私とおじさんの物語

浦科 希穂

私とおじさんの物語

 名前も知らない不思議なおじさんと出会ったのは、私が人生のどん底にいた時だった。

 あの日、私はセーラー服姿でたった一人、真夜中の公園にいた。

 その公園は大通りから少し入ったところにある小さな公園で、2本のブランコとジャングルジム、あとは小さな砂場があるだけの、何処にでもありそうな子供たちの遊び場だった。

 昼間には子供たちの楽しそうな笑い声と、母親たちの談笑で賑わっているのだろう。

 けれど、あの時はとても静かだった。暗くはない。しっかりとオレンジライトの街灯が公園全体を照らしている。

 私はその明るくも静かな公園で、ブランコに腰掛けてぼうっとしていた。時折、地面に足を付けたままブランコを揺らした。

 キー、キー、と私の動きに合わせてブランコが鳴く。

 そんな時、ザッと砂を踏む足音が聞こえてきて、私はゆっくりと顔を上げた。

 音のした方を見ると、スーツ姿のいかにも会社員ですという風貌のおじさんが缶ビールを片手に持ちながらこちらに歩いてきているところだった。

 重い足取りで真下を向いて、ふらり、ふらりと。

 酔っ払いかと思って警戒したが、おじさんは私のことなど見向きもせずに、そればかりか、迷うことなく私の隣のブランコにすっと腰を下ろした。――まるでそこが自分専用の席だとでも言うように。

 途端、びたブランコのチェーンの繋ぎ目がギーギーと悲鳴を上げた。

 私は一瞬驚いたけれど、すぐに前を向いて、再び自分の世界に入ることにした。――どうでも良かったのだ。私の隣におじさんが座ろうが、そこで酒盛りをしようが、至極どうでも良かったのだ。

 そうして暫くの間、ブランコの悲鳴だけが互いに声を交わし合っていた。

 けれども、途中からブランコの悲鳴ではない音が混ざっているのに気が付いた。

 よくよく耳を澄ましてみると、その音はすぐ隣から聞こえてきている。

 スン、スン、と小さく鼻をすする音。

 私はちらっとおじさんの方に目をやって、ぎょっとした。

「もしかして……泣いてます?」

 声を掛けるつもりなんてなかった。けれども、言葉は勝手に口からこぼれていた。

 しかし、おじさんはただ鼻を啜るだけで私の質問には答えてくれなかった。――自分から聞いておいてなんだが、そこまで興味はなかったので放っておくことにした。

 暫くして落ち着いたのか、おじさんはグイと顎を上げて缶ビールを喉に流し込み始めた。

 それから、飲み終わりの吐息を吐いたかと思うと、おもむろにシャツの袖でゴシゴシと涙を拭いた。

「いやあ、すまないね。大人には、無性に泣きたくなる夜ってもんがあるんだよ」

 おじさんは苦笑いしながら更に続けた。

「それは決まって静かな夜にやってくる。テレビもラジオもつけないで、ただ換気扇がゴウゴウと回っている音だけが響く夜。別に失恋をしたわけじゃない、勿論仕事で大きなミスをしたわけでもない、特別悲しいことがあったわけでもない、けれど……それでも涙が出そうになる、そんな夜があるんだよ」

 私は急におじさんが饒舌になったことに驚いたが、何も言わずに黙って話を聞いていた。

「……生きる為の手順をな、踏まなきゃならないと頭では分かっていても、どうしてもそれが出来ない夜があるのさ」

「生きる為の手順?」

 私は僅かに首を傾げて聞き返した。

「ああ、そうだ。誰もが毎日やっていることさ。風呂に入る、歯を磨く、或いは取り入れたままの洗濯物を畳むとか、食ったまま放置していた食器を洗う……とかな」

 小うるさかったブランコの軋み音は、もうどちらからもしていなかった。

「どうにも身体が動かなくなって、そして、ある日突然気づくのさ。何を見ても、何をしても、心すらもちっとも動かなくなったことに」

「……」

「布団に入ったって眠れやしない。必死に意識を飛ばして楽になろうとしても、なぜだかそれを許しちゃくれない。普段気にも止めない無音が耳障りで、目を閉じれば得体の知れない恐怖が襲ってくる。その内、違う、違うと心が大声で叫び出すのさ……」

 おじさんは一旦話を切ってから大きな大きなため息をいた。そして、ポツリと、本当に独り言のように小さく呟いた。

「つまるところ、突然嫌気がさすのさ、ぷっつりとな」

(ぷっつりと……)

 なんとなく分かる気がした。

「なあ、お嬢ちゃん」

 おじさんは先ほどよりも少しだけ明るい声で私を呼んだ。

 それと同時に、おじさんが座っている方のブランコだけが軋み音を再開させた。

 私は呼ばれたのでおじさんの方を向いたけれど、目は合わなかった。おじさんは私ではなく、明る過ぎる都会の夜空を見つめていた。

「なあ、どうしてこの街の駅には9と4分の3番線がないんだろうな……どうしてうちにあるクローゼットはライオンのべる国に繋がっていないんだろうか。この世界には精霊もいなければ、時間泥棒だっていやしない、おまけに〈シルク・ド・フリーク〉のチラシも手に入らないときた……」

 そう言ってから、なぜかおじさんは、ふふっと小さく笑って更に顔を上に向けた。

「そこでようやく気付くのさ、どうやら俺は主人公には成れないらしい、と。俺は風景と同化しているただの人物Aだってな。そう気づいた時にはもう遅い。この世界に酷くがっかりするんだよ……うん、たまらなく」

(たまらなく)

 私は最後の言葉を心の中で繰り返した。言葉だけが木霊こだましていく。

「……ねえ、おじさん」

 私が呼びかけるとおじさんは、ん?と顔をこちらに向けた。

 初めて目が合った。――死んだ魚のような目をしているのかと思っていたが、案外そんなことはなかった。

「そのまま書いてみたら? 今は誰でもネットで小説を書ける時代だよ。主人公になれないなら、作者になればいいんじゃない? ジャンルは、まあ、おじさんの望む冒険ファンタジーじゃないけど」

 おじさんの紡ぐ言葉がすごく情緒的で共感的だったから、なんとなくこの人が書いた小説を読んでみたくなったのだ。

 おじさんは一瞬、面食らったように目を大きく開けて止まっていたけれど、次の瞬間、突然笑い出した。

「あはは! そうだなあ! ジャンルはさしずめヒューマンドラマってところか!」

 自分で言っておきながら、よほど面白かったのかクツクツと喉を鳴らして楽しそうに笑っている。

(ヒューマンドラマって……)

 はたと、こんなクソみたいな私の人生でもドラマになり得るのだろうか、と思った。

 そう思った途端、なんだか可笑しくなって、私もつられるようにして笑った。



 あれから5年、あのおじさんは元気だろうか。名前も聞かず、あの公園で別れたきり一度も会っていない。

(ねえ、おじさん)

 私は心の中でおじさんに呼びかけた。

 あの時、私のことをお嬢さんと呼んだけど、私……本当は26歳の立派な大人だったんだ。

 セーラー服を着ていたのはデリヘルの帰りだったから。お客さんがそういう嗜好しこうの人でくれたんだ。

 着てみたら案外しっくりきたからさ、事務所からそのまま着て帰ってたんだよね。

 26歳のいい大人がコスプレ用の制服を着て、真夜中の公園でブランコに腰掛けていたのはきっと……おじさんと同じで無性に泣きたい夜だったからなのかもしれない。

 あの時は、多分、おじさんの言う「ちっとも心が動かない時」だったんだと思う。

 むなしくて、空っぽで、何もない……ただ何となく心がそわそわして、でも何もしたくなくて、心も身体も全部がちぐはぐで、矛盾していて、そんな気色悪さにイライラして……自分でもよく分からない感情が渦巻いて、身体ごと破裂しそうになっていたんだと思う。

 おじさんなら、分かってくれるよね?

 あの日、主人公になれなかったと嘆きながら、背を丸めて泣いていたおじさん。

 おじさんの憧れている世界が、ことごとく児童文学の世界だったことには驚いたけれど――。

 私はそれを思い出して小さく笑った。同時に、見上げた空は今日も明る過ぎる都会の夜空だ。

 田舎の空ならきっと見えるはずの一番星を思い出しながら、私はもう一度おじさんに呼びかけた。


 ねえ、おじさん、これは私とおじさんの物語だよ。

 W主人公ってことでいいでしょう?

 ジャンルはそうだな……ヒューマンドラマってことにしておくよ。


 スーツに身を包んだ残業帰りの私は、都会の人込みに颯爽と消えながらそっと微笑んだ。

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