粉雪の隙間を抜けて

micco

私は祈る

 再来週は公立受験。 

 でもたった今――私立入試のあとの三者面談で「点数が足りない」と言われた。父さんは「ほれ見たことか」と私を小突いた。こめかみの横がズキズキと痛んだけど、私は文句を言える立場じゃなくて、ただ俯いていた。

「こいつ、勉強しなきゃなんないってのに本だの漫画だの。先生、もっと叱ってやってください」

「まぁお父さん。穂花ほのかさん、学校では非常に頑張ってます。質問もするし、伸びてはきてるんですが」

 三上先生が口をつぐんだ。曖昧な優しさで空気が沈んで、私も父さんも口が利けなくなったみたいに黙った。

「……では遅くとも、来週の月曜までにご家庭でお話をしてきてください。木曜には願書提出になりますので」

 話し合いになんてならない。ただ父さんの一方的な説教を聞いて終わりになるんだよ、先生。私はさようならのお辞儀の間、そっと唇を噛んだ。父さんも隣で「どうも、よろしくお願いします」と三上先生に頭を下げていた。



「……さむ」

 はぁっとわざと息を吐いた。真っ白な生暖かさを顔に受け、私はダッフルコートのポケットに手を突っ込んだ。『今夜の最低気温はマイナス五度です』ニュースの声が脳内で甦って、私はぶるりと震えた。

 しゃくしゃくと長靴の底で雪が鳴く。辺りは真っ暗でも、道に積もる雪でなんとなく白い深夜――私はひとりで散歩をしていた。

「でも雪も、もう終わりかなぁー」

 道路に独り言が響いて、ちょっとウケる。誰もいないからできるひとり遊びは、いつやっても気分が晴れる。

 家の中は学校よりはマシだけど、やっぱり狭いし息が詰まる。それに今日は、父さんからも母さんからも「点数が足りない子」と思われているようで苦しかった。だからみんなが二階に上がって寝るのを心待ちにしていた。散歩に出られるのを待っていた。

 粉雪が鼻の頭に着地して、すぐ溶けてった。

「どうしようかなぁー」

 棒読みの台詞みたいに言った。だってどうしようもこうしようも決まっている。志望校は変えられない、夏に父さんとそう約束していた。もし直前まで点数が届かなくても。「絶対に諦めないことを学べ」とお説教されたから。

「どうしようーあーどうしようー」

 でもそう口にしたくて堪らなかった。どうしたらいいか、分からなかった。


 ――家からほんの十分の距離、大きな通りの一本手前まできた。いつもならここでUターンする。でも今夜は素直に家に帰る気持ちになれなかった。

 大通りで大人に見つかったらまずいのは分かってた。入試の直前に補導でもされたら、と思えばするべきことは一つだってことも。

 でも私はしばらく立ち往生した。顔面が凍ったみたいに冷たくて、足の先の感覚もなくなっていく。ときどき睫毛に雪が降って、まぶたの際は温かいんだな、なんて思った。

 あぁやっぱり帰らなきゃ。

 結局したいこともしたくないことも受け入れられなくて、のろりと踵を返した。帰って数学を、と目を擦った。

 そのとき不意に、歌が聞こえてきた。声は少しずつ近づいてきて、旋律も鮮明になっていく。

「これって『地球星歌ちきゅうせいか』……?」

 思わず呟いていた。だってこの歌を歌うってことは今年の卒業生――。

 私は戻る道の正面、大きくなっていく人影に目を凝らした。

「あなたがひとりぃー見つめぇるつーきをー」

 調子っぱずれもいいところ。誰かに見つかったらどうするつもりだろう。

「とおい海のクジラがぁー見つめかえ……ってあれ、穂花?」

「うん。眞子、だよね?」

 ちょっとーなにしてんのー! ちょっと、しぃー静かに!

 私たちは走って合流し、お互いに人差し指を立ててしゃがみ込んだ。通り過ぎていった車のライトで、眞子のほっぺと耳が真っ赤だって分かった。



「そうなんだ。眞子は県外受けるんだ」

「うん。まぁしょーがないよね、じいちゃん家で暮らすって言われたらさ」

 じいちゃん年だしね。眞子は出てもいない月を探すみたいに、空を見上げた。

 私たちは雪を払った縁石に腰掛けて、生け垣の裏で少しだけおしゃべりすることにした。二人っきりなんて三年ぶり? なんて、肯き合って。

 小学校ではよく話した方だったけど、中学ではクラスも部活も違っていたから疎遠になっていた。本当に久しぶりのおしゃべりだった。暗すぎてお互いの顔は見えないけど、それで十分だった。

「穂花は? この辺でしょ?」

「うん。でも面談で点数足りないって」

 そっかぁ。眞子は、今度は膝を抱えて横に揺れ始めた。私もつられて少しだけ揺れる。はぁ、と眞子の吐いた息が一瞬だけまぁるく見えた。

「ねぇ。高校ってさ、なんで行かなきゃいけないんだろうね」

「うん、そうだよね」

 鼻の感覚がない。でも不思議と鼻水が出てくる。眞子がぽつぽつ言う。

「ちょっと前まではさ、行きたいと思ってた気がするのに……今は全然行きたくないんだよね。……まぁそんなの受かってから言えって話だけどさ」

 そう、分かってるんだ。お金とか点数とか、文句言えないって。選べと言われても、選ばれるのは私たちの方だって。

「私も。なんで志望したのかよく分かんないや」

 眞子は揺れるのを止めると、私の方に体を向けた。

「でもさ、高校って……。やっぱり行った方がいいよね……?」

 私は答えに詰まって、眞子の視線から逃げるように遠くを見た。そしてハッとして眞子のコートを力任せに引っ張った。

「やばっ! パトカー!」

「ぎゃっ」

 倒れ、私の頬にはざらめ雪が擦れた。痛みが走る。ひどく擦りむいたと分かったけど、むしろ生け垣の裏にいて良かったと胸を撫で下ろした。

「……行ったよ、眞子」

「穂花……いきなり引っ張るんだもんびっくりしたぁ」

「ごめん」

 匍匐前進の格好で私たちは歩道に転がっていた。布越しの体温で雪がじわりと溶けていく。ズボンが濡れていくと分かった。でもなぜか起き上がる気にならなくてきっと眞子も同じ気持ちで、畳に転がるみたいにして二人で寝そべったままでいた。

 十回くらい呼吸したあと、眞子がごろんと仰向けになって言った。

「……ねぇ、歌おうよ」

「『地球星歌』?」

 もう練習が始まっている卒業式の歌。みんなで選んだ、私たちの歌だ。

 私も仰向けになった。頬がひりひりし始めていて早く消毒したいなと思いながら、「いいよ」と言った。本心だった。

 私、ここが好きなんだ。

「『もしも夜空に鏡があれば 地球のみんなの顔が見えるだろう』」

 眞子の囁くような歌は、粉雪の間をすり抜けて空に溶けた。

「いいよね。私はやっぱりサビが好き」

 眞子が続きを歌い出した。私も小さく一緒に歌った。

『私は祈る 明日のために』

 私たちは最後まで歌いきった。そして一緒に家までの道を歩いて、ただ別れた。



 頬の傷は結構な感じで、翌朝には夜に出歩いたことがバレてしまった。母さんは「受験は面接もあるのに」と怒ったけど、父さんは何も言わなかった。ううん、言ったけど全然別のことを言った。

「お前はどうしたい」

 朝の光は、父さんの顔をはっきり見せた。

「……変えない。頑張ってみる」

 大きな絆創膏の中で、傷が引きつった。



 了


 ――――――――――


 引用出典 『地球星歌~笑顔のために~』ミマス作詞・作曲

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