深夜にしか食べられないモーニングを出す喫茶店
凪司工房
※
温かくなってきたとはいえ流石に月も出ていない暗闇が支配する春先の路地は、風が冷たい。それでも私は小さな提灯を手に、歩き慣れた細い路地を歩いていた。京都の街にはこういった小さな路地が血管の静脈のように張り巡らされている。中には毛細血管のような本当に狭い、人間がすれ違うことすら難しいほどの裏路地もあり、散歩の途中でふらりと入ってみると掘り出し物の店が見つかったりするから、やはり散歩というのは辞められない。
その店もやはり、そんな狭い脇の裏路地の奥で、ぼんやりと明かりを灯していた。
私はそろりそろりと
しかし今は月も見えない真の夜。それでも
「いらっしゃいませ」
中は三十ほどの席があったが既に満席だ。私は気の好さそうな若い男性の店主にカウンター席に案内され、そこで「モーニングを」と口にした。
「はい、モーニングですね。かしこまりました」
かしこまられてしまった。やはり暖簾を出しているだけあって深夜だろうとあくまで「モーニング」と言い張るつもりらしい。
改めて店内の客を見ると年齢は二十代から六十代、いや七十代くらいだろうか。結構幅広く、男女の割合もほぼ半分といったところだ。子ども連れはいないものの、どの客もまるで宴会場のように賑やかに楽しんでいる。だがそのテーブルに並んでいるモーニングのプレートを見て、やや奇異に感じた。ご飯用のお椀が一つ、汁物用の
しかしそのコップを客の一人は笑いながら手に取り、中身があるかのように口に持っていって傾ける。喉がごくりごくりとうねったが、その頭髪の薄くなった男性は水分を取れているのだろうか。
私は
「お待たせしました。ご注文のモーニングです」
店主はにこやかに笑みを見せ、私の前にその空っぽの什器ばかりが載せられたプレートを置いた。
「すまないが、ここに載っているものは何だろうか」
「あれ? ご存知ない?
「いや、西京漬けは私もよく食べる。ただ、今ここには何も載っていないだろう?」
その一言を口に出した瞬間に、店内のざわつきが止んだ。見るとどの客も私を凝視している。先程まであれほど楽しそうにしていた人間たちの姿はどこにもない。
「お前、はじめてか?」
眉を寄せた皺深い顔で私にそう言ったのは六十代くらいに見える男性だ。つい十秒前まで一番大きな声を出して笑っていたのではなかったか。
「この店は初めてだ。いや、こんな風に空の器を出されたのは初めてですよ」
皮肉を載せて返してやったが、その返答には男だけでなく、他の客も可哀想なものを見る目で私を黙って見る。
「あの、お客さん」
「深夜にモーニングというのもどんな冗談か知らないが、この店はあんたも客も私をからかっているのか?」
「いえ。まだ、お気づきになられていないようで」
「気づく? 一体何にだ?」
と、入口の木戸が開けられた。入ってきたのは頭をすっぽりと覆う籠を被った、いわゆる
その僧が手にした小さな笛を吹くと、店内に
「何なんだ」
憤りの声を漏らした私だが、次に目を開いた時には別の意味で同じ言葉を口にしなければならなかった。
――何、なんだ。
そこは喫茶店ではなかった。朽ちた
「あんたの手、見てみなさい」
――手?
言われて視線を自分の右手に落とすと、そこには肉のない、骨だけになった私の手が見えた。
手は骨ではない。しっかりと箸を握り、鰆の身を摘んでいる。それを口に入れると脂と共に甘い香りが広がった。
懐かしい。それはもう二度と食べられないと思ったあの西京焼きだった。
「泣くほどに美味しいですか?」
「ああ。もう味わえないと思っていたんだ……何故なら私は」
――その先は口にしなくてもいいです。
店主は笑顔を見せると、コップに水を注いでくれた。ゆらゆらと揺れるその水面を覗き込むと、私の顔はもう映っていなかった。それでも分かる。今の私は笑っているだろうと。(了)
深夜にしか食べられないモーニングを出す喫茶店 凪司工房 @nagi_nt
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