第10話 敵は激しく、己は弱く

 西暦一八五四年、日本は黒船の圧力に屈する形で遂に開国を選択した。しかしその選択は同時に、東洋の神秘を求める暗黒陰謀結社や、日本の夜明けを目指す不逞の集団などを励起させるものともなってしまった。

 そんな怒涛の時代。江戸北町奉行所は、不逞の集団・髑髏しゃれこうべ党との攻防を繰り返していた。そして遂に生起した運命の二重決闘。般若対鬼塚、脱獄した殺しの竜対月よりの使者。四つの蛮声が入り混じり、剣戟が戦場音楽を奏でていく。鬼塚は般若に煽られ、大苦戦。数多の攻め手を紙一重で防がれ、逆に必殺の一閃を受ける事態へ。しかし鬼塚は軌道を読み切り、見事に逆転。般若の正体を明かして捕縛した。一方の使者も竜との激闘の末に満月返しなる秘剣をもって追い詰め、再度の捕縛に成功。ここに、髑髏党へまた一歩踏み込んだかに見えたが……。


***


「クソッ! 一体全体どうなってやがる!」


 夜更けのとある番所。鬼塚は地団駄を踏んで毒づいた。


「髑髏の連中……ってところまでは掴めちゃいるんですがねえ。行きも帰りも霞のようにドロン、ってんじゃあどうしようもねえ」


 いつも通りに付き従うデコ八も、今回ばかりはなだめはしない。なにせこのところ、髑髏党の悪事が急加速を開始していたのだ。この一月で商家への盗みが六回と相次ぎ、他にも井戸に毒を投げ込む、付け火を目論むなどの散発的治安破壊行動も加わっており、北町奉行は対応に手一杯となっていた。


「過日ふん縛った竜も般若も、あちらの思惑についちゃあ口をつぐんで真一文字だ。奴らの企みが、皆目見当付きやしねえ」


 苛立ちで語気が荒くなる鬼塚。しかし、この荒れ具合はもはや北町の総意とも言える状況にあった。そして火に油を注ぐが如く、髑髏党はさらなる悪意をぶつけてきた。


亜久馬あくま博士の護衛命令だとぉっ!?」

「はっ。昨日、博士のもとに髑髏印の書状が届き、『数日内に、貴殿の身柄を頂戴しに参上仕る』と」

「あの連中が、そんな書状を律儀に出すか? 尻馬に乗った輩の、たちの悪い悪戯であろう」

「可能性はありますが……」

「わかっておる。お上の命には逆らえん。鬼塚たちを差し向け、少数精鋭で守らせる。これならば、面目は立つだろうよ」


 奉行と上役が面付き合わせ、半ば投げやりながらも対応を定める。それほどまでに今の北町には、人的余裕というものが払底してしまっていた。かくて――


「剣の腕が立つ、ってのも考えもんだぁな」

「正直、駆けずり回ってる方が考え事も減るってもんですけどね」

「二人とも、そうおっしゃらず……って、あいたぁ!」

「臆病には言われたかねえ!」


 鬼塚とその手下であるデコ八、そして臆病こと奥田兵介おくだひょうすけの三人が亜久馬屋敷――博士が自身で購入した、広くはあるが少々いわくつきの邸宅――へと赴くことになった。しかしこれは、鬼塚にとっては頭痛の種が増えただけのようなものであった。なにせ、奥田とデコ八はめっぽう仲が悪い。奥田が臆病なのが悪いと言えばそれまでなのだが、デコ八の言いようにもかなりの問題があった。そんな中――


「お奉行様の方々、お茶ができましてな。お上がりください」


 自作したという小型のからくり人形に茶を運ばせる、白髪の初老がいた。総髪をうなじの辺りまで伸ばし、好々爺然とした表情を浮かべている。誰あろう、幕府お抱えお気に入りの蘭学博士・亜久馬象山あくまぞうさんだった。


「先生……あまりにも落ち着き過ぎでは」

「なに。いちいちコトに動じていては、発明もままなりませぬ」

「なるほど……」


 物騒な予告状の上に、あまりにも騒々しい環境の変化。しかし目の前に佇む初老に、動揺の気配はなかった。行灯の火を、悠然と眺めていた。鬼塚は、わずかに訝しむ。少し前に起きた【ねお・えれきてる】の事件でも、この博士は暴れなかった。慌てなかった。ただただ事態に流され、それゆえか無傷のままに事態をやり過ごしていた。


「秘訣でも、あるのですか」

「む? そうだのう。まあ、経験じゃろうな」

「はあ」


 踏み込みを企てた鬼塚はしかし、本当とも嘘ともつかぬ言葉にてかわされる。思わず怪訝な顔を晒してしまう彼ではあったが、さらにその後言葉が続いた。


「水のように、ですな。川であれ、枡であれ、水はすべからく有り様に従って推移します。多少の不幸なぞ、あえざる縄の如し、です」

「……」


 あまりにも泰然とした言葉を前にして、鬼塚は言葉に詰まった。もしかするとこの人物は、護衛なぞ望んでいなかったのかもしれないとも思った。しかし些末な思考も、激流の前には押し流される。


「臆病!? 臆病どこ行った!?」


 いつの間に居間から姿を消していたのか、少し遠くからデコ八の声が響いた。すわ敵襲かと、鬼塚の心は現実に引き戻される。


「失敬!」


 流れるように立ち上がり、声の方角へと向かう。使用人の一人さえもいない屋敷は、やたらと広く感じる。わずかな明かりに照らされる廊下を、彼はずいずいと進んでいった。しばし歩くと、デコ八が急ぎ足ですり寄ってきた。


「鬼塚様!」

「やかましいぞ二人とも。亜久馬先生に迷惑だというのが……」

「それどころじゃないんですよ。臆病が厠に行くって言うから、逃げやしないかってけたんでさあ。そしたら……」


 デコ八が少し向こうの角を指す。鬼塚はそちらへ顔を向ける。長い廊下が続き、やはり人っ子一人とていない。夜という現実も相まって、どこまでも続くようにすら見える。


「あの臆病が、いなくなっちまったんでさ」

「ふむ……」


 鬼塚は考える。奥田は臆病ではあるが腕は立つ。仮に彼の身になにかがあったとしても、さすがに己の手で切り抜けられるだろう。敵襲の可能性はあるが……


「しまった!」


 そこで彼は思い至った。敵勢の襲撃も予想して駆け付けたは良いが、現状は。


「博士の所に戻る! 付いて来い!」

「え? 鬼塚様!?」

「ええい、来い!」


 思考が追いついていない様子のデコ八をさらい、鬼塚は急ぎ足で舞い戻る。博士のあの性格をすれば、最悪の事態でも無駄に騒がない可能性がある。彼はとにかく、急いでいた。そして。


「やはりかい……!」


 居間の光景を目の当たりにして、鬼塚はほぞを噛んだ。最悪の想定、そのままの光景が、彼の前で展開されていた。亜久馬博士は縛られ、三人の髑髏どくろ覆面がそれを囲っていた。戻るのが今少し遅ければ、そのまま拉致を許していたことだろう。


「……」


 一人の髑髏覆面が手を上げると、残りの二人が鬼塚とデコ八、それぞれに相対した。そこで鬼塚は気付く。よくよく見ればこの髑髏覆面、白というよりも――


「ハッ!」


 思考を阻むかのように、髑髏覆面が踏み込んで来る。それは、かつて相対した一般髑髏覆面のものよりも、遥かに鋭かった。


「白銀……!」


 思いが声として漏れる。鍔迫り合いの踏み込みさえも重く、防御が手一杯の有様だ。間違いなく、今までに遭遇したどの髑髏覆面よりも強い。つまり。


「鬼塚様ぁ!」


 今日はやたらと、デコ八の悲鳴を聞かされる日だ。耳をつんざかれながら、鬼塚は思った。しかし救出はできない。余裕がない。このままでは――そんな思いが、脳裏によぎった。その瞬間。


「天網恢恢疎にして漏らさず。月光もまた、同じなり」


 危地にあって幾度も聞いた、あの言葉がまたも響いた。

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満月侍 南雲麗 @nagumo_rei

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