誘われて、真夜中を。

サトウ・レン

誘われて、真夜中を。

 午前零時を過ぎた真夜中の景色は、墨色に塗りつぶれてどこか陰鬱な感じがした。部屋からぼんやりと、一枚の窓を挟んだ空を眺めていた僕の意識を戻すように、電気ケトルのお湯の沸く音が聞こえた。それと同時に、空腹の音が鳴る。目の前には、カップラーメンが置かれている。受験勉強の時も、ゲームで夜更かしした時も、決まって僕の夜食は、このボリューミーな豚骨ラーメンだ。太るぞ、と友人に言われたこともあったが、僕が太って困るのは、その友人ではない。実家なら、怒る家族もいるが、一人暮らしの身に制止する声はない。


 お湯を注いで、待ち時間、僕は読み掛けの本を手に取る。しおりを使わず、本を屋根の形にして置く癖を見て、「まぁ他人の私が言うのもなんだけど、その置き方やめたら」と言った高校時代の同級生のことを思い出す。いつだって彼女を思い出すとせり上がってくる感情があり、僕はその感情に耐え切れず、そのたびに吐き気を覚える。


 こんな真夜中にインターフォンが鳴り、玄関のドアを開けると、そこには見知った顔がある。来訪者はいま考えていたばかりの、もう会うことなどない、と思っていた女性だった。


「久し振り。一緒に散歩でもしようよ」

 とちいさく手を挙げて、脈絡もないことを言う姿は、間違いなく彼女だ。どうしていきなり、と言おうとする僕の言葉をさえぎるように、彼女が続けた。「どうしていきなり、って顔してるね」と僕の心を読むように。


「散歩、ってどういうこと?」

「真夜中の散歩、もう冬ほど寒くないから、風邪も引かないでしょ」

「春だけど、まだ寒いよ」

「だけど私は何も感じなかったよ」


 そして僕は彼女にいざなわれるように部屋を出た。カップラーメンはきっと伸びてしまうだろうな、と思った。夜の空気はひんやりとしている。彼女とクラスメートだった頃、僕はまだ実家暮らしの高校生で、彼女は僕のいま住むマンションの場所なんて知らないはずだ。どうやって知ったのか、と疑問をぶつけると、さてどうやってでしょう、とはぐらかされてしまった。


 ちなみに僕の実家はここよりも田舎の同一県内にある。大学入学とともに、市内でひとり暮らしをはじめるようになったのだ。


「しかしあなたは」と彼女が言う。「私が会いに来たことにあまり驚かないんだね」

「驚いてるよ」

「普通はもっと驚くものだけど」


 街灯頼りの暗い道行きを、僕は彼女と横に並んで歩く。灯りに誘われた羽虫を見ながら、灯りが彼女なら、きっと僕はこの羽虫だろう、と思った。


「で、どこ行くの」

「真夜中に似合う場所でも行こうか。そうだね。公園とか」

「公園は真夜中に似合う?」

「似合わないね。じゃあ、そうだね。墓地でも行こうか。むかし、みんなで行った肝試し。覚えてる?」

「うん」


 忘れるわけがない、と思った。彼女と関わりあるすべてのことは、いまも鮮明に思い出すことができる。それぐらい僕にとって、彼女は特別なひとだったから。僕と彼女を含む友人数名で、高校近くの心霊スポットとして、地元ではちょっと有名な墓地を訪れたのだ。僕はそのメンバーの中では、数合わせのような存在だった。大丈夫、幽霊なんていないさ、と怖がる彼女に言うと、そっちのほうが怯えてるじゃない、と返されたことがある。


 僕のいま住むマンションから歩いて行ける距離だ。


 彼女とはじめて出会ったのは、高校一年生の時だ。特別なきっかけから出会ったわけではなく、たまたまクラスメートだった、それだけだ。彼女とは結局、高校三年の途中まで、ずっと一緒のクラスで、気付けば僕は、彼女を目で追うようになっていた。だけど思春期特有の気恥ずかしさも相まって、特にその恋心を自覚してすぐの頃は、その想いを隠そう隠そうと心掛けていた。


 ひなのちゃんと、うまくいくといいね。応援するよ。


 そう言って、彼女が笑ったことがあった。ずっと僕の好きな相手が、彼女の友達でもあり、テニス部に所属していた女子と勘違いしていたのだ。いつまでそう思っていたのかは分からない。もしかしたら最後まで、そう考えていたのかもしれない。違うよ好きなのはきみなんだ、とはさすがに恥ずかしくて言えなかった。もしかしたらその場で訂正したら、僕の、彼女の、そして僕たちの未来は変わっていた気もする。気がするだけで、実際がどうなのかは分からないが。


「もうすぐ着くね」

 と彼女が言って、墓地を照らす灯りを遠くに見つける。当時は心霊スポットというまなざしで見ていた場所も、いまはまったく違って僕の目に映る。ありもしないものを怖がって、肝試し、などと茶化すようなところではない。現世と死者をしばし繋ぐ中継地点としてしっかりと機能しているのかもしれない、とふと思った。それは隣にいる彼女のせいだろうか。


 僕が彼女に告白したのは、高校三年の秋のことだ。どこか悲しい音のする雨が、ぽつぽつ、と音を立てていた。


 私、ひなのちゃんの代わりじゃないよ。残念ながら。あと、ごめんね。私、好きなひといるんだ。


 彼女からはそんな言葉が返ってきた。僕は一度も代わりだ、と思ったことなんてない。逆ならある。僕は彼女がいなくなったあと、ひなの、と付き合ったからだ。彼女の代わりにして、その寂しさを埋めるように。もちろんそんな関係が長続きなんてするわけがない。


「着いたね。幽霊なんて、もう怖くない?」

「怖くないよ」

「怖かったら、普通に私と接したりできないか」

「まぁ」

「私はいま、ここに眠っているの。人間風に言うなら」


 彼女が死んだのは、高校三年の冬に入るすこし前のことだった。受験に就職に、と全員が慌ただしくしている中で起こった大事件だった。通り魔の仕業だ、と世間では言われている。僕の恋は彼女の死によって完結してしまったのだ。悲しみたいが、その権利が僕にはない。


「僕以外の、他のひとにも会いに行ってるの?」

「ううん。最近、意識を取り戻したばかりだから、幽霊として。幽霊として意識を取り戻す、ってなんか変な表現だね」と、彼女がほほ笑む。「とりあえず誰に会いに行こうかな、って思った時、まずあなたの顔が浮かんだ」

「そっか」

「家族や好きなひともいるのに、ね」


 彼女に告白した時、僕は本気だった。だけど彼女は、僕の好意が別のひとにあると勘違いしていた。ずっと。なんで気付いてくれないんだろう。彼女に振られて以降、その想いは強まるようになった。気付いてさえくれれば、彼女は僕を見てくれるのではないか、と。


「不思議な話だ」

「私はあんまり不思議じゃないけどね。私には、あなたに返さないといけない言葉があるから。最後のあなたとのやり取り、覚えてる」

「どれ、だろう」

「分かってるくせに。私の答えは、『気付いてた』よ。あなたのこと」


 その言葉に、どきり、とする。

 僕の反応も待たずに、彼女が続ける。


「じゃあ、ね。あとは自分でゆっくり考えて」

 そして彼女は消えた。最初からそこには誰もいなかったような、寂しい墓地の景色が広がっている。


 部屋に戻ると、カップラーメンは伸びていて、食べると案の定、不味かった。でもたぶん伸びていなくても、不味く感じただろう、と思う。


『気付いてくれよ!』

 あの日、つい口走ってしまった言葉がよみがえる。


 だって、

 彼女は、気付いていた、みたいだから。

 通り魔が犯人ではないことに。

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誘われて、真夜中を。 サトウ・レン @ryose

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