エントロピーの増大する部屋【KAC20233】
藤井光
エントロピーの増大する部屋
子供との毎日、それはぐちゃぐちゃとの戦いである。
「おきなさい!」
布団を剥ぎ取って、それでも起きない子供をぐらぐら揺すって、なんとか起こす。すでに布団もパジャマもぐちゃぐちゃである。
「顔洗ったの。」
無理矢理顔を洗わせる。パジャマも顔もぐちゃぐちゃになる。
「ごはん、早く食べちゃって。」
当然机も床もぐちゃぐちゃ。
「さあ着替えて。」
小さな足の足下に、ぐちゃぐちゃの抜け殻が残されている。
「いってらっしゃい。」
子供を保育園へと送ったら一時帰宅。
朝ご飯のあとにおもちゃまでしっかりと出してくれた、ぐちゃぐちゃの部屋を見て、ため息をつく。
よくまあこれだけ汚してくれるものだ。
けれど、あの頃に比べたら、ぐちゃぐちゃ度合いはよほど改善している思える辺り、お互いに人生の経験値は上がってきているのだろう。
あの頃とは言うまでもない。乳児期だ。
乳児期のぐちゃぐちゃは今とは比にならない。
まず乳をまともに飲まない。口のまわりはぐちゃぐちゃ。
ゲップさせようと肩に担いだら途端に私の背中へ大量の吐き戻し。子供の服も自分の服も上から下まで丸洗い。下洗いした衣類で風呂場もぐちゃぐちゃ。
ようやく寝たと思ってカップ麺でも作ろうものなら、大泣きして呼ばれて、気づけばカップの中にはぐちゃぐちゃの得体の知れないものが完成していた。
それに比べれば、今の状態などかわいいものかも知れない。
「エントロピーが増大してるな。」
ふと、この言葉が記憶の奥をかすめていく。
高校時代、担任でもあった化学の教師がよく口にしていた言葉だ。
エントロピー。日本語だと乱雑さ。
自然に発生する現象はすべてエントロピーが増大する方向へ動く。
それは外から働きかけをしてやらないと不可逆的で、自然と元に戻ることはない。
ドライアイスが気体の二酸化炭素になったり、炭酸水の瓶を空ければ炭酸ガスが逃げていったり、部屋という空間での話なら、理路整然としていたはずの部屋に本やおもちゃがちらかっていくのもエントロピー増大だ。
私はなぜか彼によくいじられ、
「○○さんの家はエントロピーが増大してそうだな。」
などと言われていた。失礼な話である。
あの頃の私の部屋は、エントロピーはそこまで大きくなかったはずだ。
六畳の和室を妹と半分していたから、散らかしようはずもなかった。散らかして妹の陣地に侵入しようものなら、そこからけんかがはじまってしまうからだ。
だが今、我が家のエントロピーは確実に増大の方へ向かっている。
片付ければ一時的にエントロピーは減少するが、結局子供の帰宅に合わせてエントロピーはまた増大することだろう。
だがそれもまたいい。
そんなことを思いながら、つみき、ままごと、絵本、ミニカー。登園した子供達が残していったおもちゃたちを、その帰るべき場所へと帰す。
いくらでも汚してくれればいい。
得ようと思ってもなかなか得られない体験を子供達は見せてくれている。
できれば片付けまで自分でやって欲しいところだが、それも次第に覚えていってくれることだろう。
さあ、今日は私の仕事も休みだ。子供らが帰ってくる前に、普段はできないマットの下まで掃除しておいてやろうか。
今夜はまたお部屋のエントロピーが増大しそうなグラタンにしようか。
私はそんなことを考えながら納戸へと、掃除機をとりに入るのだった。
――先生、お元気ですか。
我が家のエントロピーは今日も元気に増大しています。
エントロピーの増大する部屋【KAC20233】 藤井光 @Fujii_Hikaru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。エントロピーの増大する部屋【KAC20233】の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます