少しの自信

伊統葵

少しの自信

 黙々と動画を見て、ただ過ごす。激しく移り変わる画面は退屈な私の心を飽きさせなかった。画面の中の人物は何か面白いことがあったのか、ただ笑っていた。やがて、動画が終わる。自己満足の焦燥感に駆られながら、私は示されている関連動画の中から次へ次へとカーソルを合わせ、クリックしていった。つまらない動画は早送り、右矢印を幾度か押して面白い場面へと向かわせる。カチカチと鳴るキーボードの音が動画の音を掻き消すくらい耳の中で響く。


 突然画面が青くなり、「ロックします」という言葉と共に画面の光が消えた。自分の顔がうっすらと映る。無表情、それ以外の何物でもなかった。娯楽に興じていたはずの自分の姿が酷く滑稽に見えた。


 体がいう事を聞かない。そんなことは今週に入ってからだった。


 机の端に置かれた課題の山を見る。

 「テスト一週間前やぞ。課題を進めとけよ」。

 担任の先生が言った言葉に「やらなければならない」と使命感を持っていたはずなのに、私はまた怠惰に生きている。自分に呆れることすらも疲れてしまった。部屋の隅という虚空を見上げ、目を閉じた。「こんなはずじゃなかったのに」と後悔する。後悔だけをして目を開けると、私は部屋の電気を消してベッドに向かう。


 もう寝よう。いつの間にか時計の短針は頂上を過ぎ去っていた。明日一気に課題を進めればいい。心配することじゃない。そんなことできるはずがないと冷めている心に気付いていながらも、再び目を閉じて明日の私に縋っていた。


***


 その翌日はいつも通り早めに起きて、特に何もすることなく自宅での朝を過ごすと、高校へ向かった。珍しく遅刻しない時間に出たので、余裕を持って朝のSHRに出席することができた。


 担任の先生が教壇に上がって早々挨拶をし、連絡をし始めた。いつも学校の行事や授業に内容だったが、今回はその例に外れる内容が先生の口から話された。


「ボランティアの募集です。なんか向こうの女山っていうところの公園で草むしりをやるらしいです。これが今日の放課後にあります。えーまあ急なお願いなんだけど、やってくれる人」


 突然のボランティア募集。しかも、時期が時期だけに、誰も手を挙げなかった。先生は周りを一瞥した後、紙を見つめた。


「希望があれば、放課後までに私の方まで言ってください」


 そう言って次の話題に移る。朝のSHRは程なくして終わった。


 授業が一時間一時間確実に消費していって、終わっていく。私は先生の話を半分聞き流しながらも、板書された文字だけは確実に逃さないように写していった。


 やがて四時間目を終えると、昼休みに入って、休憩もほどほどにすぐに午後の授業へ入った。ここまで、誰とも話さなかった。残りは数学と生物――それらにグループワークは基本ない。放課後部活なんてものもない。今日は誰一人も話すことはないはずもない。


 全ての授業が終わり、チャイムがなる。終わりのSHR、教壇に立った担任の先生は「朝言ったボランティアの件について、やってくれる人はいますか」と再度希望者を募った。


 先生は誰も反応しないのを見るや否や、「まあテスト前やし、時間は限られていると思うけど、数十分で終わるらしいからやってほしい」と付け加え、ついぞ生徒の方を見ては黙った。どうやら、行く人がいないと帰れない状態になってしまったらしい。


 クラス内に変な空気が流れる。私はその中で後ろの席から周りを見渡していた。誰もが他の人の一挙手一投足を気にしては、我関せずの姿勢を取っていた。


「誰かいませんか」


 数人が後ろを振り返って、クラス全体を見つめる。その中の一人が「誰かやりたい人いませんか」ともう一度言った。その時には誰も彼も帰りの準備を止めていて、じっと黙りこくっていた。


 みなやらなければならないことを分かっているか、それともただやりたいことがあるのか。きっとその二つのどれかだろう。私にはそれがなかった。このままの状態はあまりにも気分が悪い。


 ボランティアをやりたいという意欲的な気持ちはなかったものを、結局私は手を挙げた。


「おっ! 助かる。ほかにやりたい人」


 ぱちぱちと申し訳程度に拍手が起こる。みなテストモードに入っていて、中にはす単語帳を開いている人もいた。どうせ、家に帰っても課題なんてしない。一種の諦めが脳裏を掠める。


「それじゃあ、お前一人やけどよろしくな」


 SHRが終わった後、先生からはボランティアの詳細を聞かされ、最後にそう言われた。


 目的の場所までは意外と早く着いた。神社が傍ににあって、細い路地から行かないといけない。私は自転車を側溝の横に置いて、かばんを背負った。


 路地の緩やかな傾斜を進むと、そこには長い階段があった。その真ん中には手すりがあって、階段の横は草木が連なっている。見上げてみると、階段は空へと続いて、最終地点は見えるはずもない。


 高校の近くではありながらも、一度も寄ったことはなかった。未知への期待が膨らみ、少し童心に返った気持ちになる。かばんを背負い直して、私は一歩踏み出した。


 登ってみて思ったことには、階段を甘く見ていたということだった。かばんを背負いながらの登りは最初は気にもしないのだが、徐々に体の一体感に欠ける重力を強く感じてくる。手すりに左手を置いて、立ち止まった時には「ボランティアの話を受けない方が良かった」と考えてしまっていた。


 ただ、私にその場で反転して降りるという勇気のあることをできなかった。


 ついに頂上に辿り着いた。そして、拍子抜けした。苦労して付いた割には、すぐ見える景色は至って普通の公園に近かった。違う点は程よく管理されているといったところだろうか。既に他の生徒が数人いるようで、立ち話をしていた。内容は来週のテストについてだった。ある一人が全然課題が終わっていないことをしゃべると、笑い声が起こった。


 異性かつ一年上の先輩、さらにそこには見知った顔はいなかった。


 集合時間になった時、紺色の作業服を着た年配の人たちがどこからともなく現れた。それまで何もできずに立ち尽くしたままだったので、都合が良かった。彼らは自身たちの事を公園の保全活動をしていると紹介し、「私たちと同じことをしてくれ」と言って動き始めた。


「お疲れさまでした」


 一時間以上もかかって作業が終わった。その頃にはもう体を休憩をせがんでいた。テキトーな情報を言った担任を脳内でビンタしながら、公園のベンチに腰を下ろした。ベンチに背もたれに身を預け、労働の余韻に浸る。久しぶりに体を動かしたので、高揚感があった。だが、私は改めてボランティアを受けたことを後悔していた。ボランティアは家にいるのと同じくらい空虚だったからだ。


 ベンチから町並みを眺める。案外嫌いではなかったが、好きでもない景色だ。見つめながら、ただ暇つぶしにはなったかなと思った。


「おい、おい君!」


「はい」


 急にこちらに話しかけられて、私は立ち上がった。声の先には先程まで一緒にボランティアをしていたおじさんが斜面の草むらの方にホースで水やりをしている。竹笠で目元が見えずらいが、その眼が私を見つめているのは分かった。


「珍しい蝶がいるぞ、渡り蝶だ」


「へぇ~そうなんですか!」


 私の方を向いたまま、おじさんは顎で前を指し示した。私は急かされるまま、立ち上がった。


 斜面に近づいてみると、それまでは意識をしていなかった花壇が見え、その中には風に靡かれてしだれるイネ科のように水に受けた、頂点に薄紫色の花が連なっていた。しかし、件の蝶というのは遠目からはよく見えなかった。ひらひらと花びらが舞っている。そんな風だった。


「なんて名前なんですか!」


「―――」


 水の音で声が搔き消えた。


「もう一回言ってください」


「あの蝶はな、アサギマダラ」


 アサギマダラ――その蝶の名を反芻する。聞いたこともない名前だ。蝶は依然ひらひらと舞ってステンドグラスのように輝いた。確かに珍しい蝶に見える。その体には薄く透明な青の斑点があって、黒い翅脈が走っている。その姿はまるでいつかで見た教会を想起させ、一部であっても荘厳で美しさを纏っていた。


「渡り蝶ですか」


「ああ。渡り鳥みたいなもんだと思ってくれればいい。ただ、このアサギマダラは日本で唯一の渡り蝶なんだ」


 一息置いて、おじさんは懐かしむように語る。


「折角この公園の手入れをしてるんだからと、なんかしたいと思ってな。渡り蝶の存在を知って、この蝶を呼び寄せるためにわしらは斜面にこの花を育てたんだ。綺麗だろ?」


 おじさんは斜面の方を見つめ、ホースを動かした。紫の花がさざ波を立てるようにになって揺れ動く。緑と紫が一体となる。私は、当たり前のように語るおじさんの言葉に「綺麗です」と相槌を打ってその様子を眺めていた。


 実際あまり難しくないのかもしれない。一瞬そう勘違いした私の愚考を否定する。


 急な斜面に花を植えて、尚且つ定期的に水やりをすること――それを至極当然のようにおじさんは黙々とこの公園でやっている。誰かが素晴らしいと褒めるわけでもないだろう。それを含め多分おじさんが決めたことでそれ以上でもそれ以下でもない。でも、きっと大切なことのはずだ。


 そして、そんな大切なことを私に共有してくれたことに温かな喜びが冷えた心から湧き上がってきた。


「すごいですね」


 私は思わず呟いていた。おじさんには聞こえていたようで「みんなとつくりあげたもんだからな」と言って少しはにかんで見せた。


***


「あれ、今どこにいる」


 途端に顔を驚きに染めた後、おじさんはホースを地面に置いて、斜面をじっくりと見渡した。私も一緒になった。いつの間にか蝶の姿は消えていたのだ。ステンドグラスのように輝く姿は探せど探せど見つかることはなかった。


「もっと見たかったですね」


 私の言葉は本心からのものだった。


 会話が途切れた後、おじさんは黙々と花に水をやっていた。水の手はとどまることを知らず、太陽の光に反射して煌々と一丁前に光って見せた。ホースが動く度、青の作業服が擦れ、乾いた音が水鞠の中で弾けた。日はもう地平線の向こう側に差し掛かっているとまでにはいかないが、力を失いながら傾き、周囲の空をオレンジ色に染め上げていた。


 私はふいにこれをこの光景を記録として残したいと思った。おじさんと出会ったこと、アサギマダラという蝶を見たこと、そして今私がここにいるということ。その全部が記憶として風化させるには勿体ない。証を残さなければいけない。そんな気持ちに駆られた。


 私は魅せられていた。別に写真を撮ることが好きではなかった。そして、それを思い出として残すという行為はさらに好きではなかった。そういうSNSが嫌いではなかったが、それに盛り上がっている周りにいる人たちの投稿を見て陳腐に感じていた。


 だから、私も写真を撮るにあたって、思い出としては取ろうと思うことはあっても、こうも心が擽られることはなかった。兎に角自分の性に合っていたのだと思う。ここで頼まなければ、一生後悔する気がした。


「写真撮っていいですか」


 そんな言葉を発するのにどれほど時間が経ったものか。


「ああ、いいよ」


 おじさんは即答し、私の杞憂は無駄に終わった。スマホを掲げ、焦点を姿の方へ向ける。画面越しで、おじさんは変わらずホースを花に向けていた。顔は水やりに対して真剣そのものだ。山や平野の建物の背景が一体化しながらも、それぞれの色を出している。


 やはり魅せられて自然と指は動いた。カシャリと音がした。


 アサギマダラも取っておけばよかったなと欲が出るが、見れただけでも良かったのではないかと撮った写真を見て思った。写真の中には私の記憶もあったからだ。


 下りの階段は登りより長くはなかった。私は公園から離れた後、少し変な気分になっていた。やってやったぞという達成感が心の中で畝って、不思議と漠然とした不安を感じなかった。


 ただ自転車を漕いでいく。ただ真っすぐ道を見つめる。少し自分の事が好きになっていた。アサギマダラ、名も知らないおじさん。もう二度と出会えないかもしれない。一期一会、そんな出会いを楽しむことができる私が少し誇らしいと思えた。


 私は家までの道をゆっくりと確実に進んでいく。

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少しの自信 伊統葵 @itomary42

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