第二十章 始まった

 一般的に言って、両手を縛られていない人質の前を歩くのは賢明じゃない。でも私は、最初から何が起きるかなんて心配する必要がなかった。十人近くの冥官の敵意に満ちた視線の中で、果敢にも私に攻撃するなんて本当に命知らずでしかないからね。


 今夜が終わったら、殿主のところに行って絶対にかたを付けてやるんだ!ボディガードは嫌いだって言ったのに、彼らはアシスタントの名目で宋昱軒を私のそばに置いただけじゃ飽き足らず、後ろについて来ている緑の光の数はどういうことなんだ!私が十分前に虚勢を張ったとき、人数はおろか、近くにいた冥官が姿を現してその数で尹さんを威嚇するなんて思いもしなかった。


 なるようになるしかないか。


 夜の城隍廟は門が閉まっていたけど、廟内にはまだ明かりが灯っていた。城隍廟の石畳に足を踏み入れたとき、私は心底ホッとした。背後の尹さんは私とはまったく逆で、城隍廟を見るとまるで幽鬼でも見たかのようになって、たとえ殺されてでも廟内に足を踏み入れようとはしなかった。どうすることもできない後ろの緑色に不意に押され、尹さんはよろめいた。踏みとどまったときには、体はもう城隍廟のフェンス内に入っていた。


 ほとんど同時に、廟内の人工電灯の光が全部消え、背後の街灯までもが光を失った。路上で時おり聞こえていたバイクや車の音も、すべて消え失せていた。明らかに都会の小さな廟だけど、その暗さは田舎の森に匹敵した。突然、私と尹さんの足元で赤いろうそくの火が灯り、揺らめく炎は暗闇の中で唯一の照明になった。


「佳芬さん、」尹さんはちょっとためらいがちに言った。「これは……?」


 まるで尹さんの疑問に答えるかのように歩道の両側にあるろうそくに次々と火が灯り、私たちを城隍廟の裏庭へと導く通路を形成した。自分のホームということもあって、どんなに雰囲気がおかしくても城隍が私に害を及ぼすことはなかった。私は以前城隍とおしゃべりしに来たときみたいに、軽やかに本殿の後ろにある裏庭に来た。振り返ってこっそり尹さんを見るのも忘れなかった。尹さんが一歩踏み出すと背後のろうそくが消え、振り返る機会をまったく与えなかった。


 尹さんは見たところひどく震えているみたいで、明らかに緊張して怖がっているにもかかわらず平静を装っていた。でも普通の人間として、尹さんの代わりに言わなきゃなるまい。この怪しい廟を怖がらないというのはさすがに無理があるよ!


 裏庭に到着すると、石のテーブルの上で七、八本の赤いろうそくが燃えていた。城隍の言わんとすることは火を見るより明らかだ。ここに座れ、と。


 彼らはお茶とちょっとしたクッキーまで用意していた。


 ……冥官たちは私の指示を拡大解釈しているんじゃないの?


 席に着いたあと、私は尹さんと自分の湯呑みにお茶を注いだけど、尹さんは遅々として座ろうとしなかった。


「座って。石の椅子は綺麗だから、汚れを心配することはないよ」


 尹さんは警戒して私を見ながら言った。「佳芬さん、これには何の意味があるんです?」


「彼らなりのお客さんを歓迎するやり方だよ」私は言い終わるとクッキーをかじり始めた。ちょうど夜遅かったから、夜食を食べるのにはちょうどいい。「私に伝言を頼みたいんじゃなかった?今は環境も雰囲気もいいし、プロテクトの仕組みも一級品だから絶対に盗み聞きされることはないよ。何か言いたいことがあるなら早く言って。私は帰って寝たいんだ」


 尹さんはすぐには座らず、見えないように周囲を見回して敵の数を推測した。逃げるチャンスはないと悟ったかのようにようやく腰を下ろすと、まずは私にずっと気になっていたことを質問した。


「あなたはいったい何者なんですか?」


「あなたの手には負えない人間だよ」虚勢を張るにはこの手の周りくどい答えが最適だ。この言葉は事実だし、警告でもあると思うんだけどね。


「私に何の話を伝えさせたいの?」私はまた催促して言った。


 今回は以前みたいに遠回しではなく、口を開くやいなや本題を切り出した。「現在戦前最後の交渉が行われていますが、私は冥府が内境の条件を受け入れ、内境と戦争を起こさないことを望んでいます」


 フッ、これは冥府の皆が私に言いたくないことだね?今、内境関係者の口から出た言葉を通して、暗闇の中の冥官たちの嘆きが聞こえたよ。もし冥官が人を傷つけることができるのなら、彼らは間違いなく押し寄せて目の前のこの人間の口を引き裂くだろうね。


 尹さんが言った『現在戦前最後の交渉が行われている』というのは、これが事態を挽回する最後のチャンスだということを意味している。尹さんは本当に適任者を見つけたと言わざるを得ない。私が口を開けば、殿主たちは私のアドバイスに従って内境と戦争を始めることはないだろう。


「もしお前の弟と俺が水に落ちたら、誰を助ける?」


 閻魔はあの日、こんな風に私に聞いた。この言葉の意味はこうだ。


「人間と冥府、どちらを選ぶ?」


 あのとき私が弟を選んだのを聞いて、閻魔があんなに落ち込んだのも無理はない。でも私はまだ解せない。いったいなんで千年にも渡って続いてきた冥府と人類が戦を始めるのに、私みたいなこんな二十五歳の救急看護師の気持ちを気にする必要があるんだ?私の年齢は彼らの端数にもなりゃしないのに。


 私はきっぱりと答えた。「断る」


 尹さんは期待とまったく正反対の答えを受けても諦めず、こう聞いてきた。「どうしてですか?」


「簡単だよ。私には冥府の方策に干渉する何の権利もないんだから」私はまた強調した。「私は霊視能力のある人間に過ぎないんだよ」


「あなたには明らかにその能力があります」尹さんは不満げに言った。「あなたは冥官に命令することができますし、城隍に命令をすることもできます」


「私はただ『お願いする』だけで、あとは彼らの自発的な行為だよ」


「では彼らに『お願い』してくれませんか?」


「それはできないよ」


 尹さんは今でも落ち着いて理性的に私と対話している。「簡佳芬さん、もし内境と冥府が戦争を始めたら、双方に間違いなく深刻な人命の損失をもたらすことをあなたに理解してもらいたいんです。あなたの言葉で多くの人が救えるんですよ」


 感情的な揺さぶりをかけてきたか?私は相手にせず言った。「双方の人命の損失?間違えないで、人命が死傷するのは内境だけだよ。だから私に会いに来たんでしょ?あなたは、もし内境と冥府が戦争をすれば内境が悲惨な負け方をするのがハッキリとわかっている数少ない人だから」


 尹さんはついに我慢できなくなって両手でテーブルを叩いて立ち上がると、私に向かって大声で怒鳴った。「あなたも結果がわかっているのでしたら、どうして私たちに手を貸さないのですか?私たちはあなたと同じ人間なんですよ!」


 この大きな動作は冥官たちの敏感な神経にも影響を及ぼし、暗闇の中から五本の剣が突き出された。その剣先はすべて尹さんの首と背中に向けられていた。尹さんは冷気を放っている剣身を見つめながら動こうとはせず、矛先が首を傷つけることを恐れて慎重に呼吸をしていた。


「攻撃はしちゃダメ。全員下がって」私の声はあまり大きくなかったけど、その効果は顕著だった。冥官たちは声に応じて剣を収めたけど、長剣が鞘に収まる音は聞こえなかったから、ただ下がっただけなんだろう。


「尹さん、もう一度言うよ。私は『あなたも私も人間』だからといったくだらない理由で内境側に立つつもりはない。なぜなら長い間、冥府は内境を容認してきたし、内境は冥府の譲れない一線に触れてきたからだよ」


 内境は冥官を仕留めることさえ楽しんでいるんだ。


「内境と冥府が戦争するのを望んでいないのはわかるけど、なんでなの?」かすかな微笑みは相手の警戒心を解くことができるって言うけど、緊張した場面において笑顔は挑発と見なされるだけだ。だから次の言葉は至って厳粛に言った。


「なんで私に会いに来たの?」


 尹さんは初めて私に会ってからというもの、すごく積極的に私との接触を試みてきた。でも私にとってはまったくありがたくなかったし、時折冥官が介入してより面倒な状況になることもあったかもしれない。


「なぜならあなたは内境が間違っていることを知ってはいるけど、あなたの考えに耳を傾けようという『人間』がいないからだよね」私は尹さんの心の奥底にある考えをさらに深く掘り下げた。自分は城隍廟に自由に出入りできる数少ない内境関係者だ、って尹さんが前に言っていた。それはすなわち城隍が尹さんと仲良くやっていけることを認めているということであって、多くの内境関係者との違いを証明するのに十分だ。けどこの世界は『異なる人間』に対して優しいわけじゃない。


 尹さんは前に占いが特技だとも言っていた。だから内境が戦に負ける未来を見ることができたし、だから全力でその未来を変えようとしている。


 尹さんは私の推測に同意も否定もしなかった。うつむいて深く考え込む姿勢を保ったまま、急にコートのポケットに付いているバッジに興味を持ったみたいだった。その動作が意図的なのか無意識なのか、解釈によって大きく異なる。すべては尹さんが現在私を敵として扱うか、それとも中立の立場として扱うかにかかっている──尹さんが無邪気に私を友人と見なすとは思わない。根気よく私の後をつけ、私と冥府の交流を確認してから訪ねてきたという事実は、尹さんが頭脳明晰な人物であることを十分に証明している。もし状況に迫られていなかったら、間違いなくもっと観察を続けただろう。


 でもそれは、私がこの人間の口からこれ以上のいかなる情報あるいは供述を得ることも困難である、ということを意味している。


 状況に迫られて……じゃあもし別の道を探したら?


「じゃなかったら、私と取引をしない?」


「何の取引ですか?」尹さんはまったく興味を示さず、退屈そうに顔を上げた。


「もし戦争が始まったら、この戦争であなたを含めて十人を殺さないよう冥府に頼んでもいいよ。リストはあなたが提供したものに任せる」


 周りにいる冥官が不安そうにひそひそ話すと、緑色の光が揺れ動いた。


 尹さんは希望に満ちた目で私を見つめた。「本当ですか?」


「十人。それ以上は無理だよ」


「代償は?」聡明な尹さんは、当然これが代償不要の取引だとは思っていなかった。


「すごく簡単なことだよ」私は言った。「冥府側に加わること」


 目の前にいる内境関係者の表情は、希望から硬直へ、それから不信へと、瞬時に変化した。「私は人間です。冥府に加わることはできません」


「じゃあ残念だね。あなたの犠牲で九人の命と引き換えになるんだから、お得な話だと思うんだけどなぁ」


 結局、尹さんは答えることなく城隍廟を後にした。私も気にしなかった。どうせ尹さんは私の居場所を知っているんだし……私の視界から消えたあとに洗脳された可能性もあるけど、それは定かじゃない。三十分以内におさめたから、蒼藍が尹さんの記憶を改ざんするのに十分な時間はあるでしょ。


 薄気味悪かった城隍廟が本来の夜の城隍廟に戻り、裏庭の灯籠の穏やかな明かりが周囲を照らすと、ついにその場にいた冥官たちの本当の数が明らかになった……その数は百鬼夜行と言っても過言ではなかった。


「佳芬」


「あなたたちは今忙しいはずでしょ?なんで全員で来たの?」


 私が一番よく知っている閻魔だけじゃなく、十殿の殿主全員がこの小さな城隍廟に集まっていた。戦争が勃発しようとしている状況で、これは本当に賢明な行動とは言えない。


「どうしてだ?」


「どのこと?彼を丸め込んだこと?」


「冥府を支持したことだ」黒い顔の殿主はもう一度質問を繰り返した。「どうして我らの側に立つのだ?」


「私が高二から高三になった年の夏休みに起きたことを覚えてるよね?」


 十人の殿主は互いに顔を見合わせると、最後にいつも率直な物言いの平等王が言った。「それでなのか?」


「私はすごく恨んでるんだ」言うなれば、『あのこと』があって以来、私は完全に人間を信じたくなくなったんだ。


 私を見殺しにして逃げたのは人間で、私を地獄の入口から救い出してくれたのが冥府だ。私の命を救ってくれたという点だけで、私が冥府側につく理由は大いにあると思っている……私は最初から内境の人間ではなかった、ということだ。


「それよりあなたたち、」話題を変えると、私は振り返って腕を組み私よりも頭一つ背の高い十人の殿主を睨みつけた。「冥府が内境と戦争の準備をしていることを、いつ私に話すつもりだったの?」


 十人の殿主は互いに顔を見合わせ、誰も答えようとはしなかった。末殿の輪轉王が、隣の早く帰りたがっている冥官のことを覗き込んでいる光景も見えた。


 私は痛むこめかみを押さえた。「これからはカウンセリングの時間だから、殿主以外は城隍のあなたも含めてみんな退席して」


 指示を受けた冥官たちは、稲妻よりも速く去った。蛍の季節みたいにたくさんあった緑色の光は、跡形もなく全部消え去った。


 私はまず長いため息をつくと、あの事故以来呼んでいなかった呼び名を口にした。「十人のお兄ちゃんたち、あのときの事故が怖かったのはわかるけど、だからと言って私に何も言わないのはダメだよ。私を守るにしたって限度があるよ。私を守るために百人近い冥官を配置なんかして、戦争はどうするの?みんなそれぞれ少なくとも三百歳は越えてるんだから、もっと成熟した選択ができないかな?私はまだ二十五歳だから後ろにゼロを付けてもあなたたちより若いけど、理性的に考えることはできるよ。あなたたちにはできないの?」


「佳芬、我らはずっとお前を妹として扱って──」


「何度も言うけど、私はあなたたちの心理カウンセラーに過ぎないんだよ!」私は彼らに向かって怒鳴り声をあげた。「何年もの間、自分はもうあのときの五歳の女の子じゃないって証明するために努力をしてきたんだよ。拉致されたときだって、あなたたちの名前を呼びたくないから自分でなんとか切り抜けようとしたのに──」


 先日閻魔がカウンセリングに来たときに言っていた『宝物』って、私のことだったのか!あー、くそっ、あの日頭の神経が混線していたせいで思いつかなかった!


「あなたたちは冥府の十殿の殿主なんだよ!こんな風に私情に流されてたら部下はあなたたちのことをどう思って、冥官たちは私をどう思うのよ!?私のために内境と戦争を始めるなんて言わないでよね──まさか本当にそうじゃないでしょ?」


「違う!」秦廣が反論して言った。「我々と内境の関係はすでに百年もの間緊迫状態が続いていて、この数年で関係が悪化したのは事実だ。ただ──」


 私は秦廣の話を遮った。「ただ何?私の気持ちを気にしてるの?内境との戦争で私が困ることを心配しているの?」


「そうじゃない、佳芬、」閻魔が言った。「お前も知っているように、我らが人間を傷つけるのは重大なタブーだ。だが人間を傷つけずに戦争なんてできるか?我らも長い間悩んできた」


「……我らが人間を傷つけるのを、佳芬が嫌がるのではないかと心配する部分もあるしな」


「!」


「はい、はい、すまなかった。口を閉じるよ」王はジッパーを閉める動作を真似して唇をギュッと閉じ、話すのを止めた。


 この殿主たちめ……今度全員に『物理的治療』を与えてやろう。理屈じゃなく、単純に一人残らず目を覚まさせる必要があるでしょ!


 戦前の交渉段階に入ったということは、彼らはすでに人を傷つける覚悟ができているということなんだよね?それなら私もカウンセリングに口出しする必要はない。戦争というやり方で恩讐を理解するのはむろんよくない。でも私の知っている殿主たちはいつも温厚だから、きっと暴力以外のやり方も試して、やむを得ず戦争を始める決断をしたんだろう。


 ……冥官が人間を傷つけてはいけないという禁止令が解除されたら、この戦争はいったいどうやって終結するんだろうか?


「それで?戦前の交渉はどうなったの?戦争は始まったの?」


 閻魔は私を見つめながら、重苦しい言葉を発した。


「始まった」


(私、冥界で心理カウンセラーをやってます 第二部 完)

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私、冥界で心理カウンセラーをやってます 雙慧(ソウホゥイ)/KadoKado 角角者 @kadokado_official

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