそうです。短期間で何人も、しかも交際期間は重なっていないとなると、彼女さんと別れてから次の彼女さんを見つけるまでの時間が短いと思います。そんなに次から次に好みの女性が現れるものでしょうか? それよりは「前の彼女に飽きたから別れて、次に付き合える人を探した」という印象の方がしっくりきます」

「つまりどういうことになる?」

「先輩はとても飽きっぽいのです」


 テーブルに少し身を乗り出して路代は言った。内緒話でもするような体勢だが声は別に小さくは無い。店の中の賑やかしさにかき消されない程度の声量だった。


「だから、筋トレにも飽きてしまった。お兄様の同期さんに聞かれて困った顔をしたのは、自分が飽きっぽいと知られたくないからでしょう。同期さんは彼女さんたちに会ったことがありますから」


 路代は首を傾けて微笑んだ。


「この推理、いかがでしょう?」

「いい推理だ」


 智樹は音のない拍手をして、そしてすっかり温くなったビールを飲んだ。


「俺と同じだ。まず間違いないと思う。本人にも周りの人にも確かめられないけどね」

「既にお気づきの人もいそうですけどね」

「それは否定しない」


 オニオンフライを店員が持ってきたので、ビールのお代りを注文する。湯気を立てたオニオンフライを箸で持ち上げて半分だけかじる。玉ねぎの甘さが丁度良い。


「次にあの人が何を始めるのかは気になるけどね」

「あら、お兄様ったら」


 路代は驚いたような顔をした。


「そこまで推理出来てこそ、ではないですか」

「なら路代は推理出来たのか?」

「勿論です。様々なことに手を出しては飽きて辞めていった方が、次のことを探してないわけはありません」


 ビールはすぐに運ばれてきた。智樹は早速一口飲んで、そして半分残っていたオニオンフライを口に入れる。想像通り相性の良い組み合わせだった。


「じゃあ先輩は次は何をするんだ?」

「もうなさってます」


 何の遠慮もなく自分もオニオンフライを摘んだ路代は、それを少し持ち上げて、穴の間から兄を見た。


「何もしないこと、をしているのです」


 どこかで聞いたような台詞に智樹は笑ったが、しかしすぐに納得をした。きっとあの先輩は、飽きるまで何もしないでいるのだろう。そして飽きたらまた次のことを始める。それはすぐかもしれないし、数年後かもしれなかった。いつ飽きるかなんて本人にもわからないに違いない。


「次になにか始めたら教えてください。興味があります」

「その前に先輩が会社に飽きて辞めなかったらな」


 オニオンフライを兄妹揃って噛み締める。この味には当分飽きそうになかった。


END.

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