しあわせ書房6~二つの約束~

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二つの約束

 朝から五月晴れが広がる大型連休、僕はアルバイト以外特にやることもなく過ごしていた。早朝のビル掃除のアルバイトを終えた僕は、大きなあくびをしながら、いつものように「しあわせ書房」に立ち寄り、ラックに並べられた週刊誌を立ち読みし始めた。


「こんにちは」


 後ろから透き通るような声が聞こえた。振り向くと、ほうきを手にした椎菜が笑顔で立っていた。


「連休中は、どこか出かけないんですか?」

「いや、特に行きたい所もないし……この連休はバイトを集中的にやって生活費稼ごうかなと思って」

「もったないなあ。こんなにいいお天気なのに」


 椎菜は呆れたような顔をしながら、ほうきをゆっくりと動かしていた。

 しばらく二人とも無言を続けていたが、やがて椎菜が下を向きながら独り言を言うかのように話し出した。


「私、一日だけ休みもらったんです。ちょっとだけお出かけしようかな、と思って」

「へえ、どこに行くんですか? 」

神保町じんぼうちょう。古書店を見て回ろうかなって思って」


 椎菜から返ってきた言葉に僕は驚いた。こんな若くて可愛い子のに、渋谷とか原宿じゃなくて、神保町に? 


「一応、友達を誘ったんだけど、みんな揃って嫌だって言うんですよ」

「どうして? いいじゃないですか、神保町。本がたくさんあって好奇心をとことん掻きたてられる場所は、日本では神保町だけですよ」


 落ち込んだ表情を見せた椎菜の気持ちを、僕はそっと持ち上げようとした。


「でしょ? 私の気持ちを分かってくれて、すごく嬉しいです。このまま独りぼっちは寂しいから、もしよかったら……一緒にどうですか? 」


 椎菜の言葉に僕は唖然とした。まさかのご指名、まさかのデート……僕にとっては、椎菜からの誘いを断る理由はどこにもなかった。


「分かりました。じゃあ、行きましょうか」

「やったあ、交渉成立っ! じゃ、連休最終日の七日の朝九時に、この場所に来て下さいね」


 椎菜は嬉しそうに声を弾ませると、aikoの「桜の時」を口ずさみながら機嫌よさそうにほうきを動かし始めた。僕にとっては、あこがれの存在だった椎菜とデートができる千載一遇のチャンスにありつけることになった。



 朝からまぶしい太陽が照り付ける連休最後の日曜日。

 僕はブルーのジャケットを羽織り、いつもよりちょっとおしゃれして、まだシャッターの開かない「しあわせ書房」の前に立っていた。

 

「おはようございます」


 僕の耳元で、誰かが透き通るような声でささやいた。

 そこにいたのは、ポニーテールにフレアジーンズ姿の椎菜ではなかった。肩まで届く長い髪をなびかせ、ボーダーのシャツとデニムのミニスカートを着こなし、ニーハイソックスを穿いて、スカートとの間からセクシーな太ももをちらりと見せている、いつもと違う椎菜が立っていた。彼女の手にしているハンドバッグには、以前彼女が好きだと言っていたプリークリーのぬいぐるみが付いていた。

 椎菜のあまりの可愛らしさに、僕は思わず顔が紅潮した。上手くは言えないけれど、この気持ちは、杏樹とのデートでは味わったことのないものだった。


「さ、行きましょ」

「は、は、はいっ! 」


 まるで椎菜の誘惑に誘われるかのように、僕は足をふらつかせながら彼女の後を付いていった。


 地下鉄神保町駅から地上に出ると、歩道沿いに所狭しと沢山の古書店が軒を連ねていた。椎菜は気になる店があると片っ端から中に入り、気になる本を手に取っていた。何店か回るうちに椎菜は気に入った本を見つけたようで、購入すると、嬉しそうな顔で僕に見せてくれた。


「見て。草野心平の『ごびらっふの独白』。欲しかったんですよね、これ」

「草野心平って、カエルの詩人だっけ?」

「そうそう。草野心平は言葉の使い方がすごく面白くて。子どもの時から大好きな詩人なんです」


 瞳をきらきらと輝かせて水彩画のカエルの絵が入った本を手にする椎菜を、不埒ながら、僕は後ろから抱きしめたいと思ってしまった。

 その時、僕のポケットからスマートフォンの着信音が鳴り響いた。

 何だよ、せっかくいい所なのに……僕は少し苛つきながらポケットを探り、スマートフォンを取り出した。どうやらLINEにメッセージが届いていたようだ。

 そして、メッセージの送信者の名前を見た瞬間、僕は思わず「えっ?」と唸ってしまった。


『お久しぶりです、元気ですか。私はあれから誰にも会わず、ひきこもっていましたが、ようやく元気になってきました。突然ですみませんが、今夜七時、会えませんか? 私が健斗の最寄り駅に行きますので、そこで待ち合わせましょう 杏樹より』


 メッセージを読み終えた後、スマートフォンを持つ僕の手は震えが止まらなくなった。


「ねえ? 急にどうしたの?」


 椎菜は不思議そうに僕に問いかけてきたが、僕は「悪い、ちょっとここで待ってて」と椎菜の耳元で小声でささやくと、全速力で店の外へと走り、杏樹に架電した。

 しかし何度かけても、「留守番電話に接続します」という無機質な応答メッセージしか聞こえてこなかった。

 僕は電話を諦め、LINEを通してメッセージを送ることにした。


『おひさしぶり。気持ちはうれしいけど、今日は外出してるから、急に予定を入れられても困ります。明日学校だしゼミもあるから、明日会えばいいだろ? 会う約束の日時を変更してください』


 身勝手なやり方に腸が煮えくり返るのを抑えながら僕はメッセージを入力し、杏樹に送り返した。


「どうしたんですか。まだかかりそうですか? 」


 背後から椎菜の声が入り、僕は全身に寒気が走った。椎菜は大分待たされたのが癪に障ったのか、腰に手を当ててちょっぴり機嫌が悪そうに見えた。


「僕はもう大丈夫だよ。そろそろお昼だから何か食べに行こうか」

「あ、そうですね。神保町は美味しいカレー屋さんが多いんですよ。私は『エチオピア』の野菜カレーが大好きなの。辛いのは平気? 」

「ま、まあ、レトルトのカレーはいつも大辛食べてるから、平気ですよ」

 

 僕たちは明大通りにある「エチオピア」で、椎菜おすすめの野菜カレーを食べた。「五倍」の辛さを選んだが、あまりの辛さに口の中が火照り、やけどしそうな感覚に陥っていた。一方の椎菜は、いつもと変わらない表情で相も変わらず靖国通り沿いの古書店を片っ端から覗いていた。楽しい時間は過ぎ、やがて西の空が次第に茜色に染まり始めた。

 椎菜は、買い込んだ古書で大きく膨れ上がったエコバッグを僕に見せびらかした。


「見て見て、こーんなに買っちゃった」


 椎菜は驚いた僕の顔を見て、勝ち誇ったようにピースサインを突き出した。


「お気に入りの本をたくさん買ったことだし、そろそろ帰りましょうか。明日はお互いに学校や仕事がありますもんね」

「そうだね。今日はこれで帰ろうか」


 僕たちは神保町駅から地下鉄に乗り、新宿駅で私鉄に乗り換えた。

 電車は快調に帰路を飛ばしていた。僕の隣では、椎菜が僕の肩に頭を載せながらうたたねしていた。古書を探して一日中歩き回り、大分お疲れのようだ。僕は着ていたジャケットを椎菜の肩にかけてあげると、到着までの時間潰しにと、ポケットからスマートフォンを取り出した。すると、LINEにメッセージが届いていたとの通知が画面に表示された。

 まさかと思い、メッセージを開くと、送り主の箇所には「杏樹」の名前が入っていた。椎菜と過ごす時間が楽しくて、僕はメッセージを確認することをうっかり忘れていた。着信時間は、僕が最後のメッセージを送った一時間ほど後だった。


『こんばんは。私は今日、健斗に会いたいです。午後七時に駅で待ってますから、ヨロシクね 杏樹より』


 杏樹は自分の提案を曲げることもなく、予定通り僕に会いに来るようだ。僕は腕時計に目を遣ると、時計の針は六時半を少し回った所だった。おそらくもう自分の家を出て、駅に向かっていることだろう。

 このままこの電車に乗れば、自宅の最寄り駅まであと十分程度でたどり着く。そうすれば、杏樹がたどり着く前に僕たちは駅を通り抜けることができる。僕は祈るような気持ちで、刻一刻と針を進める時計を見つめていた。

 その時突然電車が急ブレーキをかけて停車し、そのまま動かなくなってしまった。


「え? ど、どういうこと?」


 車内がざわつく中、車内放送が流れ始めた。


『只今線路内で不審物を発見したため、しばらく停車します。お急ぎの皆様にはご迷惑をおかけしますが、しばらくお待ちください』


 何て言うことだ……よりによってこんな日に。

 電車は何も無い住宅街の真ん中で、ピクリとも動かなかった。

 時間は非常にも過ぎ去り、時計の長い針は「7」のすぐ手前まで来ていた。


「ねえ、温かいおふとん、ありがと……大好きだよ」


 隣から誰かの声が聞こえた。

 僕の隣には、椎菜しかいない。椎菜は僕の肩を枕代わりに、そして僕のジャケットを毛布代わりに、寝息を立てながら眠り続けていた。

 今の言葉、単なる寝言? それとも……。

 僕が考え込んでいたその瞬間、電車は大きく揺れながら徐々に前進し始めた。


「やっと動いたか……」


 電車は当初予定より二十分以上遅れ、杏樹との約束の時間である午後七時にようやく最寄り駅に着いた。

 

「ちくしょう……間に合わなかったか」


 ため息をついて落ち込む僕を尻目に、電車で眠ってすっかり元気回復した椎菜は、意気揚々と改札へ続く階段を登っていった。

 改札を通り抜け、出口が近づいた所で、僕と椎菜はお互いに向かい合った。


「ごめんなさい、今日はこれで失礼しますね。連休の最後、楽しい思い出をありがとうございます」

「こちらこそ、今日はすっごく楽しかったです。私のわがままにお付き合いしてくれて、ありがとうございます」


 椎菜は嬉しそうな顔で、僕に向かって何度も頭を下げた。


「あ、そうだ! ちょっとだけお礼していいですか?」


 そう言うと、椎菜はいたずらっぽい笑顔を浮かべ、つま先を立てて僕の頬にそっと口を押し当てた。


「え……マ、マジ!?」


 椎菜が僕の頬を口づけしているちょうどその時、僕の目の前には、腕組みをして仁王立ちする女性の姿があった。女性の顔を見たその時、僕は心臓が止まりそうになった。


「杏樹か……?」

「そうよ、お久しぶり。健斗」


 杏樹は白い歯を見せて不敵な笑みを見せた。


「あら、その人は誰? ひょっとして、新しいカノジョ? 」

「ねえ、この人、お知り合いなの?」


 杏樹、そして椎菜からの問いかけに、僕は何も言い返せなかった。二人の女性に前後を挟まれ、僕の逃げ道はどこにもなかった。

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