真夜中のレ

高村 樹

散歩の起源をご存じだろうか?


古来の中国では、体が熱くなることを「散発」といい、「散発」がないと体に毒が溜まり害になるとされていた。


この「散発」を促すべく古来の人々は歩き回るようになったのだが、この健康法は行散と呼ばれ、これが今日の散歩の起源となった。


中国の三国時代に五石散という一種のドラッグのようなものが貴族や文化人の間で滋養強壮薬として流行した。

この五石散は、名前のとおり主材料は五石(石鐘乳、紫石英、白石英、石硫磺、赤石脂)であり、服用すると体が熱くなるので、「散発」が起こっていると考えられて体に良いと思われていたのだ。


しかし、散発があろうがなかろうがひどい中毒症状が出るため、命を落とす者も多くいたというから、これを流行らせた奴は本当に罪深い。



大学で教授職にある小山田は、そのようなとりとめのないことを考えながら、夜道を散歩していた。


私の体内でもいま「散発」が起こっているな。


たいして面白くもないのに、くっくっと一人笑う。


どうやらしこたま飲んだ酒が歩くことによって、いっそう回ってきたようである。


大人しく電車で帰ればよかったかな。


ゼミ生たちとの打ち上げの帰り、摂取しすぎたカロリーを少しでも減らそうといつもより二駅手前で降りて歩いて帰ることにしたのだが、次第に歩くことが億劫になって来たのだ。


汗が異様に出て、喉が渇く。


自動販売機を見つけ、胡麻麦茶を買い、飲みながら再び歩き始めると少し先に一人の男の姿を見つけた。


どうやら仕事帰りのサラリーマンのようだった。


私以上に酒が入っているらしく、千鳥足で足元もおぼつかず、ぶつぶつ何かを言いながら時々立ち止まったりしている。


深夜の時間帯、辺りを見渡すと他に人気ひとけはない。


さて、絡まれでもしたら厄介だと思い、小山田は少し怖くなった。


追い越すか、気が付かれないように静かにあとをついていくか。


迷った挙句、小山田は後者を選ぶことにした。


酔った高齢の小山田の足でも簡単に追い越すこともできたのだが、なにぶん狭い路地だったので、あまり近づきたくないと考え、そのうち違う方向に行くだろうとしばらく様子を見ることにしたのだ。


十分ほど沿線沿いの街道をそのままの距離を保ちながら歩いたが、一向に男が別の路地に曲がる気配は無い。


もう一駅分歩いてしまい、これはいよいよ自宅近くまでこの緊張状態が続くのではないかと小山田は覚悟し始めていた。


最初の頃は、いかなる理由でこの男がそんなになるまで飲んだのか興味深げに推理を働かせる余裕があったのだが、男が大声で歌い出した辺りからさらに怖くなった。


「レレレ〜、レ、レ、レ、レレレ〜~♪」


酔いが回りすぎて歌詞を思い出せないのか、ハミングと「レ」で全部歌う気らしい。


突然、電柱を殴り、頭突きをくらわす。


「な~に見とるんじゃ、こらぁ」


男が突然振り返り、こっちを見た。


男は思ったより若く、坊主頭で厳つい印象だった。

よほど強く頭を打ち付けたのか額から血が流れている。


充血した目はどこか狂気をはらんでおり、危うい印象だった。


私はついに怖くなって、もと来た道を全力で引き返した。


心地よい酩酊感が吹き飛び、こんな夜中に散歩をしようなどと思ったことを深く後悔した。


後方からドタバタと足音が聞こえた気がして小山田は焦った。


相手は相当酔っていたが、私も酒が入っているうえに最近足腰が弱っている。


交番はあったはずだが、用賀駅近辺にまで戻らなければならない。


「レッ、レッ……レッ……、レッ……」


レッ?


レッって何だ。

背後から先ほどの男の声で妙な歌のようなリズムある何かが聞こえてきた。


やはり追ってきている。


「レー、レー……」


レ?

さっきからレだのレッだのを連呼してる。


「レレレ……」


怖い。何だかわからないから余計に怖い。


交番が見えてきた。助かった。

しかもお巡りさんが交番前にすでに立っている。


「お巡りさん、不審者に追われてて、助けてください」


ようやく振り返り、追ってきた丸坊主の男を指差した。


丸坊主の男はすぐ後ろを追ってきていたらしく、不敵な笑みを浮かべて言った。


「レ~〇~ク♪」


「また、レイ〇じゃ!」


お巡りさんが岡山弁でツッコミを入れたのを聞き、小山田は訳も分からず呆然とした。



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