お母さんの宝物
あじさい
* * *
土曜日、
12月、大掃除の時期になると毎年、母さんは
「おかえりぃ」
ねっとりとした言い方だった。すまし顔をしているけど、母さんはガサツな人間だ。ノックもせず僕の部屋に入ってくるくらいは当たり前。僕が中1の頃、僕のマンガを勝手に読んで、父さんもいる夕食の間中、そのあらすじとヒロインの人物像について文句を言い
「お母さんこの曲知ってる。何だっけ、クラリネット? フルート? の、協奏曲よね。何ていったっけ? お母さんも好きな曲なんだけど。ねえ、お父さん、これ何ていう曲だっけ?」
などとしゃべりたてて、鑑賞の邪魔をしてきた。そんな人だ。だというのに、年末にアルバムを開いたときだけ、愛情深く健気で上品な母親であるかのようなツラをする。
「今、
そんなことは見れば分かる、と思ったけど、口には出さなかった。母さんはいつも、言わなくても分かること、言う必要がないこと、言わない方がいいことを言う。バカにされているみたいでイライラするし、正直
「1歳のときは、お母さんがちょっとでも
その話、千回くらい聞いた。
今の僕は高1なわけだけど、物心ついた頃にはこの話を知っていたし、小学1年生の頃にはすでに聞き
だから、僕はこの
――幼稚園に行き始めてからも大変だったわ。毎朝、バスが来るたびにお母さんとお別れしたくなくて
僕がキンキンに冷えた烏龍茶を飲んでいる間、誤差はあるにせよ、母さんは今回もほとんど同じ内容の話をした。耳に
母さんはまだ話の途中だったけど、僕は構わずリビングを出て、自分の部屋に入った。
週3で塾に行っているとはいえ、僕はまだ受験を意識する段階には入っていないし、志望校どころか文系/理系のどちらを選ぶかも決めかねている。数学の成績が落ちてきた気はするけど、頑張ればまだどうにでもなりそうでもある。そんなことより僕が重きを置いているのは、学校での人間関係のことだ。
部屋着のスウェットに着替え、
坂本さんは同じ高校、同学年の女子で、僕と同じく図書室に入り
坂本さんは背が小さく、
坂本さんと話すことは本の話題よりも、こう言っていいなら「哲学的」なテーマの方が多い。たとえば「意識は脳の内側にあるのか外側にあるのか」、「死後の世界は黒いのか白いのか」、「天国は場所が心地よいのか、集まってくる人(死後の
そんな坂本さんが「小さい頃読んだ本だと、『小公女』が大好きだった」と熱く語るものだから、「僕も読んでみようかな」なんて言っていたら、翌日その本を学校に持ってきてくれることになった。探せば図書室にも置いてあるだろうけど、坂本さんは「
水曜日から読んでいるし、頑張れば今日中に読み終えられそうだ。そう思って読み進めていると、1時間ほどして、
「
という無遠慮な声がした。すぐに動かないと、普段から大きい声をさらに張り上げて「晩ご飯よ!!」をくり返すし、無視しようものなら部屋に押し入ってくる。母さんは僕が部屋の
「翔くん、食事をする前に――」
「……いただきます」
家族での食事中、母さんは案の定、久しぶりにアルバムを見た話、幼少期の僕がいかに手のかかる子供だったかという話をした。毎年のことなのに、父さんが良い反応をして所々で情報に
部屋に戻った僕は、ささくれ立った精神を落ち着かせるためにウォークマンで音楽を聞く。モーツァルトの交響曲第40番、ト短調。どんなテンションで聞いても耳に
「
ノックもなしで部屋に踏み込んできた母さんが、そう言った。僕はうなだれた。イライラして力任せに机を叩きそうになるのを
「翔くんってばぁ!
と急き立てられた。
学校でも塾でも友達はあまり多くないし、誰かと話しても後になって『あんなこと言うんじゃなかった』、『もっと上手い返し方があったはずなのに』と後悔することが多い。クラスメイトがその場にいない人の
もちろん、母さんも父さんも世に言う毒親ではないし、高校の校則でアルバイトが禁止されているとはいえ、とにもかくにも不自由なく高校生活を送れている点で、僕は充分
それとも、僕がイライラしているのは、思春期でホルモンバランスが不安定な反抗期だからであって、大人になれば気にならなくなるのだろうか。いつかは、全部笑って許せるようになるのだろうか。
その後も母さんはずっとうるさかったけど、僕はその夜、坂本さんに借りた『小公女』を読み終えることができた。
翌日の日曜日は何の予定もなかったけど、僕は朝から市立図書館に出かけた。大掃除が昨日で終わったにせよ終わらなかったにせよ、母さんは家にいると気まぐれにうろ覚えの歌を歌うから、どこかに
ラノベ脳かもしれないけど、こうして市立図書館に来るたび、もしかして知り合いの誰かに会ってしまうんじゃないか、と不安半分に期待してしまう。でも、そんなことは全然なくて、誰とも出会わず、何事も起こらない。僕は学校の課題をこなして、その
12月は日が短い。夕方には家に帰った。母さんと顔を合わせても仕方ないから、玄関からまっすぐ部屋に行く。
戸を開けた
「ちょっと母さん!」
母さんは台所で何かやっていた。野菜を切ったり、それをフライパンに入れたりしていたようだが、そんなことはどうでもいい。
『小公女』は、食卓にあった。
「
「勝手に僕の部屋に入るなって、いつも言ってるだろ!」
僕は
「だって、
「これは!?」
『小公女』を指差して、僕は
「翔くんもこういうの読むんだね。お母さんも昔好きだったのよ。
僕は腹が立ったが、言葉がまとまるより先に
「ポテチを食べながら読んだからちょっと油がついちゃったけど、まあいいよね!」
「はぁ!?」
「そんなにカリカリしないでよ。反抗期ってイヤねぇ」
反抗期……? 反抗期とかいう問題なのか? この親はこんなときまで反抗期を持ち出すのか?
どこから批判すればいいのか分からなくなりながら、僕は辛うじて言った。
「勝手に部屋に入って、
「そんなに目立たないわよ。読むのには問題ないって。メルカリに出すなら値段
「そうじゃなくて、借り物なんだって!」
「え? 学校の本? でも、マークないよね?」
母さんは
――マジだ。マジで油
「誰に借りたの?」
「誰に借りたかじゃなくて、借り物を
「そんなに
腹の底から、『このクソババア!!』と叫びそうになった。自分の母親に対してそんな言葉を言いかけるなんて、16年
僕はとにかくリビングを出た。戸を閉める音が大きくなったけど、それどころじゃない。『小公女』が
「
リビングから
古本屋も含めて3件の書店を回ったけど、坂本さんに借りたのと同じ本はなかった。今の新潮文庫は
帰りの道中、僕は坂本さんにどう
『ごめん、坂本さん。貸してもらった本なんだけど、僕の留守中に母が無断で僕の部屋に入って、本を持ち出して
事実ではあるにしても、こんなみっともない言い訳はできない。母さんが部屋に入ってくるのも、部屋のものに手を付けるのも今に始まったことじゃないから、今回のことは僕の危機管理が甘かったせいだ。汚れたページを
結局タイヤから空気が抜けきった自転車を押しながら、何とか家に帰り着くと、会社の人たちとのゴルフに
リビングの
部屋は夕方に見た通り、母さんにいじられたままで、今の僕に
お母さんの宝物 あじさい @shepherdtaro
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