第十章 歌声は存在しない空に響き渡った③

 長く経った後、月面車は一つの建物の傍に止まった。


 エーデルは「地面の砕石に気を付ける」というようなジェスチャーを打って、率先に車から降りて、不器用に人差し指でパスワードを入力し、金属の大ドアを開けた。


 私たちはまず小さな区画内で宇宙服の月塵を洗い流し、モニターの上に示した月塵の濃度がゼロになり、そして発電所内の酸素濃度が「正常」になったら、次の部屋に入った。


 私はヘルメットを脱いで、少し緊張したように軽く息をした。


「ほら、問題ありません」エーデルは歯を見せながら微笑んで、わざと大きく呼吸をした。


 私は呆れたように彼を睨み、素早く宇宙服を脱いだ。


 発電所内の通路は狭く、両側には金属網と様々な大型機械があり、止まらずに作動し続けていた。太陽光発電の電力は、床に敷設されたパイプを経由して月海基地に送られた。しかし私たちの目標は隅にある格納庫だ。


 とは言え、私たちが脇の廊下からブンブンと鳴った多くの機械を通り抜けると、意外にも格納庫のドアの前に立っている一人の姿が見えた。


 それはレオンスタだ。


 彼はさっぱりとしたスーツを着て、右手は腰につけている軍刀に当てて、私たちがここに来ることをわかったような顔を見せた。


 エーデルは思わず眉をひそめたが、私は率先して前に出て、胸を張ってレオンスタをじっと見つめた。


「……『天穹姬』の妹さん、退いてください」


「私の名前は千華だ」


 レオンスタは微かに眉を上げて、軍刀の柄を私に向けた。


「あなたは勝手に月に入り込んだ侵入者、エーデルがわざと真相を教えて、その上抜け穴を見つけて、あなたに永住権を獲得させてなければ、規定によれば直ちに追放する必要があります。それでも、あなたはまた規定を破って、勝手に離るつもりですか?」


「私はそんな要求を申したことがない」


「これはルールです」


「でもそれは月人にとってのルールだろう。私は小惑星人」


 レオンスタは「小惑星人」のせいで焦った顔を見せ、「今月海基地に戻れば、二人がうっかりと迷子したということにします。改めて外出申請を提出すれば問題ありません」とあっさりと言った。


「私はここを離れる」


「もしこの条件を受け入れたくないのなら、視察官として放っておくわけにはいきません」


 レオンスタは威嚇するように半分の軍刀をわずかに引いた。


 刃が鞘の中を滑った音は、発電所に響き渡った。


 私は平静として反射した銀色の刃をチラッと見て、「視察官様は私が生活している小惑星基地には『天空教団』という組織が居ることを知っているのか?」と口を開いた。


「時間を稼ぐつもりですか?」


「殆どの月人は同じように天空を信仰し、そのために祈りを捧げた。興味深いとは思わないのか?」


「戯言に付き合う暇はありません」


 レオンスタは厳しそうに言って、エーデルに軽率な行動を取らないように視線で警告した。


 エーデルは手を半分に上げて、投降したような姿勢を取ったが、同じように疑惑に思いながら私をじっと見つめた。


「客室に住んでいる数日間、私は暇の時間を利用して、図書館で関係の書籍を調べた。月の天空信仰はもう数百年間の歴史があり、最初の教義はかなり単純だった。しかし時代の変化につれて、多くの詳細が増え、たくさんの流派も生み出した」


「何が言いたのですか?」レオンスタはイラっとして尋ねた。


「私は小惑星基地の天空教団と月の天空信仰には共通なところがあると思った」


「……基地ごとにそれぞれの信仰があります。俺たちはそれに対して尊重し、干渉はしません」


「もし小惑星基地の天空教団は地球がもう滅びた真相を知っているのなら?」


 レオンスタは驚きを隠せずに目を見開いて、「そんなのあり得ません」とすぐに言った。


 私はもう一度前に一歩踏み出した。


「月には小惑星基地を管理する責務があり、視察官は定期的に検査のために派遣され、地元の人と交流を行います。月で生まれた天空信仰が小惑星基地に広まったのも理にかなっています」


「それと真相と何の関係がありますか?」


「信仰が広まったのなら、他の情報は広まずにいられるのだろうか?」


「だからあなたは何の証拠もありません」


「そうだね。しかし天空教団の教徒たちは青色を神の色と主張し、私たちのような凡人はそれに対して敬意を払い、祈りを捧げる必要がある。それは心に希望を湧かせるもの、そして精神の支えになったものだ。だから地球が滅びたかどうかは、そう重要なことではなかった」


 私は真っ直ぐにレオンスタの両目をじっと見つめて、厳しい顔で「だって空は私たちの心の中に存在している。私たちは空の存在を信じている」と言った。


「……それがどうしたのですか?」


「真相を知った人々はまだ空の存在を信じているのなら、あなたはどんな理由を使って私が離れることを禁止するのか?」


 レオンスタは一瞬、言葉に詰まらせた。


 軍刀の柄を握っている指は、力がこもり過ぎたせいで微かに震えていた。


 とは言え、レオンスタはすぐに頭を振って、「それはただの詭弁、何の意味もありません」と言った。


「例え私が本当に言いふらしたとしても、他の人は素直に信じると思う?視察官様はあまり心配しなくとも、それは無数の基地の間に伝わる噂話の一つになり、例えば宇宙空間に生活している未知のモンスター、無限のエネルギーを生み出せる特殊の鉱石や流行性の熱病のせいで地球を封鎖したといった噂話にしかならないから」


 私は少し止まって、「小惑星人である私が一番よく知っている。一部の人は異様に気づくかもしれないが、殆どの人々はそれを噂話として扱うばかり……私たちが生活している世界に空はあろうとなかろうと、殆どのことは変わらない」と言葉を続けた。


 私はわざと「小惑星人」という言葉のボリュームを増やした。


 レオンスタはもう一度軍刀を強く握り締め、「それがあなたの答えですか?」と低い声で尋ねた。


 驚いたことに、これが初めてレオンスタが自分に向き合ってくれたことに気づいて、彼の目が濃い青色であることにも初めて気づいた。姉の澄んだ空色と違って、それはもっと深い海色だ。


「……あなたが無事にここに居られたのは、元はと言うと『天穹姬』であるゾイさんのお陰です。俺たちもそのことを考慮して、特別に永住権を与えることに同意しました。それはあなたが生活している基地の住民が一生を掛けてもなかなか獲得できないもの、なのにあなたはいとも簡単に捨ててしまうのですか?」


「これは私の答え、お姉ちゃんとは関係ない」


「彼女は賢い。もしかしたらもうこのような発展を予想できたのかもしれません。例えエーデルの勝手な行動がなくとも、俺たちも規定に従って『真相を知った天穹姬と唯一会ったことがあるあなたを連れて月に帰還します』。高官の中では一部のメンバーはあなたを被害者と考え、補償として永住権を与えべきだと考えています」


 そのことは初耳だけど、私は思わず笑顔を見せた。


「それは私の自慢なお姉ちゃんだもの、予想した可能性はあったのかもしれない」


「それなら──」


「しかし、あなたの結論は間違っていた」


 私は揺るぎのない口調で口を挟んだ。


「お姉ちゃんは彼女の行動のせいで、このような結果に導くことになったことを予想したとしても、永住権を獲得するためではない。お姉ちゃんと私は一度も空が見えない場所に長期的に滞在するつもりはない」


「だからあなたは離れることに決めましたか?」


「そうだ」


 レオンスタは強く歯を食いしばって、暫くしてから軍刀を鞘の中に収めて、横向きに道を開けてくれた。


 私は会釈してお礼をし、手を伸ばして格納庫のドアを開けた。


「まさかレオンスタを説得できるとは、流石です」


 エーデルはすぐに後について、興奮を隠し切れずにそう言った。


 私は振り返って発電所を離れるレオンスタの後ろ姿を見て、「あの人は私たちが月海基地を離れることを知っているって、あなたなら当てたはずだろう。まさかあなたは何の準備もしてなかった?」と呆れたように尋ねた。


「僕はとっくに説得するという選択肢を諦め、妥協したふりをして、隙をついて直接これを使って気絶させます」


 エーデルはコートのポケットの中からスタンガンを取り出し、見せるように少し振った。


「あなたは自分の行動の結果を気にしない人だ」


 私は思わずため息をついて、深呼吸をしてから、「あの時の事故……お姉ちゃんが不用意に月塵を吸い込んでしまった事故、その場にいた担当者は誰なのか?」と小声で尋ねた。


 エーデルは苦笑いをして、答えなかった。


 しかし、それは真相を認めたのと同然だ。


 私は同じようにこの話題を続けず、格納庫の中央に止まっている軍用の機動哨戒艇をチラッと見て、辺りを見渡しながら「そうだ、一つ忘れたことがあった。ここは発電所なら、月海基地まで繋がったパイプがあるはずだろう?」と尋ねた。


「ありますよ」


 エーデルは困惑しながら眉をひそめ、何でそれを確認したのかと言わんばかりの表情を見せた。


「そのパイプの中に音声通話はあるのか?」


「月海基地から独立した建物は全て緊急連絡装置が設置されています。定期的に専門な技師がメンテナンスを行うので、問題はありません」


「つまり連絡装置を開ければ、ここの声は月海基地まで届けられる?」


「専任の職員が応対するが、万が一の場合を考慮してチャンネルを切り替えることができ、月面車、宇宙服と月海基地の電子装置は受け取ったら、お互いに通話が可能です。この発電所は新しく建ち上がったものなので、含まれた範囲は一番近いハーミス基地だけでなく、他の九座の月海基地に繋げる可能性もあります」


「それならよかった」


 私は早足で壁の傍に歩み寄り、迷いもなく保護ケースを開けて、通話ボタンを押した。


 エーデルは私を止めようとしたけど一歩遅く、右手は空中に止まった。


 私は一口深呼吸して、口を開いて姉の歌を歌い出した。


 歌声は発電所の中に響き渡った。


 お姉ちゃん、私は私たちの約束を守ったよ。


 今、私は月に立っていた。


 私たちが見たかった空がなくとも、むしろこの宇宙にはもう青い空が見える場所がないと言った方がいいだろう。それでも、地球が滅びたとしても、あるものは今もなお残り続けている。


 お姉ちゃんは、歌う時は胸を張って、顔を上げると言ったのを覚えている。


 そのほうが声がうまく届けられる。


 歌声の中に含まれている思いが順調に、遠くまで届けられる。


 姉の歌こそが希望だった。


 それで救われる人が一人でもいれば、それはかなり大したものだ。


 例え地球が滅んだとしても、姉の歌声は人々の心の中に残り続ける。見たこともないのに、全ての人が知ったような青くて澄んだ、広い空のようだ。


 三分の歌はすぐに歌い終えた。


 こんな風に真剣に歌ったのは初めてで、私は遅ればせながらも自分の前髪は汗によって濡らされ、体もかなり疲れた。私は楼閣のステージで何曲も歌い続けてもなお笑っていた姉のことにもう一度感服した。


 その直後、拍手が起こった。


「これは素晴らしい歌です」とエーデルは真剣に言った。


「もちろん!これはお姉ちゃんの歌だ」


 私は誇りに思ったように胸を張った。


「お姉ちゃんがあなたに単独で歌を歌ってあげるという『約束』、妹である私が代わりに遂行した」


「ありがとうございます」エーデルは少し止まって、「さっきは録音し忘れました。もう一度歌ってくれませんか?」と苦笑いをしながら尋ねた。


「思い通りにはさせないよ」


 私は思わず口角を上げて、素早く軍用の機動哨戒艇に入って、操縦席に座った。


 艇内の構造と操作システムは前に操縦したのとほぼ同じ、かなり掴めやすい。


 私が各機能を順番にチェックしている間、エーデルは隅から何個かの鉄のボックスを運んで、艇内の収納棚に収めた。


「これは月海基地が生産した宇宙食と水、軍隊用の食糧としても使われており、品質はいいほうです。哨戒艇自体も燃料を満タンにして、一か月間の航行には足りています」


「ありがとう」


「どういたしまして。これで、巣枠で借りた費用を返済しました。その時はうっかりと飲用水を使ってシャワーを浴びてしまって、本当に申し訳ございません」


「もう許した」私は思わずそっと笑った。


 エーデルも同じように笑顔を出して、開けたハッチに寄りかかった。


「では、そろそろお別れを告げなければなりませんね」


「まさか月海基地で一生を過ごすつもりはないよね?」


「今回の失踪事件によって引き起こした影響は思ったよりもひどいので、少なくとも片付いた後から離れます」


「もし私よりも先にカールおじさんに会ったら、代わりに挨拶して」


「わかりました」


 私はうなずいて、最後の項目を確認し終えた後、「いつでも離陸できる。格納庫のゲートを開けてください」と厳しい顔でそう言った。


 エーデルは動かず、依然としてハッチの傍に立っていた。


「千華、知っていますか?『ラン』という文字は『あい』とも読めます」


「何で急にそれを話した?」


藍色あいいろの中にはあいが含まれています」エーデルは言葉を付け加えた。


「……わかったけど、私が聞きたいのは、何で急にダジャレを話し始めたのか?」


「ある時、ゾイさんがカウンセリングを受けていた時に、このようなことを話しました。急に思いついたように、楽しそうに話しました。今なら、あの時彼女が言いたかった意味をようやく理解できました」


 それを聞いて、私は思わず右手につけているスマートウォッチを眺めた。


 中にはそのカウンセリングの電子データを保存しているはずだ。


 例え月海基地を離れたら立体的な投影装置が使えなくとも、依然として姉の声が聞こえる。これからの長い旅の中、それが何よりも私を安心させた。


「今後、群青の歌姫……『空』の色を代表する歌姫は歌い続け、彼女の歌と物語は宇宙の中に伝わる。録音はさせなかったけど、また聞きたくなったらこの噂に従って、もう一度私を見つけて」


 私はエーデルの答えを待たずに、手動でハッチを閉じた。


 哨戒艇内はすぐにまた一人だけの狭い空間になった。


 エンジンを起動したらすぐに作動し始め、酸素供給、浄水システムも徐々に作動し始め、ブンブンとした音は耳元に響き渡り、急に巣枠に戻った錯覚を感じた。


 私はモニターをじっと見つめた。


 格納庫のゲートはゆっくりと開け、外の灰色の大地と燦々と輝く星空が見えた。


 私は胸の前にある藍色あいいろの花びらのネックレスを片手に握って、そっと歌を歌い、この哨戒艇を操縦して、もっと深くて広い、星が光り輝く宇宙に赴いた。

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あの青さを人々は神や希望、空と呼んでいる 佐渡遼歌(さどりょうか)/KadoKado 角角者 @kadokado_official

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