夜、逃避行、解放

酸味

第1話

 夜は一番好きな時間帯。それも世界が眠りについたような深い夜。

 街中では案外暗くないけれど、すこし離れてしまえば一歩先もわからなくなる。お昼時には耳から離れてくれることのなかった。自動車や電車や、信号や携帯のビープ音、人々の足音、窓がレールに沿って動く時の音。深い深い、深海に潜ったような暗い夜はひどく静かだった。

 そもそもこの時間帯にはほとんど人がいない。何気なく外を歩いているとき、向こうから人がやってきたときに、どこに目線を向けようかと悩むことはこの時間にはない。誰かしらの顔を見ることがない。それにまた、不審な行動をしていると思われないだろうかというな悩みもこの時間にはない。見つめることもなく、見つめられることもない、自由な空間。

 日が昇っている時にはどこへ行っても、壁に包まれているような気がしていた。空を見上げればただただ青色だけがあって、周囲を見回せば建物ばかりが並んでいる。もちろん壁に包まれているわけではないと知っているけれど、もうちょっと手を伸ばせば空をふさぐ透明な天井にぶつかって、もうちょっと歩けば透明な壁にぶつかってしまうのではないかと、昔からそんな感覚があった。今も昔も、この世界がゲームの世界のようなもののように思えた。

 けれど夜になるとそんな感覚は消え去った。昼に比べれば視界なんて存在しないようなものだ。昼とは違って、本当にそこに壁があったとしてもわからないくらい闇に包まれている。周囲に見知らぬ人が私のことを取り囲んでいても、きっと気づけない。それでもの世界はどこまでも続いているように感じられた。わからないけれど、夜は本当に自由に思えた。


 街を歩く、河原を歩く。その時、タガが外れてくるくる舞ってしまう。

 周囲は見えないし、方向感覚がなくなって、今までに何度も転んできた。それでもあまりに楽しくて、なぜだかうれしくてその狭い舗装された道を、くるくるまわりながら移動する。普段ならこんなこと、できるはずもなかった。するつもりも起きなかった。だってただまわっているだけ、それで嬉しくなるのはたいてい小学生までだ。私のような大人に半分入りかけている人間がくるくるまわったとして、目が回って気持ち悪くなると思うだけだ。

 もちろん夜中にまわっていても、目がまわって気持ち悪くなる。まわり過ぎると吐き気だって出てくる。ただまわるだけだって体力が必要だ。夜まわろうが、昼まわろうが、まわっていることに違いはない。けれど、夜はまわっていても、誰かから目を顰められることはない。一挙手一投足を誰かしらが見つめていることはないし、よくわからない誰かがよくわからない誰かが作った尺度を使って、なにか意見を言ってくることもない。

 夜、まわることは私にとって自由の象徴なのだと思う。もちろん後付けの理論だから、それが正しいかどうかわからない。それらしい答えはいくらでも作り上げることができて、この推論が一番もっともらしかったというだけ。結局のところどうしてこんなに私はまわるのか、そもそもどうしてこんな夜に私は出歩くのか、それらがなぜ掛け替えのないものになったのか、わからない。けれどそれらすべてがとてつもなく心地の良いものだということは分かる。

 大学に出て、友人と馬鹿な話を交わすときにはない、静かな悦びがここにはある。哲学書を読み理解できたあの瞬間にさえない、無垢で確かな快感がある。ゲーム実況動画を見ている時にはない、深い満足がある。マスタベーションをした際にはない、きれいでうつろな達成感がある。昼間にはない、ひろいひろい開放感がある。

 昼間の、誰かに見られているのではないかという恐怖はここにはない。間違ったことをしてはいけないというためらいもここにはない。ぼろを出してはいけないという切迫もここにはない。正義を掲げなければいけない道理は、ここにはない。他者を貶めなければいけない道理も、ここにはない。わたしを見つめ、批判し、飲み込もうとする生き物はここにはいない。すべては孤独、どこへ行っても何もない。すべてがすべて、わたしから出される、吐息、熱、汗、におい、足音だけになる。この瞬間の世界にはわたし以外になにもない。

 わたしだけの世界。わたししかいない世界。

 そんなものがあったらどれほど幸せだろう。

 どこへ行っても人の目があって、どこへ行っても責任がのしかかる。街を出歩くほとんどの人間がスマートフォンを持っていて、何か間違ったことをしてしまえば世界中に拡散されてしまう可能性、一つの小さな間違いが己の人生を破滅させてしまう恐ろしい可能性、過剰に背負わされた義務の重さ、権利の少なさ、どこへ行ってもそれから逃れることはできない。友人との小さなふざけ合いも、一つの小さなつぶやきも、感情の吐露も、すべてが社会的死へと繋がっている。

 だからこそ夜の、何もない世界がどうしようもなく心地がいい。よほどのことをしなければ真夜中に何かをしていても直接社会的に死ぬ可能性は少ないように思える。多少変なことをしたって、私のことを見つめてくる人なんてほとんどいない。おかしな、例えば無意味に回転してみたりしても、私のことを撮影して、世界中に流そうとする人は一人だっていない。

 自由、自由、自由、自由。

 暗闇の底から、きれいで心地の良いものが私を抱きかかえる。闇だけが現実のすべてのものから逃してくれる。自己責任論も、親ガチャも、なすりつけあいも、引きずり合いも、何もかもから逃げられる。

 解放、解放、解放、解放。

 押し込めていた感情がようやく顔を上げる。閉じ込めていた考えが、胸の奥底から勢いよく飛び立つ。色鮮やかな、野蛮で無垢な感情が飛び出していく。

 さぞかし今の私の表情は不気味だろう、不細工だろう。

 それなりに違和感のない微笑みをすることに慣れきってしまったこの顔は、本当の感情を表現する経験をほとんどしてこなかった。神妙そうな顔をすることに慣れきってしまったこの顔は、本当に真剣な感情を受け取るには未熟すぎる。怒りを顔に表すことなど小学生以来したことがなかったから、激しい感情を表情仕切るのは到底不可能だとわかっていた。

 不気味で、無様で、よくわからない表情をしているだろう。

 声を上げることはしない。でもしゃべるように口を動かして、吐き出そうとする。

 夜、私はよくこのように過ごす。不健全で歪んでいるけれど、やめられない。


 しばらくの間、わたしはずうっとそうしていた。

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