蝶は夜に泳ぐ

柊 秘密子

 蝶は夜に泳ぐ





 「お姉さん、あたしの話聞いてってよ」


 女に呼び止められたのは、ある年の十月。星の綺麗な夜のこと。冬の足跡が聞こえてきて、そろそろ冬物へ衣替えしてしまおうと思った頃だった。

 クローゼットから引っ張り出した厚物の衣類はきちんと洗濯しているはずなのに、劣化した柔軟剤の香りがひどく鼻につく。これは全て洗い直す必要があると判断した私は、ニットなど優しく洗う必要があるものは家の洗濯機で……残りをコインランドリーに持ち込む事を決めた。

 使い道のなかった試供品の洗剤と柔軟剤を手に、近所の寂れたコインランドリーへ向かう。最近ではこう言う場所もおしゃれになり、カフェも併設されているところもあるそうだが、私はどちらかというと……たくさんの大型の洗濯機と乾燥機、灰皿とベンチ、飲み物と衣類用洗剤の自動販売機。これしかない、昔ながらの雰囲気の店舗の方が心惹かれてしまう。

 どれほど楽な格好で行っても、周囲の冷ややかな視線がないぶん心が楽だからだろう。


 住処のマンションから徒歩十分。いつもはお年寄りかくたびれた男しかいないコインランドリーのはずなのに……今日は先に、女がいた。

 黒と金のまばらに染めた髪を肩口で切りそろえ、しっかりとアイラインからカットグリスまで書き上げ大粒のラメまで乗せて、マットな真っ赤な口紅で締めた派手な化粧。革のライダースに痩せた体にぴったり張り付くトップス、タイトなミニスカート、編みタイツ、これでもかという高さのピンヒール。

 ……とても、派手な女である。

 夜の仕事をしているのだろうか。煙草を燻らせる女に触れない方が良いだろうと、説明書き通りに洗濯物を押し込み、洗剤、柔軟剤を投入して女とは距離を置いて座る。……どこかに行っても良かったのだが、あいにくスッピンの上下スエット。どこへ行っても受け入れてくれるはずもないし、どこかに行こうという気も起きない。

 暇を潰そうとスマホを手に取った時に、

「お姉さん、あたしの話聞いてってよ。退屈なんでしょ?」

 と、声をかけられたのだ。


「あたしねえ、これから死にに行く予定なんだ。最後にやり残したことがあると嫌でしょ?だからこうして洗濯してる。終わったら家に帰って、干して、牽引用のロープで首を括るの」

「は?」

 私がまだ、聞きます、とも言っていない上に、首を縦に振ってすらもいないにも関わらず、女は勝手に自分のことを話し始める。ジリジリと煙草が燃える音が微かに聞こえ、メンソールの効いた煙が鼻をくすぐる。

 女はこれから死にに行くというわりに、やけにあっさりとしている。まるでこれから実家に帰る、バイトに行くのと同じくらいのノリで自死を揶揄してくるのだ。素っ頓狂な声を上げる私に、女はとても楽しそうに八重歯を覗かせて目を細める。

「あは、そんな驚くこと?人なんてね、死ぬの決めるのなんて簡単なんだよ。お姉さんだって仕事でミスしたとか、今日のメイク失敗したとかで、簡単に死にたいって思うじゃん?」

 ……ああ。職場にも、そうした事ばかり言う女がいるなあ。

 私は、ようやく女の言葉に「そうね」と頷いた。女はそれで、やっと私が自分を受け入れる気持ちになったのだと思ったのだろう、やけに人懐っこい笑顔を見せて飲みかけのコーラの缶を飲む?と差し出した。……流石にそれは断ったが。

 フィルターぎりぎりまで吸った煙草を灰皿に押し付けて消しながら、女は長い脚を組みつまらなそうに息を吐く。

「それに、一歩踏み出したり身を乗り出すだけでも死んじゃうとこ、いっぱいあるじゃん。あたしたちが乗り越えないだけで、意外と簡単に人って死ぬんだよ」

 ……ああ。こういう男も、いたなあ。


 私には五年付き合って、結婚間近だった恋人がいた。……そう、いた、のだ。

 彼はとても大らかな性格で、同棲はしていたし、互いの両親への紹介も済ませて、その時にも婚約者だと話していた。けれどもそこから一向に話を進めたがらない男だった。

 私はその時にはもう三十三で……周囲からの未婚女性に対する憐れみを含んだ蔑む目や、既婚女性からのマウントに耐えきれなかった。そしていつまで経っても答えを出したがらない彼に、一方的に別れを告げた。

「どうして五年付き合って、結婚してくれないの?私もう三十過ぎてるの、子供も産めなくなる。……どうせ、他に女がいるから結婚してくれないんでしょ?なら、その女と結婚すればいいじゃない。私は他を探すわ」

 これが、私が彼にかけた最後の言葉。

 その時のひどく傷ついた彼の顔は今でも覚えている。そんな顔をするなら私の気持ちの一つくらい分かってくれればいいのに。

その後、すぐに彼は自ら命を絶った。最後の最後までワガママな男であった。

 ……もう、二年も前のことだ。どうして急に、そんな事を思い出したのだろう。

 きっと、この女の面影が、彼に似ているからだ。どうしてこう、自分で命を絶とうとする人間は似るのだろう。

「どうして死のうと思ったの?」

「お姉さん、ようやく会話してくれたね」

 嬉しそうににんまりと笑いながら、女はグイグイと私の方へと距離を詰めてくる。互いの手が触れる距離にまで近づくと、甘ったるいナッツのような、ミルクのような……杏仁豆腐のような香水の香りが鼻をくすぐる。

「別にいいじゃない」

「ふぅん?……あのね、あたし彼氏に振られたの。ママの作ったきゅうりの塩漬けが食べたいっていうからさ、作ってあげたんだけど……しょっぱすぎる!これはママのじゃない!って」

「ううわ……最低なマザコン男じゃない」

「そう!そうなんだ。……だからさ、あたしの一年……こんな男に使ってたんだって、急に情けなくなったの。そしたらすごく死にたくなった」

 明るく話していた女の声が、次第に、花が萎れるように元気をなくしていく。そして、すんすんと鼻をすする音が聞こえ、静かな嗚咽が混じる。……ギョッとして彼女を見ると、その視線は右手の薬指にクッキリと残った赤い指輪の跡へ落とされていて、まるで彼女の苦しみを物語っているかのようだった。


 しばらく何も言葉をかけられないでいたが、安っぽい電子音が響き渡り、機械の中で大人しく洗われていた衣類が私たちを呼ぶ。

 私は濡れた服を適当に袋に詰め、女も涙で化粧がぐずぐずになった顔で洗濯物をとりこみ袋に詰める。

 ……女は、この後ほんとうに牽引用のロープで首を括るのだろうか?

 そうしたら、この女と最期に言葉を交わしたのは自分だという事にならないだろうか?

 自分勝手な思考だとも思ったが、私は何故か、それがとてつもなく嫌だと感じた。あの男の死と女を重ねているのかもしれないし、単に……この女に対して、ほんの少しだけ親近感を覚えてしまったからかもしれない。

「……ね、洗濯干したら、明日一緒にお茶でもどう?そうね……ホテルのアフタヌーンティーとか」

「うわ!マジで!!行く、絶対行く!!」

 気まぐれに誘ってみたら、女は若干食い気味で乗ってきた。

化粧が崩れてとんでもない様相になってしまったが、女の顔からは涙は消えている。もうすっかり、夜も深くなった。私たちは連絡先を交換し、お互い衣類の世話を終えた後、次の日の午後一時……またここに集合する約束をした。

「あたし、三浦華子。二十四だよ。ソープ嬢してるの。たまにメンエスにもいるし、ガルバとか……裏引きアリのコンカフェにもいたし、女王様してた時もあったかなあ」

「……私は須藤彩菜。新宿の商社で働いてる、独身OL三十五歳」

「ううわ、思ったよりおばさんじゃん」

「うるさいクソビッチ」

 軽口を叩き合いながら、私たちは笑い別れた。

 彼女は多分大丈夫だ。……そして私も。

 女の失恋記念に、アフタヌーンティーの料金はご馳走してあげよう。きっと派手な格好をしてくる女に負けないように、私も……思いっきりラグジュアリーなワンピースを下ろそう。そう、ちょっとしたお出かけにぴったりという売り文句で買ったっきり着れていない、とびきり可愛いワンピース。百貨店で買って、勿体無くて使えていないコスメと香水も使ってしまおう。

 彼が送ってくれた安いピアスとネックレスも。

 他の女たちに比べれば私たちは、生きにくい女なのかもしれない。でも……少しでも、強く生きようじゃないか。



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蝶は夜に泳ぐ 柊 秘密子 @himiko_miko12

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