お母さんの宝物

あじさい

* * *

 土曜日、じゅくを終えて帰宅すると、リビングで母さんがアルバムをながめていた。

 12月、大掃除の時期になると毎年、母さんは押入おしいれからアルバムを引っ張り出し、僕が幼かった頃をなつかしむ。

「おかえりぃ」

 ねっとりとした言い方だった。すまし顔をしているけど、母さんはガサツな人間だ。ノックもせず僕の部屋に入ってくるくらいは当たり前。僕が中1の頃、僕のマンガを勝手に読んで、父さんもいる夕食の間中、そのあらすじとヒロインの人物像について文句を言いつらねた。当然、僕は抗議こうぎしたけど、母さんはその後も何度か同じようなことをくり返した。また、僕と父さんがTVでモーツァルトの協奏曲を聴いていたときには、トイレから戻ってくるなり、

「お母さんこの曲知ってる。何だっけ、クラリネット? フルート? の、協奏曲よね。何ていったっけ? お母さんも好きな曲なんだけど。ねえ、お父さん、これ何ていう曲だっけ?」

 などとしゃべりたてて、鑑賞の邪魔をしてきた。そんな人だ。だというのに、年末にアルバムを開いたときだけ、愛情深く健気で上品な母親であるかのようなツラをする。

「今、しょうくんのアルバムを見てたのよ」

 そんなことは見れば分かる、と思ったけど、口には出さなかった。母さんはいつも、言わなくても分かること、言う必要がないこと、言わない方がいいことを言う。バカにされているみたいでイライラするし、正直怒鳴どなりつけたくなるけど、そうすると逆ギレされたり、『イヤね、反抗期は』とか『難しい年頃ね』とか言われたりするから、頑張ってなるべく言い返さないことにしている。僕は頼まれて買ってきた牛乳と卵をだまって冷蔵庫に押し込んで、代わりに烏龍ウーロン茶を取り、食器棚からはコップを取った。その間も、母さんは勝手にしゃべり続けている。

「1歳のときは、お母さんがちょっとでもはなれると『ママッ! ママッ!』ってさみしがってたの。お父さんがあやそうとするんだけど、全然泣き止まなくてね」

 その話、千回くらい聞いた。

 今の僕は高1なわけだけど、物心ついた頃にはこの話を知っていたし、小学1年生の頃にはすでに聞ききていた記憶がある。母さんは僕が幼い頃から、それだけ何度もこの話をし続けてきた。

 だから、僕はこのあとの展開を知りくしている。

 ――幼稚園に行き始めてからも大変だったわ。毎朝、バスが来るたびにお母さんとお別れしたくなくて駄々だだをこねるの。お父さんが先に仕事に行っちゃった日は、お母さんが1人でなだめないといけなくて、服をにぎってしがみつくしょうくんを引き離すだけで一苦労だった。それから、ほら、これを見て。3歳のとき、翔くんが初めてお母さんにくれた誕生日プレゼントよ。お母さんの似顔絵だって。ぐちゃぐちゃで何も分からないけど、お母さんは翔くんに誕生日を祝ってもらえて、とっても嬉しかったの。これはお母さんの宝物よ。

 僕がキンキンに冷えた烏龍茶を飲んでいる間、誤差はあるにせよ、母さんは今回もほとんど同じ内容の話をした。耳に胼胝たこができるとはこのことだ。ウザったいのを必死に我慢して沈黙を守った僕を、誰かめてほしい。

 母さんはまだ話の途中だったけど、僕は構わずリビングを出て、自分の部屋に入った。


 週3で塾に行っているとはいえ、僕はまだ受験を意識する段階には入っていないし、志望校どころか文系/理系のどちらを選ぶかも決めかねている。数学の成績が落ちてきた気はするけど、頑張ればまだどうにでもなりそうでもある。そんなことより僕が重きを置いているのは、学校での人間関係のことだ。

 部屋着のスウェットに着替え、かばんからバーネットの『小公女』を取り出して、ベッドに腰かけて開く。これは先週、坂本さんという人にしてもらった本だ。新潮文庫、やくは伊藤せい。正直、僕は翻訳家ほんやくかちがいなんて意識したことないんだけど、坂本さんは「古いやくだから読みにくいかも」と言っていた。

 坂本さんは同じ高校、同学年の女子で、僕と同じく図書室に入りびたっている。カップルみたいになるから同じ机は使わないけど、図書室が閉まる時間まで勉強や読書をしている者同士、図書室を出てから駅に行くまでの道中に話すことがちょくちょくある。

 坂本さんは背が小さく、れ目で鼻が丸く、顔も丸っこい。人より若干じゃっかんスローテンポで話し、言葉を選ぶとき上を見る。どうやら本人は自分のことを「顔が地味で幼児体型」と思っているらしく、たまに「千年前ならモテモテだった」とか「22世紀のタヌキ型ロボットを先取りした体型」とか笑えない自虐じぎゃくネタを言って、僕を困らせる。もちろん、「そんなことない、坂本さんは可愛かわいいよ」とでも返せばいいんだろうけど、照れくさいというより、どんなテンションで言えばいいのか分からないから、口をつぐむしかない。

 坂本さんと話すことは本の話題よりも、こう言っていいなら「哲学的」なテーマの方が多い。たとえば「意識は脳の内側にあるのか外側にあるのか」、「死後の世界は黒いのか白いのか」、「天国は場所が心地よいのか、集まってくる人(死後のたましい)が心地よいのか」などだ。坂本さんがこういう問題に本気で興味を持っているのか、僕はまだいまいちつかめていない。でも、おしゃべりの題材として突飛とっぴで退屈しないとは思うから、僕も何も知らないなりに、それっぽく理屈をこねる。時には、僕の方から坂本さんにお願いして、そういう話題を出してもらうこともある。現在の西洋科学ではデマやオカルトとして研究対象にさえならない事柄が多いとなげく坂本さんからすると、僕は物質主義的な偏見へんけんかたまっているそうで、「目に見えるものしかない世界なんて、つまんないじゃん」とよくたしなめられる。僕は僕で坂本さんに「それはさすがにぶっ飛びすぎじゃない?」などと言いがちだから、お互い様だ。話はいつも決着しないけど、少なくとも僕は満足して帰る。

 そんな坂本さんが「小さい頃読んだ本だと、『小公女』が大好きだった」と熱く語るものだから、「僕も読んでみようかな」なんて言っていたら、翌日その本を学校に持ってきてくれることになった。探せば図書室にも置いてあるだろうけど、坂本さんは「やくを読みくらべてみるのもいいと思うよ」と冗談じょうだんじりに言った。上手く言えないけど、誰かと本を貸し借りするってちょっとあこがれるし、たぶん坂本さんも誰かに本を貸してみたかったんだろうから、僕は素直すなおにおれいを言った。言葉にすると大仰おおぎょうになるけど、思い出のまった本を預ける相手として、坂本さんが僕を選んでくれたことが嬉しかった。


 水曜日から読んでいるし、頑張れば今日中に読み終えられそうだ。そう思って読み進めていると、1時間ほどして、

しょうくーん、晩ご飯よー!」

 という無遠慮な声がした。すぐに動かないと、普段から大きい声をさらに張り上げて「晩ご飯よ!!」をくり返すし、無視しようものなら部屋に押し入ってくる。母さんは僕が部屋のを開ける音に耳をすましている。母さんがいそがしいと10分以上放置されるけど、ひまだと1分未満で2回目が来る。僕が読んでいる箇所かしょはかなり中途半端で、せめてあと3ページは読みたかったけど、だからといって中断しないという選択肢はない。

 渋々しぶしぶリビングに行くと、食卓の真ん中に、白菜はくさい・ネギ・シイタケをしゅとしたなべ鎮座ちんざしていた。白身魚は多少あるようだけど、肉は見当たらない。でも、肉のことは別にいい。問題なのはシイタケだ。僕は昔からずっとシイタケが嫌いで、いくら食べ続けても一向いっこう克服こくふくきざしが見えない。料理として出されたときは、いつもまずに飲み込んでいる。このことはもう何度も母さんに言ったし、出す必要があるにしてもせめてひかえめな量にしてほしいと頼んだ。なのに、母さんは何とかの一つ覚えみたいに「シイタケはからだにいいのよ」と言って相手にせず、様々な料理に大量のシイタケをぶち込んでくる。そんな母さんは昔、ダイエットを試みてジョギングをしたり食事制限をしたりしておきながら、2週間もせずことごとく放り出したことがある。それ以来、僕は健康に対する母さんのこだわりを信用していない。たぶん、母さんはシイタケが好きで、自分が食べたいだけなんだと思う。

「翔くん、食事をする前に――」

「……いただきます」

 家族での食事中、母さんは案の定、久しぶりにアルバムを見た話、幼少期の僕がいかに手のかかる子供だったかという話をした。毎年のことなのに、父さんが良い反応をして所々で情報に補足ほそくを入れるものだから、母さんは調子に乗って、思い出したことを思い出した順で、脈絡みゃくらくもなくまくしたてる。1歳の僕が電車の中で粗相そそうをして泣き叫び、周りの人たちの顰蹙ひんしゅくを買ったということをなつかしそうにしゃべる両親は、16歳で食事中の僕がそれを強制的に聞かされて、どんな思いでいると思っているのだろう。きっと、というか確実に、何も考えていないに違いない。食べ足りないのに食欲が失せた僕は、食事を早々に引き上げ、リビングを出る。お腹が減るようだったら、両親が寝た後に冷蔵庫をあさることにしよう。


 部屋に戻った僕は、ささくれ立った精神を落ち着かせるためにウォークマンで音楽を聞く。モーツァルトの交響曲第40番、ト短調。どんなテンションで聞いても耳に馴染なじむ名曲だ。精神を安定させるついでに、学校で出された地理の課題に取り組むことにした。暗記科目なのに僕は全然覚えられないから、自己採点用の模範解答を丸写ししていく。面倒だし単純作業だから、明日やるつもりだったけど、早く片付けられるならそれにしたことはない。集中できたとは言いがたいけど、とりあえず無為に時間をつぶさなくて済んだ、と思う。集中力が出始めて少しして、課題が半分ほどまった頃、

しょうくん、お風呂入りなさーい!」

 ノックもなしで部屋に踏み込んできた母さんが、そう言った。僕はうなだれた。イライラして力任せに机を叩きそうになるのをこらえていると、さらに大きな声で、

「翔くんってばぁ! めちゃう前に入りなさぁい、は・や・く!」

 と急き立てられた。


 学校でも塾でも友達はあまり多くないし、誰かと話しても後になって『あんなこと言うんじゃなかった』、『もっと上手い返し方があったはずなのに』と後悔することが多い。クラスメイトがその場にいない人の陰口かげぐちを言っているのを聞いて、疑心暗鬼になっている自覚もある。でも、それら全てを合わせても、家にいるときの方が圧倒的にイライラしている。

 もちろん、母さんも父さんも世に言う毒親ではないし、高校の校則でアルバイトが禁止されているとはいえ、とにもかくにも不自由なく高校生活を送れている点で、僕は充分めぐまれている。でも、父さんはまだしも母さんはデリカシーがないと思うし、そこには改善の余地があるような気がしてならない。

 それとも、僕がイライラしているのは、思春期でホルモンバランスが不安定な反抗期だからであって、大人になれば気にならなくなるのだろうか。いつかは、全部笑って許せるようになるのだろうか。


 その後も母さんはずっとうるさかったけど、僕はその夜、坂本さんに借りた『小公女』を読み終えることができた。

 翌日の日曜日は何の予定もなかったけど、僕は朝から市立図書館に出かけた。大掃除が昨日で終わったにせよ終わらなかったにせよ、母さんは家にいると気まぐれにうろ覚えの歌を歌うから、どこかに避難ひなんしておかないと僕の身がもたない。読み終えた『小公女』は、外でよごしては大変だから部屋に置いておいた。高校の図書室で借りた角川ビギナーズクラシックの『枕草子』があるから、今日のスキマ時間はこれを読むことにしよう。

 ラノベ脳かもしれないけど、こうして市立図書館に来るたび、もしかして知り合いの誰かに会ってしまうんじゃないか、と不安半分に期待してしまう。でも、そんなことは全然なくて、誰とも出会わず、何事も起こらない。僕は学校の課題をこなして、そのあとには本を読む。集中が続かなくなったときは、図書館のたなを見て回ったり、近所の公園に足をばしたりする。


 12月は日が短い。夕方には家に帰った。母さんと顔を合わせても仕方ないから、玄関からまっすぐ部屋に行く。

 戸を開けた途端とたんに、違和感いわかんがあった。部屋が片付きすぎている。閉めていたカーテンは開け放たれ、ベッドのシーツが変わり、枕元に置いていたマンガとスマホの充電器がどこかに行っている。いち早く読むべき順に本棚に入れておいた本も、順番が変わっている。そして、勉強机に置いておいた『小公女』がなくなっている。頭に血がのぼっているのを自覚しつつ、僕はとりあえず『小公女』を探した。机にも、本棚にも、それ以外の場所にも、見当たらない。僕は部屋を飛び出して、リビングになぐんだ。

「ちょっと母さん!」

 母さんは台所で何かやっていた。野菜を切ったり、それをフライパンに入れたりしていたようだが、そんなことはどうでもいい。

 『小公女』は、食卓にあった。

しょうくん、おかえり」

「勝手に僕の部屋に入るなって、いつも言ってるだろ!」

 僕は怒鳴どなった。でも、母さんは全くどうじないし、わるびれた様子もない。僕がどうしてこんなにおこっているのか、どれだけの精神力で怒鳴るだけにとどめているか、想像もできないらしい。

「だって、ほこりまってたんだもん。シーツも変えなくちゃいけなかったし」

「これは!?」

 『小公女』を指差して、僕は詰問きつもんした。母さんはむしろ嬉しそうに言った。

「翔くんもこういうの読むんだね。お母さんも昔好きだったのよ。なつかしくなっちゃって、ちょっとだけ借りるつもりで結構読んじゃった」

 僕は腹が立ったが、言葉がまとまるより先に舌打したうちが出た。それでも、たぶん聞こえていないのだろう、母さんは元気に続けた。

「ポテチを食べながら読んだからちょっと油がついちゃったけど、まあいいよね!」

「はぁ!?」

「そんなにカリカリしないでよ。反抗期ってイヤねぇ」

 反抗期……? 反抗期とかいう問題なのか? この親はこんなときまで反抗期を持ち出すのか?

 どこから批判すればいいのか分からなくなりながら、僕は辛うじて言った。

「勝手に部屋に入って、無断むだんで本を拝借はいしゃくして、しかも油でよごして! 何やってくれてんだよ!」

「そんなに目立たないわよ。読むのには問題ないって。メルカリに出すなら値段げないといけないけど、これくらいならお母さんが買い取るし」

「そうじゃなくて、借り物なんだって!」

「え? 学校の本? でも、マークないよね?」

 母さんは呑気のんきに、ようやく手を洗って、『小公女』に目を向けた。母さんが手を伸ばす前に、僕は『小公女』を取り上げて、ページをめくって状況を確かめた。

 ――マジだ。マジで油よごれと食べかすがついてやがる。

「誰に借りたの?」

「誰に借りたかじゃなくて、借り物をよごしている時点で――」

「そんなにあわてなくても、新しいの買えばいいじゃない。弁償べんしょうするのよ。お母さんがお金出すわ。平和堂の本屋さんに売ってるでしょ」

 腹の底から、『このクソババア!!』と叫びそうになった。自分の母親に対してそんな言葉を言いかけるなんて、16年あまきてきて初めてのことだった。それでも、最低限の品性を守るために、僕は必死でこらえた。それに、罵倒ばとうびせ合いになったら、言葉にまりがちな僕よりも、躊躇ちゅうちょなくまくしたてる母さんに軍配が上がることは目に見えている。過去の経験からもそれは分かっている。

 僕はとにかくリビングを出た。戸を閉める音が大きくなったけど、それどころじゃない。『小公女』がよごされてしまった。坂本さんが僕を信頼して、自分が大好きな、思い出のまった本を預けてくれたのに、そんな小さな信頼にさえこたえられなかった。母さんは弁償すればいいと言うけど、代わりの本を買ってむ話じゃない。僕が坂本さんから借りた本を、きずよごれもつけずに坂本さんに返す、それを完遂かんすいすることにこそ意味があったのに!

しょうくーん、お母さん今は手が離せないけど、あと15分したら車せるよ」

 リビングから間延まのびした声が聞こえてくるから、感情任せに「うるさいっ!」とさけんだ。母さんが言った平和堂の書店に行くならバスを使いたいけど、今からだとバス停でたぶん20分ほど待つ必要がある。当然、そんな気分じゃないから、父さんの古い自転車を引っ張り出した。タイヤの空気がけていたけど、気にしないことにした。


 古本屋も含めて3件の書店を回ったけど、坂本さんに借りたのと同じ本はなかった。今の新潮文庫は畔柳くろやなぎ和代かずよ訳、角川文庫は羽田はた詩津子しづこ訳、岩波少年文庫はわき明子あきこ訳といった具合で、伊藤せいの訳はどこにも見当たらない。ネット通販でなら手に入りそうだけど、新品とはいかないようだ。はらは代えられないから、僕はひとまずネットで、なるべく状態の良いものを注文した。

 帰りの道中、僕は坂本さんにどうあやまろうか考えた。

『ごめん、坂本さん。貸してもらった本なんだけど、僕の留守中に母が無断で僕の部屋に入って、本を持ち出してよごしちゃったんだ』

 事実ではあるにしても、こんなみっともない言い訳はできない。母さんが部屋に入ってくるのも、部屋のものに手を付けるのも今に始まったことじゃないから、今回のことは僕の危機管理が甘かったせいだ。汚れたページをいさぎよく見せて、『坂本さんの大切な本をこんなふうにしてごめんなさい。全て僕の責任です』と言うしかない。『代わりの本をネットで注文したから、届いたら渡します』。坂本さんはそれで許してくれるだろうか。僕はそれで許されていいのだろうか。何にしたところで、二度と坂本さんから本を借りる資格はなくなった。誰が許しても、僕自身がもう納得できない。


 結局タイヤから空気が抜けきった自転車を押しながら、何とか家に帰り着くと、会社の人たちとのゴルフにり出されていた父さんはもう帰宅してていた。母さんはお風呂のようだ。脱衣所に怒鳴どなり込むわけにもいかず、僕は腹立たしさを持て余す。リビングをのぞくと、皿に盛られた野菜いためにラップがかけられていた。ラップしでも、シイタケがたっぷり入っているのが見える。

 リビングのすみには、昨日母さんが見ていたアルバムがあった。目に入った途端とたんり飛ばしたくなった。分厚ぶあつい表紙をボコボコにして、写真をみつけて、ズタズタにして、母さんお気に入りの似顔絵を、丸めて、引きいて、ぐちゃぐちゃにしたくなった。でも、それをしてしまうと取り返しがつかなくなるという思いが、僕の自由をうばった。どんな金縛かなしばりでも、こんなに苦しくはなかっただろう。やがて、僕はリビングを飛び出して、自分の部屋にけ込んだ。


 部屋は夕方に見た通り、母さんにいじられたままで、今の僕に馴染なじまない。僕はウォークマンを取り出し、イヤホンを耳に当てて、私服のままベッドにもぐる。昨日きのう一昨日おとといも聞いた、モーツァルトの交響曲第40番、ト短調。今だけは母さんが部屋に入ってこないことをいのって、僕は目を閉じた。

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お母さんの宝物 あじさい @shepherdtaro

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