きみの温度を思い出せない
綺瀬圭
AM2:00
「なんか、飲み足りなくね?」
深夜2時。そんな福島の声に反応したのは堀田だった。
「確かに。もうつまみもないし、こんなんじゃ朝まで持たねえよ」
「別に無理にオールしないで寝ればよくない? 私もう眠いんだけど」
「尚美は相変わらずノリが悪いな。せっかくの卒業旅行だぞ!? 寝たらもったいないだろ!」
そんな口論が、机を挟んだ向こう側で繰り広げられている。
寝たらもったいないなら、そもそも男女別に部屋を予約した意味は何だったんだ。大部屋に五人で泊ればよかっただろ。
そんなこと、絶対に声に出せない。俺たちは確かに仲良しグループではあるけれど、それはできないことで、選択肢にもないことをみんなわかっている。
目に見えない境界線が「区別」という名ではっきりと引かれている。またの名を、「配慮」というのかもしれない。
まだ言い争う三人を横目に、彼女は一人静かに炭酸水を飲んでいた。賛成も否定もしない。ただこの空間を楽しみたいだけ。そんな感情が横顔から読み取れた。
「じゃあみんなで買いに行こうぜ。コンビニなんて歩いて10分くらいじゃん。散歩も兼ねて行こう。これも思い出になるよ」
福島の提案。すぐに堀田が賛成し、尚美も渋々頷いた。俺も「まあいいか」と呟く。彼女は全員が賛成したところで、「いいね」と微笑んだ。
♢
さみいさみい。風邪引くわ。マフラー持ってくればよかったあ。
三人が10メートル先で叫び散らかしている。幸い、海沿いを歩いている。バカな大学生たちの声なんて、他の誰にも聞こえていないだろう。
「中川、あいつと行かなくていいのか」
俺の隣を歩く、彼女に尋ねる。
「いいよ。あの人とは毎日一緒にいるから。こういう時ぐらい友達と絡ませてあげたいし」
「そうか。これからあいつと飽きるほど一緒にいることになるもんな」
中川は小さく頷いた。照れ隠しのようにも、誤魔化しのようにも見えた。
旅行前に知らされた、卒業後の結婚報告。みんなが心から祝福していた。学生とともに独身からも卒業か。そうやって笑いあった。
「俺たちのこと、あいつには言ってないんだな」
凍てつく空気に、針が降る。中川は眼を激しく揺らして俺を見上げた。
今まで触れてこなかったのに。言わないようにしていたのに。どうしても言葉にしたくなったのは、寒すぎる夜のせいだろうか。波音がかき消してくれると思ったからだろうか。
「言えるわけないじゃん」
強く吐き出された言葉は、白い息とともに舞い上がった。
「そっちこそ言えないんでしょ。私のこと一度も名前で呼ばなかったじゃない」
中川。俺が彼女をそう呼ぶようになったのは、大学に入ってから。いや、正確には、あいつらとつるむようになってからか。
高校の頃、俺たちは下の名前で呼び合っていた。
お互いの体温がこもった蒸し暑い布団の中。音を立てないよう必死になりながらも欲をぶつけ合ったベッドの上。二人だけの空間で、俺たちは互いの名前を呼び続けていた。
「結婚するんだろ。秘密のままでいいのか」
「結婚するからこそよ。言ったらきっと、みんなで会えなくなる。こうしてみんなで集まることもなくなる。打ち明けていたら、旅行も、この散歩もなかったと思うよ」
中川は、寒そうに鼻をすすった。真っ赤になった鼻先は、どれほど冷たくなっているのだろう。
なあ中川。あの頃の何かが一つでも変わっていたら、俺たち違う関係になれていたかな。
「あいつのどこが好きなんだ」
本当は知りたいわけじゃない。本当に知りたいのは、あの頃どうして好きになれなかったのか。好きになってもらえなかったのか。
どうして歪な関係性でしか中川を繋ぎとめられなかったのか。
おーい。早く来いよ。めっちゃあったかいぞ!
先に到着した三人が、こちらに大きく手を振る。中川が俺の二、三歩前に出て、呟いた。
「ちゃんと“好き”って言ってくれるところ、かな」
そのまま駆けだした背中は、目の前の光に向かって真っすぐ走っていった。
白い息を吐きながら、彼女は俺を置いたまま、煌々とした店内へ消えていく。中の温もりに包まれ、安堵した顔をしている。
あの頃肌で感じた、彼女の高すぎる温度を思い出すことができない。思い出す必要もない。
ごめんな。
彼女の名前を呼んでみる。小さすぎて、自分でも聞き取れない。声も温度も、海と寒空に消去されていく。
この夜の出来事も、あの夜のことも、俺たちはきっと墓場まで持っていく。
みんなで桜の木の下、笑顔で卒業写真を撮るために。いつか訪れる、五人で歩く深夜の散歩道のために。
きみの温度を思い出せない 綺瀬圭 @and_kei
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