☆KAC20235☆ 青春の1ページ (桜井と瀬田④)

彩霞

明日は筋肉痛

 暦では秋とはいえ、まだ日差しが強い9月上旬のこと。森山舞は、手に持ったソフトボールを見せながら雄一に言った。


「雄一、その投げ方だと肘も筋肉も傷めるよ。投げるときはこう! 肘を前に出してからボールを手から離す!」

「わ、分かりましたっ……」

「『分かった』でいいって。バイト先じゃないんだから、タメ語でよろしく」

「わ、分かったっ……」


 びくびくしながら答えた雄一は、右手に持たされたソフトボールを、10メートルほど離れたところに立っている瀬田に向かって投げる。すると投げたボールは柔らかな弧を描いて、瀬田が構えているグローブの中に綺麗に収まった。


「ナイスボール!」と瀬田は声を掛けてくれると、雄一の傍で投げ方の説明をしていた舞も「おーっ」と言って拍手をした。


 現在雄一は、彼と同じ大学に通いバイト先が一緒である舞の指導の下、公園に併設されているグラウンドでソフトボールの練習をしていた。


 何でも、彼女の町内会でソフトボール大会があるのだが、メンバーが足りなくて困っていたらしい。助っ人ならどこにでもいそうだが、試合の時期がシルバーウイークなのだ。当然町内会の大会になど出る若者などおらず、相手チームであり同級生の瀬田に仕方なく頼ったところ、雄一の名が挙がったという。


 選ばれた理由は分からない。しかし彼のシルバーウイークは、何も予定が入らなければバイトか家で自主学習をしているだろうし、こんな風に頼られたこともなかったので「僕で良ければ……」と前置きしてから依頼を受けたのだった。


「上手いじゃん!」


 舞は、花が咲いたようにパッと笑う。瀬田と出会ってから、不思議と雄一の醜い顔を恐れない人がぽつり、ぽつりと現れるようになっている。そして舞もその一人だ。


「小学生のころ、少しだけ野球をやっていたことがあったので……」

 俯いて答えると、舞は真剣な表情でバシッと雄一の腕を叩いた。

「何故それを早く言わない! マジで適任じゃん!」

「そ、それは……」

 

 といって、雄一は押し黙る。

 小学生のとき一年間だけ野球クラブに入っていたのだが、ここでも顔が原因でやめることになった。

 しかし父親が息子を可哀そうに思ったのか、よくグラウンドがある公園に連れて行ってくれてキャッチボールの相手をしてくれた。仕事で疲れていたであろうが、息子が飽きるまでずっと付き合ってくれたのは、雄一にとても良い思い出である。

 だが、チームで試合をしたことはない。そのため、野球をやったことがあると言っていいものか分からなかったのだ。


 何も言わない雄一に対し、舞は敢えて何も言わず、その代わり瀬田に「投げて!」と言ってボールを貰うと、雄一のグローブに入れた。


「野球やってたってことは、ソフトのルールも何となく分かるよね?」

「え? あ、はい……」

「それで十分。軟式とはボールが違うから、まずはキャッチボールをして慣れよう」


 そう言うと舞も雄一から距離を取り「投げてー!」と言った。


「……」


 雄一は「上手く投げられるだろうか」とか、「さっきはまぐれだったんじゃないか」とかぐるぐると考えていたが、「早くー!」という舞の声に意を決めて、10メートルほど離れたグローブに向かってボールを投げた。


 するとボールは彼女が構えたグローブから、大きく逸れてしまい、舞の後ろに行ってしまう。


「ごめん!」


 絶望的に謝る雄一に、ボールを取りに行った舞は「オッケー! 大丈夫!」と明るい声で言い、今度は瀬田に投げる。瀬田が取ったら雄一に。そしてあっという間に雄一の番が来る。


 しかし、また下手な投球をしてしまうのではないだろうか、と不安になる。折角頼ってくれたのに、下手なせいで「もういいよ」と言われるのではないか。それは嫌だな……と一人でぐるぐる思っていると、舞が大きな声で言った。


「ゆーいち! リラックスだよ、リラーックス! 筋肉が強張ってると上手く投げられないから力抜いて! 上手い下手とかはまずはいいから、しっかり呼吸して投げてみなー!」


 そして彼女はグローブを構えてくれる。雄一はそれをみて思わず泣きそうになった。

 子どものときみたいに、投げたボールを取ってもらえないようなことはないのだと、失敗してももう一度チャンスをくれるんだと、そう思ったら無性に胸がいっぱいになった。


 雄一はTシャツの袖で汗を拭くふりをして涙を拭うと、一度肩に力を入れて脱力する。これを何度か繰り返し深呼吸をすると、体のなかで無駄な力が抜けるのである。


 彼はもう一度舞の方を見ると、彼女が構えてくれるグローブに向かって投げる。すると瀬田に投げたときと同じように弧を描き、きちんと舞のグローブに入った。


「ナイスロー!」

「ナイスー!」


 ボールを取った舞はもちろん、瀬田も言ってくれる。雄一は二人の掛け声のお陰で、少しずつ自信を持って投げられるようになっていった。


 投げる回数が増えてくると、徐々に三人の距離も離れる。投げる飛距離を伸ばすためだ。20メートルくらい離れただろうか。

 これくらいはワンバウンド無しで投げられるが、その代わり雄一たちの投げる威力も上がる。するとボールがグラブに収まるときに、パンッ! といい音が響く回数が増えてくる。


 最初は大きな声を出すことに抵抗があった雄一だが、瀬田と舞の掛け声を聞いているうちに、次第に自分もちゃんと言えるようになっていた。

 ボールを取ってくれたら感謝の気持ちも込めて「ナイキャー!」といい、上手いボールをもらったら「ナイスロー」と言う。失敗しても「大丈夫だよー!」「ドンマイ!」と声を掛けてくれる。

 そのうちに雄一は、三人でのキャッチボールを楽しんでいた。


 20分くらいやっていただろうか。ひと汗かいたころ、「休憩しよー」と言った舞が、雄一に近づくと笑ってこう言った。


「何だ、笑えるんじゃん」

「へ⁉」


 驚く雄一に、瀬田も「本当だ、笑ってる」といっていつも通りの爽やかな笑みを浮かべる。

「全く笑わないから、表情筋がないのかと思ってた」

「舞」

 悪気はないのだろうが、言い方がよくないと思った瀬田が彼女の名を言ってたしなめる。

 しかし今まで笑わなかったのは事実である。笑わなかったのは、笑うと「怖い」とか「気味が悪い」と言われたことがあるからだ。

 雄一はそれ以来、あまり表情を表に出さなくなった。相手を不快にさせる気は全くないのに、嫌な気分にさせて自分が辛い思いをするくらいなら、いっそ笑わなければいいと思っていたからだ。そして、笑うことをしなくなると、それ以外の感情、怒りも、悲しみも、喜びも、嬉しさなども表に出さなくっていた。


「ごめんって。でも、楽しかったんならよかった」


 にこにこと笑う彼女を見て、雄一はゆっくりと頷いた。


「うん、楽しかった」


 グローブを左手から外すと、手がじんじんする。でも、こんな風なワクワクは生まれて初めてかも知れなかった。


「瀬田君のボール、重かった」

 すると舞が左の手のひらを見せて言う。

「それ言うなら、雄一のも重かったよ。私、手がびりびりする」

「ご、ごめん!」

「いやいや、それくらい上手かったってことだよ」

「それ俺も遠回しに褒められてるな」

「あんたにこれ以上上手くなってもらうのは困る。相手チームなんだからな、下手になれ」

 ふふふと悪い顔をして笑う舞に、瀬田は余裕の笑みを浮かべ「敵に不足無しだろ」とさらりと言う。

「言ったなぁ。絶対に叩きのめして、高いアイス買ってもらう! 雄一のもだからね、忘れるなよ」

「望むところだ」


 変なやり取りに舞がくっと笑い始めると、三人はそろってけらけらと笑う。それが収まると舞はスポドリが入ったペットボトルを開けながら「明日は筋肉痛だなー」としみじみ言った。


「うん、そうだね」


 雄一は頷く。この痛みは、きっと楽しかった思い出に代わるに違いない。


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