真夜中に生きている。
深見萩緒
真夜中に生きている。
まどろみの中を歩くのが好きだ。
東京は眠ることがない街だ。日付が変わり、終電が通り過ぎてしまっても、街は変わらず喧騒を吐き出し続ける。
昼間ほどの生気はないものの、それは確かに生きているものの息づかいだ。街が生きている間、僕は死んでいるふりをする。そして息を潜めて、墓にも似た四畳半から這い出す機会を窺う。
眠ることがない街でも、まどろむ瞬間くらいはある。夜、街がうとうとと舟を漕いでいる隙を見計らって、僕は厚手のコートと共に、ひっそりと街に繰り出した。
目的地を決めるときもあれば、そうでないときもある。目的地を決めていても、歩いているうちに別のどこかへ行きたくなって、行先を変更することもある。
今夜は、高いところに上りたい気分だった。歩きながら、僕は考える。どこかのビルに入ろうか? いや、開いているビルの中なんて、起きているものがたくさんいるに決まっている。やめておこう。
では、閉まっているビルに上ろうか? いや、入るのが大変そうだし、それに、ビルほど高い場所でなくてもいい。もっと中途半端な高さのところがいい。
昔から、中途半端な人間だった。そうであるという自覚があった。何事にも熱心に取り組めず、かといってさぼることもできなかった。将来について真剣に考えることもできず、かといって楽観的に生きることもできなかった。
嫌いな人は、特にいない。好きな人もいない。誰かに嫌われることはない。でも、好かれることもまたなかった。
決して不幸ではなく、むしろ平凡に幸福な方だった。さりとてもっと幸福になる努力をするでもなく、不幸になるための自棄すらなかった。
中途半端な僕は、今日も深夜を散歩する。起きているわけでもなく眠っているわけでもない、中途半端な街のまどろみの中を歩く。
どこか、高すぎない高い場所。文明に照らされた薄い闇の中、頭に浮かんだのは、歩道橋だった。散歩道でときどき見かける、色褪せた薄緑色の建造物。何度か上ったこともあるので、高いけれどそんなに高くない、という条件を満たしていることも知っている。
歩道橋で良いか。ちょうど、少し歩いた先に、歩道橋の影が見える。少し早歩きで袂まで向かい、歩道の端っこに接続された階段から、中途半端な高さに上っていく。
階段の中ほどまで上ったとき、僕は足を止めた。生きているものの気配がある。よく目を凝らしてみると、歩道橋の上に人影があった。女の人だ。
歩道橋の真ん中に立っている。あそこに立ちたくなる気持ちはよくわかる。歩道橋の真ん中から、車のほとんど通らない車道を眺めるのはとても気持ちが良い。
でも、立っている場所はどうだってよかった。問題は姿勢だ。彼女は、真下の車道に向かって上半身を乗り出して、もう少しで手すりを越えてしまいそうだった。
僕の心臓が大きく跳ねた。心臓が跳ねるだけで、たとえば「危ない!」と叫んだとか、咄嗟に走り出したとかいうことはなかった。本当に僕は、どこまでも中途半端だ。
足跡を立てないように、こっそりと階段を上る。なぜだか、彼女に声をかけるまでは、絶対に見つかってはいけないような気がした。
階段を上りきると、今度は気配を殺しながら、彼女の隣に歩み寄る。僕に気が付いていないのか、それとも僕を無視しているだけなのか、彼女は何の反応も示さない。危険な体勢のまま、じっとしている。
「あの……」
何を言おうか迷った結果、夜のまどろみの中でなければ、きっと掻き消えてしまったほど小さな小さな声で「どうしたの」と言った。
少しの間があった。五秒、いや十秒だろうか。彼女は沈黙ののち、乗り出していた上半身を起こして、手すりのこちらがわにきちんと立った。
「こんばんは」
そして、彼女は平然と挨拶をした。
「こ、こんばんは」
彼女の超然とした態度に呑み込まれて、僕も挨拶をしてしまった。
暴れていた鼓動が、次第に冷静さを取り戻してくる。僕の気持ちにも余裕が生まれて、僕は街灯りに浮かぶ彼女の姿を、横目で観察する。
長い髪、青白い肌。Tシャツに綿パンといったラフな格好。こんな夜中にたった一人で、歩道橋の上で身を乗り出していた女性。挨拶をしただけなのに、僕に対して薄っすらと笑みを向けている。どこか浮世離れした女性だった。
そして僕は気が付く。彼女の背後に、白い花がある。簡素なラッピングをされた花は、歩道橋の欄干に立てかけられている。そこにいた誰かに捧げるかのように。あるいは、そこで喪われた誰かに供えるかのように。
「何してたの?」
僕が言うと、彼女は笑った。思いがけず、影の見当たらない笑顔だった。
「トラックが通るのを待ってたの」
次に何を言うべきか。僕はさっぱり分からなくなって、彼女の隣に立って、同じ方向を見た。真っ直ぐ車道が伸びている。向こうから車が来ると、ヘッドライトがぐんぐん近づいてくるのですぐに分かる。あれは乗用車。次のはタクシー。
「駄目だよ」
僕が言うと、「どうして?」と彼女が返す。
「トラックの運転手の人に、迷惑だから」
「迷惑にならなければ、死んでもいい?」
「……」
駄目だよ、と即答できればよかったのかもしれない。僕は黙ってしまって、その間にもう一台、乗用車が過ぎ去っていった。
「迷惑にならない死に方なんてあったのかな」
彼女が呟いた。それは独り言かもしれなかったけれど、もしかしたら僕に返事を求めているのかもしれなかったから、僕は「どうかな」と答える。
「ないと思う」
「生きてても死んでても、迷惑だね」
「そうかもね」
「あなたも?」
「みんなそうだよ」
たぶん。
彼女はまた、手すりから身を乗り出した。僕が背中を押したら、彼女は真っ逆さまに車道へ墜落する。それで死ねるかどうかは分からない。運悪く、あるいは運良く車が通ったら、死んでしまうかもしれない。
いや、本当に死ねるのだろうか。
「やっぱり、やめたほうが良い」
今度はきっぱりと言い切った僕の言葉に、彼女は身を乗り出したままで、首だけをぐるりとこちらへ向けた。
「どうして?」
「二度も死ぬ必要ないよ」
僕がそう言うと、彼女は僕の目をじっと見て、それから「そうね」と言った。
街がまどろんでいる。遠くから聞こえてくる誰かの怒声と、時おり通り過ぎる車のほか、息をしているものは僕だけだ。僕だけが、今この真夜中に生きている。
「あの花は、誰が?」
「わからない。昼間は、眠っているから」
まるで僕みたいだ。僕も、昼間は眠っている。夜になって皆が寝静まってからしか、僕は動き出せない。彼女もそうなのだ。事情は違えど、僕たちは同じものだった。
でもやっぱり僕は中途半端で、彼女の側には行けずにいる。
「あなたはどうするの?」
危険な体勢のまま、彼女が言った。
「生きて迷惑をかけるの? それとも、死んで迷惑をかける?」
三度、僕はまばたきをした。三度目のまばたきのあと、身を乗り出している女性の姿は、こつぜんと消えていた。
「どうしようかな」
ちゃんと生きることも、ちゃんと死ぬことも難しい。中途半端な僕には、どちらを選ぶにも決意が必要だ。まだ夜は明けそうにないし、もう少し散歩をしながら考えてみよう。
歩道橋の上を、冷たい風が吹き抜けていった。白い花を包んでいるビニールが、風に揺すられてガサガサと音を立てる。寒い。そういえばポケットの中に千円札があることを、僕は思い出した。
歩道橋を降りて、近くの自販機で缶のコーンスープを買った。千円札は小銭に変身し、ポケットはずっしりと重くなる。
あんまりポケットが重くてうっとうしいので、僕はもう何枚かの小銭を取り出して、自販機に突っ込んだ。ホットココアのボタンを押す。ガコン、と深夜を震わせる音と共に、熱い缶が転がり落ちてくる。
コーンスープをすすりながら、僕は再び歩道橋を上った。熱をもった液体が、食道を伝って胃の中へ流れ込んでいく。歩道橋を上りきると、僕はホットココアの缶を開けて、白い花の隣に置いた。
スープに温められた吐息が、夜の中に白いすじを描き、すぐに消えていく。低く重たい音を伴いながら、歩道橋の真下を、大型トラックが通り過ぎていった。
<終>
真夜中に生きている。 深見萩緒 @miscanthus_nogi
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