第2話

 また見つかった、

 なにが、永遠が、

 海と溶け合う太陽が。


 ランボーはきっと私なんかよりもずっと、賢くて、先見性を持っていただろう。彼は一人の偉人であって、文学史に名を残すような途方もない賢人だ。わたしなんかがそのような先人に歯向かったとしても、馬鹿にされるだけだろうとは思う。私はそこまで賢くない大学生でしかない。

 けれどもどうせ一人なのだから、すこしだけ反論してみたいのだ。夢を見ていたいのだ。

 彼は結局現実を直視した。諦めることを選んだ。あんなにも偉大で、あんなにも年若かった彼は現実を踏み出した。わたしよりも百数十年前に生まれて、わたしよりも数歳は早く現実を受け止めた。けれどそれは少し早計だったのではないだろうか。諦めないで、足掻き続けたら、現実の空虚から逃れ出て、美しく、素晴らしい世界へとたどり着けるのではないか。あんなうつろな昼間に身を沈めなくても、生きていける方法が見つかったのではないか。


 夜の世界に一人きり、それが延々続けばいいと思っていた。夜が次第に昼の世界を侵食し、あの人間の意識を支配し、理性を強制する底抜けの明るさを持った太陽を打ち砕いてくれないかと夜空に願った。神様、私の信奉していない神様、なぜあなたは一番初めに光なんて作ったのでしょう。光なんて初めからなければこんな苦悩を感じなくても済んだのに。あまりにも脆弱な私は、太陽のすさまじい光線に当てられて、焼け焦げてしまう。

 夜の世界でしかわたしは生きられない。力強いものだけが存在できるその世界で、私は必死にわたしを守るために生きることしかできない。決して手放してはいけないわたしを、すさまじい勢いで流れ行き、常に転変する現実から守ることしかできない。叫びたがる、うごめきたがる、飛び出したがるわたしを封印する外殻の私は、あまりにも陰鬱で、それでもなければならない。

 何もかもが重い、なにもかも、体ごと、地中に埋まっていくような感覚が消えない。締め付けられるような感覚が消えない。そしてこの感覚から逃げられる予感も、どこにもない。

 大学生になった頃からだろうか。近頃はもう、まわってもまわっても、開放感があまり感じられなくなってきていた。まわってもまわっても、わたしにがっしり張り付いた陰鬱が、名状しがたき不快なそれが、名をつけることさえすべきでないそれが、離れようとしてくれない。たった一瞬でもよい、きみがいなくなったとしても、わたしは悪しきことをするつもりはない。それにその一瞬が過ぎれば、きみはきっとすぐわたしに飛びついてくるだろう。だからほんの少しでも離れてくれはしないだろうか。でなければ、でなければ……。

 わたしと、私ときみもろとも、死の世界に連れて行ってやろうと思ってしまう。まだ見ぬ、虚無の静かな世界へと、きみを連れて行ってしまおうかと思ってしまう。


 そこで初めて気が付いた。愚かな私が、今更気づいた。

 わたしときみは、もうすでに互いを分離するにはくっつきすぎてしまっているのではないか。きみとわたしはすでに融合を経て、わたしはきみを、きみは私を内包してしまったのではないか。この二者はもう実のところは同じものになってしまったのではないか。ランボーはわたしなんかよりもずっとまえに、このことに気づいたのではないか。

 大切なわたしを持ち続けることは、わたしのほとんどの苦しみの源であるきみを持ち続けることと変わらない。きみを取り払うということは、わたしを取り払うことと変わらない。きみから逃げるには、わたしをきみごと取り去るか、私もわたしもきみも、すべてを無へと帰するかのどちらかしかないのではないか。そして一世紀以上も前の偉人は、前者を選んだ。

 静かで、悍ましい二者択一に、いま私は迫られているのではないか。わたしという古くからのアイデンティティを捨て去ることはあまりに恐ろしく、指先が凍ってしまうような感覚が襲う。けれどわたしを捨てて、理性だけで生きていくなんて、そんなもの、果たして生きていると言えるのだろうか。己の一部分を切り捨てる生き方なんて、今の私の生き方よりもよほど歪んでいるのではないか。

 いや、やめよう、こんなこと考えたって、何にもならない。どうせつらい思いをするのなら、かけがえのない深い夜でなく、何の価値さえない昼間に考えればいい。この至福の時間を浪費するまで考えるようなことでは決してない。だから、よそう。こんなことをすべきでない。ただわたしは、この幸福を感じていればいい。


 心地の良い水音、水鳥のうごめき、風がわたしを包む音。

 わたしはそれに耳を傾ける。息をして、体の中に積もりに積もったものを吐く。

 体の中を循環させる。わたしもろとも、夜に溶けて、夜はわたしに入り込む。

 心は落ち着く、憂いは消える。悩みは無に、理性は解けて、あるものだけが心にある。

 じっと、じっと、そこにあるものに目を向け、そこにあるものに耳を傾ける。虚構の、ただでさえ醜いものなど考えることなく、じっとこの世に身を寄せていた。


 思えば、ランボーが生きた時代に比べ、現代は現実を虚構に侵略された時代なのではないか。私はこの現実にあるものを嫌っているわけではない。それが川や木や水草や水鳥などであろうとも、あるいはまた人間が作った家や道路や堤防を嫌っているわけではない。わたしはただ、人間関係とか、SNSとか、本来形を持たない空想上の網を嫌っていた。

 ランボーと私は、似て非なる悩みを持っているのではないか。ランボーと私とでは、何もかもが違う世界を生きているのではないか。そして、そうだとすれば、ランボーが達した結論を私に適応することも、まだ正しいとは言えないのではないか。

 気づけばまた頭が巡り始めていた。

 そしてそれは、体内時計が正常に動いていることの証左であったのかもしれない。


 また彼は顔を出した。

 この世に生まれ落ちた咎人を焼き焦がし、浄化するはずだった煉獄が。

 すべてを朱に照らす太陽が。


 闇夜を突き刺すような鋭い光が、私を照らし出した。

 悩みもまた照らし出された。

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夜、逃避行、解放 酸味 @nattou

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