カクヨムを離れがちになっているという趣旨のエッセイの掲載と同時刻に、お題に合わせた2000字の短編『花梨へ』を掲載し、その2日後には約6000字の『文学少女だった私たち』(『花梨』long ver.)も掲載するという矛盾……。
書けちゃったんだから仕方ない、ということですが、今回はこれら2作品において、主人公が深夜の高速道路で飲酒運転などの犯罪行為をしていて、にもかかわらず劇中で報いを受けていない点について、釈明をさせてください。
色々と不謹慎な要素が多い作品ですが、当然ながら、筆者に飲酒運転やその他の犯罪行為を擁護する意図は一切ありません。
また、筆者自身は免許取得後は一度も車を運転したことがないペーパードライバーですし、筆者の家族にも飲酒運転をしたことがある人はいません。
それでも主人公に数々の犯罪を行わせた理由は、作品を読めばご理解いただけるでしょう、としか言えませんが、筆者が普段このエッセイに書いていることに反して主人公に報いを受けさせなかった(注釈を入れなかった)のは、それが作品の要素の1つである「運命観」に関わってくるからです。
作者の立場で、「飲酒運転をしたからには(いつか)報いを受けるのだ」といったストーリーを作ること自体が、作品世界に対する過剰な介入になり、作品性の毀損になりかねないということです。
もしかすると主人公はあの後、深夜に変なことをしている不審者として警察の職質を受けて、飲酒運転が露呈するかもしれません。
そうならないかもしれません。
ですが、それを明示的に書くわけにはいきませんでした。
ここは悩ましいところです。
筆者だって、『風の歌を聴け』を読んだときは、作者の村上春樹氏は女性に性暴力を振るうことにも、飲酒運転をすることにも無頓着な人なんだろうな、と思いました。
今でも、村上春樹氏の諸作品に対する世間の評価は少々過剰だと思います。
それでも、常識的に考えて、村上氏本人が諸作品の主人公のような人間が大好きということは、さすがにないでしょう。
現実的には絶対に許されないし、村上氏自身も望んでいないアウトローな振る舞いを、架空の存在たちにはさせる必要があった、という部分が多分にあるのではないかと思います。
拙作『花梨へ』、『文学少女だった私たち』にしても、文芸上の表現として、飲酒運転を含む犯罪の数々がどうしても外せないと判断したため、ご覧いただいたような作品になりました。
当然ながら、「今からでも高評価してくれ」とは言いませんが、少なくともこれら2作品に関しては、作者と作中人物の考え方が必ずしも一致していないことにご了解いただけますと幸いです。