ここで君だけ待っている
目々
この世の名残りと名残り雨
腹だけ丸々と太った蜘蛛が、巣ごと風に揺れている。
黒ずんだ天井板に設置された、羽虫の死骸と埃で汚れた蛍光灯に纏わりつく巣の糸だけが清楚に白い。
貧相な屋根と最低限の壁に囲まれただけの、掘っ建て小屋のような無人駅。大粒の雨に温い風が、容赦なく顔に吹きつける。喘鳴のような雨音に重なって、道路にできているだろう水たまりを車が踏み散らす音が遠くから聞こえる。
「目、覚めた?」
声がした方に目玉だけを動かす。どうやら、何かがいるようだ。
こちらを覗き込んでいる相手にじわじわと焦点が合っていく。
真っ黒な目は瞬きもせずにこちらを見つめ、白い額に前髪が影を落としている。
「……先輩、なんで」
「起きてくれてよかった。お疲れ?」
倒れてるのかと思ったけど、少なくとも息をしていたから――平然と恐ろしいことを言って、葛西先輩は微かに口の端を持ち上げた。
硬いベンチから頭を持ち上げる。ゆっくりと身を起こせば一瞬だけ視界が揺れはしたが、頭痛も吐き気もない。どうやら熱中症ではなさそうだ。ただ思考にもやがかかったようなもどかしさがあるのは寝起きだからだろう。
雨音。
足元から土の匂いが混じった熱気が這い上ってくる。生きたまま埋葬されるとこんな気分なのだろうかと考えて、少し前に読んだばかりの推理小説を思い出した。
葛西先輩はじっと俺を見ている。夏服のスラックスの傍ら、ベンチに立てかけられた傘の先に水が溜まって淀んでいる。
「いる?」
目の前に突き出されたものを反射的に受け取る。
手に取ってからまじまじと眺めれば、ミネラルウォーターのペットボトルだった。
「いいんですか」
「いいよ。熱中症だったら辛いだろうし」
未開封だから安心してくれと笑う先輩に、俺は頭を下げる。好意に感謝して、キャップをねじ切って口をつけた。
生温い水が喉を降りていく合間に、そういえばこの人に何かを突きつけられたのは二回目だなとどうでもいいことに気づいて、俺は笑いをこらえた。
葛西先輩について知っていることは多いのか少ないのか、俺自身もよく分かっていない。
同じ高校の三年生、ということは確実に分かっている。痩せぎすで、立ち上がると思ったより上背があるのに血色がどうにも悪いせいで迫力というものがあまりない。顔は無個性に整っているのに、表情が薄いのと黒過ぎる目が奇妙な圧力を人に与えるので、あまり友人などはいないだろう。
それでも俺がこの人のことを先輩と呼んでいるのは、軒並み社会不適合者予備軍か自意識過剰で世間に対して斜に構え過ぎてすっ転んでいるような連中しかいない文学部で、場違いなほどに真面目に『部活動』をしている人だからだ。
消去法で入った結果、他の部員と馬も反りも趣味も合わず、かといって揉めるのも退部するのも面倒だと黙って部室の本棚を漁っていた俺の眼前に、いきなり単行本を物理的に押し付けてきた。それが初対面だったのだから、第一印象としては最悪を通り越して恐怖に近いものがあった。
それでも押し付けられている本は名前だけは知っている作家で、俺の好きな作家がエッセイで言及していたので興味があった。それも含めてどうしてこんなことをしているのかと聞けば、
「いつも本、読んでたろ。だから、私物だけど」
これも好きだと思ったんだと答える顔には照れや優越感のような人間らしい感情は少しも浮かんでいなかったので、俺も黙ってその本を借りることができた。
異様さに圧されたのもあるだろう。だが、演技も意識も過剰な連中の押しつけがましい読書家トークより、先輩の通り魔じみた押し貸しの方がよっぽど潔く思えたのだ。
勧められた本を借りる。部活で会ったときにささやかな礼代わりの駄菓子と共に返して、感想と雑談をぽつぽつと続ける。下校時刻のチャイムが鳴る頃になると先輩がまた鞄から新しい本を引っ張り出してきて、俺に渡す。そんなことを繰り返すのが、俺の部活動だった。
永遠の伯爵夫人を巡る毒殺、黙示録の四騎士に見立てた連続殺人、魑魅魍魎の跋扈する魔都を暗躍する魔人。
ごくたまに一緒に帰るときは、ずっと本と映画の話をしていた。先輩の趣味は偏っているくせに妙なところでよく分からない幅や奥行きらしきものを見せて、一つ始めた話が突拍子もないところでどこまでも繋がっていく。その無軌道さとおよそ実生活には不要であろう豆知識や雑学の類いを面白がって聞いているうちに駅についてしまうのだ。使う電車の路線が違うので改札で別れるのが常だったが、それが少し惜しいと思ってしまうくらいには、俺は先輩の話を聞いているのが好きだった。
帰宅ラッシュから少し外れた時刻の、ひと気の少なくなったターミナル駅。そのがらんとした空間が、笠井先輩には不思議なくらいに似合うのだ。
年上で、読書家で、使う駅が同じ。確実に知っているのはそれだけだ。先輩自身の核心的なことについては、俺なんぞには教えてくれてはいないし、知ろうとも思っていない。
どうして先輩がここにいるのか、俺はなぜ最寄りの無人駅で阿呆のように寝転がっていたのか。分からずに戸惑っているのを見通したように、先輩は数度瞬きをした。
「俺は乗り逃して、君は帰りそびれた。覚えてない?」
「……あんまり」
「君は帰宅途中だろ。俺はね、趣味のせいだから。ここにいんの」
先輩は鞄から見覚えのある黒い袋――どことなしに角ばっている――を取り出して、小さく咳をしてから続けた。
「DVD返そうと思って。この駅、最寄りだからさ。店の」
その一言で先輩の用事に見当がついた。
路線沿い、この無人駅から徒歩で行ける範囲に唯一あるレンタルショップ。定期を使えるなら余計な交通費を支払う必要もないので、映画が趣味の奴で根性と暇があるやつは通ったりしている。
「雨降り始めたからさ、店からここまで時間がかかって……あと一歩で間に合わなかったんだよ。そんで次を待とうって屋根のある方に来たら、君がここに座ってるのを見つけた」
近寄ったら寝てるんだもんなと笑いを含んだ声に、俺はとりあえず頭を下げた。
水を飲んだせいだろうか、ぼんやりと頭に浮かんできた記憶を辿る。電車を降りた途端に靴紐が脱げて、結び直しに屈んだ肩口にぽつぽつと雨が落ちてきた。その雨はあっと言う間に夕立らしい凄まじさへと変わり、傘を持っていなかった俺は雨宿りのために無人駅のベンチに座り込んだのだ。
自宅はここから歩いて十分。ずぶ濡れになって歩くくらいなら、ここで時間を潰した方がマシだろう。どうせ急いで帰ったところで何もすることがないはずだ。
そんなことを考えて、廃屋一歩手前のような無人駅のベンチに座った。雨音をぼんやりと聞いていた――そこから記憶が途切れているのは、先輩の言うことを信じれば居眠りをしたせいだろう。
間抜けな話だ。眠たくなったからと屋外でそのまま行き倒れるなど、幼児の所業だろう。
「傘、持ってなかったんですよ。雨宿りです。寝てたのはまあ、うっかりです」
「寝不足、よくないんじゃないか。外で寝るようなのは、尚更」
迂闊なことをするとひどい目に遭うぞと諭されて、俺は黙って曖昧に頷いた。
薄っぺらい屋根の先から滝のように雨が滴っている。夕立の空は薄明るく、人の体温じみた生ぬるさが肌に張り付く。
「いつから待ってるんですか、電車」
「目の前で乗り過ごしたから……多分、二十分くらい」
この時間帯だと電車が少ないからなと他人事のように先輩は雨空を見上げた。
時間を確認しようと取り出したスマホは電源が切れていた。バッテリーがもう寿命なのか、きっちり充電しても帰り際には三割を切っていることがよくあるようなボロスマホだ。大方寝落ちる前にソシャゲでも起動したかどうかしたのだろうと、過去の俺に向かって溜息をついた。
「俺もスマホ今日失くしてんだよね。暇だからさ、電車が来るまで付き合ってよ」
「この雨の中帰るのも馬鹿らしいですからね。いいですよ、俺は別に」
降る雨の勢いは一向に衰える様子はない。無理に雨の中帰って、体調を崩すのも馬鹿らしい。
何より、先輩をここで一人きりにして置いていくのがひどくむごいことのように思えた。
「君がいてくれて助かったよ、本当に」
先輩は眉を八の字にして、微かに笑みのようなものをみせた。
その表情に何故か胸がざわついて、俺は悟られないように視線をゆっくりと地面に落とした。
雨は薄い屋根を容赦なく叩き、不規則な鼓動のような音を立てた。
「言いたかないですけど、こんなことになってんの、こんな雨の日に遠出するからですよ。配信使えばいいじゃないですか」
「レンタル棚をうろうろするのが好きなんだよ。ちょっとアレなパケ画とかさ、そういうのを眺めて回るのが楽しいから……俺の趣味だよ」
先輩はふいと視線を逸らして、指先で鞄を撫でた。
その趣味なら知っている。少し前、七月の期末テストの最終日にぽっかり空いた午後を持て余していたときに、先輩の誘いを受けたからだ。暇潰しにちょうどいいと付き合ったが、レンタルショップを目指して夏の日射しに焙られながら歩く三十分の道のりは中々に過酷だった。どろどろになりながら辿り着いた店の中は猛烈に冷房が効いていて、気力も尽きてと立ち尽くしていた俺を置いて先輩はどこかへと歩いていってしまった。
慌てて追いかけた先はレンタル用のDVDが並んだ棚の中でも韓ドラやエンタメ邦画などの人気のある棚から隔離されるような、店舗の片隅だった。
その一角に押し込まれた、いかがわしかったり悪趣味だったりする作品の数々――主にホラージャンルだったが――のDVDのジャケットとあらすじを読んでは楽しそうに笑っていた先輩の顔を覚えている。
「俺、あのパケ画好きですよ。なんか夜中の十二時半過ぎてるやつ。地下鉄だったかの」
「地下鉄に潜む殺人鬼、みたいなやつだったね。あれ系統好きなら人肉通りも好きだろ。俺は好きだよ、ケレン味があって」
「あっちはゾンビでしたっけ。海外の地下ってロクなもんいませんね」
俺の感想に先輩が小さく笑った。
「でもゾンビは死んでるって分かるだけ親切じゃないか? まだ逃げる余地があるだろ、きっと。気づければ」
「気づけないとヤバいですかね」
「危険だから、ゾンビって。噛むからなあ……でも、見れば分かる。じゃあ噛まれる前に逃げられる。助かる」
見ても分からないと逃げられないだろと先輩は口の端だけを持ち上げてみせた。
以前に見た映画を思い出す。あまりにも暇な土曜の午後、先輩に勧められていたのを思い出して借りてきたのだ。大まかな内容としては赤い服の幽霊に付き纏われるもので、主人公は本当に危険なものには手遅れになるまで気づけなかった。それは日常と記憶の皮を巧妙に被って寄り添っていたからではあるが、露わになった時にはすべてが手遅れだったのは惨いと思った。
「でもさ、分かるのも気づくのも難しいんだよな」
先輩の問いかけとも感想ともつかない言葉にどう返すべきか分からず、俺は黙ってその血色の悪い顔を見つめた。
「ホラー映画でさ、幽霊とか出てくるやつ。その幽霊、ざっくり分けると二種類だと思ってさ。ひとつは、死んだことを分かっていて、それでも消えたくなくって、恨みとか未練とかそういうので暴れたりやらかしたりしてる。そうしてもひとつ、死んだことも分からないからどこにもいけなくて、でもそれにも気づけないから、とりあえず生きてたときと同じこととか、やりたいことを繰り返してる」
馬鹿みたいなピースサインに立てた指をひらひらと振って、先輩は俺の答えを待つように黙った。
主張の内容は何となく分かる。俺の見た映画のやつは前者だろう。明確な動機を以て凶行に及ぶものはやはり恐ろしい。
ただ後者、無自覚故に生者のようなふるまいを繰り返す幽霊については、恐ろしいと思うより先に哀れに思えた。
迷子のようなものだろう。自力で家に帰れる確率も、親切な案内人に助けてもらえる確率もほとんどない。迷子を自覚していない以上、どんな助けの手も届かないのだ。自分が問題を抱えていることに気づけなければ、解決する手段には辿り着けない。
「夏の心霊番組とかで、そういうの出てくるじゃん。突然過ぎる自分の死に気づいてなくて、彷徨ってたりする幽霊」
「ありますね」
「この辺だっているかもよ、そういうの」
突然に振られた話にぎょっとして先輩を見返す。
そんな俺の反応を楽しんでいるのか、片目だけを細めて先輩が続けた。
「近所なんだろ家、知ってると思ったけど。交通事故、先週あったろ? レンタルショップの近くで」
「ああ。夕方くらいでしたっけ、凄い雨降ってた土曜日……」
言われた瞬間、ひっきりなしに鳴っていたサイレンを思い出す。薄暗い部屋でだらだらとスマホを眺めていた耳には、猛烈な雨音の合間に滲むその音が悲鳴のように聞こえた。
「俺と同い年だったんだよな、高校生でさ」
「休みの日に何してたんですかね」
「レンタルショップだよ。借りて帰る途中だったって、聞いたけどな。返せなくなっちゃってるけど」
こういうのって店側は延滞とかつけるのかなという先輩の問いを聞いて、俺は無難な相槌を打つ。そういえば週明けの学校で行われた緊急朝礼で、被害者の名前を聞いたはずなのに思い出せないことに気づいた。
遠くで雷が光る。長い間を置いてから、唸り声に似た音が響いた。
「誰でしたっけ、死んだの」
「知らない。興味あるの?」
先輩が黒い目を瞠って俺を見た。
その目に映り込んでいるだろう俺の顔を見るのが嫌で、頷くようにして視線を下に向ける。
「そいつも、そこで死ぬなんて思ってなかったろうな。普通に生きてて普通に歩いてて、それで突然死んだってさ……想像できないだろ。経験したことないしな、事故」
轢かれたくらいで人間って死ぬもんかねという先輩の問いに俺は首を振る。どういうわけかは分からないが、はっきりと答えるのが怖かった。
俺も事故の経験はない。死にかけた人間も、死にそうな人間も、死んだ人間も――現実で見たことは一度もない。だからきっと分からない。いつか致命傷を負ったことさえ気づけない、はずだ。
いつか見た映画のように、気づいた頃にはすべてが手遅れになっているのだろう。どうせ助からないのなら、ぎりぎりまでは知らないふりをしていたい。苦しむ時間は短い方がいい。
生温い風に頬を殴られて、俺は線路の方を向いた。
夕立の空はやけに眩い灰色で、雨音は耳鳴りのようだ。
電車の来ない線路は雨に覆われ頼りなく霞む。
吼えるような雷の音も無作法に走り去る車の音も、全てが雨音に塗り潰されていく。
「話したいこと、たくさんあるからさ……電車が来るまで、な? 付き合ってくれるんだろ、■■くん」
俺の名前を呼んだその声さえも飲み込んで、夏の雨は降り続く。
ここで君だけ待っている 目々 @meme2mason
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