ノクタンビュール

深川夏眠

noctambule


 妻がムックリ起き上がった。ああ、またか。彼女の気配で僕の目も覚めてしまう。彼女は部屋着のような寝間着の上にコートを着込んで身支度する。そのままサッサと出て行きそうなので、咳払いして引き留めた。

「ごめん、起こしちゃった?」

「うん。少し待ってて」

 春とはいえ深夜は寒い。何だってわざわざ温かい寝床を抜け出さねばならないのか。しかし、若い女性をこんな時分に一人歩きさせるのは忍びない。

「じゃあ、行きますか」

 僕があくび混じりに促すと、彼女は少しだけ申し訳なさそうな顔をした。


 結婚して丸四年。新婚当初は気づかなかった。一周年頃、妻の様子がおかしいと察した。春先、彼女は深夜に徘徊する。最初は誰かと密会しているか、さもなくば深刻な病の症状なのかと疑ったけれど、違うらしい。せんしゅんとこに就いてもなかなか寝付けず、眠ったとしても妙な夢に魘されて飛び起き、夢の内容はすぐ忘れてしまうのだが、何ものかに呼ばれている気がして落ち着かず、答えを求めてそぞろ歩かずにいられないのだという。

 それは寒暖差や気圧の上下やホルモンバランスの乱れなどから来る、思いつめず安静にしてやり過ごすしかない不定愁訴の一種ではないかと愚考するが、同行することで一定の理解を示すのが夫として最善の対応だと思い至り、眠い目をこすりつつ夜中の住宅街をブラブラ散策する羽目になった。これさえなければ最高に素敵な奥さんなのだけど……。

 僕はふと、早咲きの桜が評判の公園を思い出した。ライトアップなどされていないはずだが、月明りで風情を楽しむのも悪くない。そこへ行って自販機で温かい飲み物でも買って一服しようと提案した。妻は素直に頷いた、が――。

「前から気になってたんだけど。ちょっと変な名前じゃない、この公園」

「うん?」

 ベンチに座ると妻が言った。すぐさま出入口に戻って確かめるのは億劫だったので、僕は腰を上げなかった。

「あたし、ずっと遠回りしてた。真っ先にここへ来るべきだったのよ」

「何の話?」

 妻はココアの缶を置いてスタスタ歩き始めた。緑地の中心部にある築山に向かって、どんどん速度を上げていく。僕は慌てて後を追った。すると、上空がほんのり明るくなるのがわかった。おぼろづきに誘われたか、編隊からはぐれたとでも言いたげな、どこか寂しい風情の丸い飛行物体がホバリングしていた。妻の春眠を領する夢を横断していたのは、こいつだったのか。

 ややあって、淡いスポットライトのような光が降ってきた。トラクタービームだ。妻は天井から吊り下げられた子供じみたオブジェに触ろうとする調子で両腕を伸ばした。僕は妻を奪われまいとして、彼女を地上に繋ぎ留めるために精一杯の力で背中から抱き竦めて動きを封じた。

 夜空が微かに波打っていた。妻は声を出さずに唇を動かしていたかもしれない。深海のクラゲに似た孤独な飛翔体は、短い別れの挨拶めかしてシグナルランプ――と思われるもの――を数回、点滅させた。次の瞬間には見えない巨大な手に拭き取られたように消えていた。


 どれくらい、そこに立ち尽くしていたろうか。妻が「寒い」と呟き、我に返った。すっかり冷めてしまったココアを飲み乾し、空き缶をゴミ箱に捨て、僕らは公園を出た。

 去り際に振り返って銘板を見ると〈まるいた公園〉と記されていた。ひょっとして、元は「」という名前だったのではないかと、ぼんやり思った。

 ずっと昔から、妻と同様、宇宙をさまよう孤独な心に共鳴する優しい人が、ここで束の間、切なさを受け留めてきたのかもしれない……と。



              noctambule【FIN】



*2023年3月書き下ろし。

*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の遁走曲フーガ』にて

 無料でお読みいただけます。

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts

⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/unxN2mWI

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ノクタンビュール 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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