ぐちゃぐちゃシャドウボクシング

兵藤晴佳

第1話

 ガラじゃないことを白状すると、私には、好きな人がいる。

 同じ高校に通う、2年2組の七尾譲くんだ。

 成績優秀、容姿端麗な美術部員。

 繊細で女の子には優しく、正義感が強くて男の子にはちょっと厳しい。

 非の打ちどころがない彼は、当然、女の子たちの憧れの的だ。

「ねえ、お弁当、一緒に食べない?」

 たぶん、こんなふうに話しかけてみれば、壁はそんなに厚くないんだろう。

 でも、ライバルは多い。

 七尾君はたいてい、こんなふうに返してくる。

「先約があるんだけど」

 本当かどうかは分からない。

 なぜなら、みんな、こう言うから

「ふたりきりでなんて、言ってないじゃない」

 つまり、七尾くんはみんなのもの。

 先約があろうがなかろうが、同じことなのだ。

 そんな相手に、私なんかが抜け駆けしたらどんな目に遭うか……。

 考えたくないが、そんなことをする気もない。

 私と七尾くんの間には、どうすることもできない壁があるのだ。

 

 でも、壁は嫌いじゃない。

 むしろ、友達だ。

 下手に壊そうとすると、なにもかも、ぐちゃぐちゃになってしまいそうな気がする。

 だから、みんなは七尾くんと一緒に帰るけど、私はいつもひとり。

 途中で、こっそり立ち寄る場所があるからだ。

「お邪魔します……」

 どこかというと、春の道端にひっそりと佇む廃工場。

 どのくらい昔からあるのか、よく知らない。

 この道は、高校に通うまで通ったこともない。

 ただ、これだけはよく分かっている。

 スカートにブレザーという姿で入り込むような場所ではないということだ。

「誰かいますか……」

 こういう場所に集まるのは、ろくでもない連中ばかりだからだ。

「いませんよね?」

 もっとも、そんな連中がいたところで、私は何とも思わない。

 いったん拳を構えたら、敵う者などいはしない。

 低く差しこむ夕陽を背に、壁に浮かんだ影に向かって拳を振るう。

 シャドウボクシングだ。

 この街に、ジムはない。

 あっても、私の心がついていかないだろう。

 男どもは、私など相手にはしない。

 かといって、女を殴るのはごめんだ。

 一度だけ、暗がりの中で何人もの男に襲われて、返り討ちにしたことがある。

 もしかすると、そんなことがまた起こるのを待っているのかもしれない。

「無理だな」

 私のものではない、しかしつぶやきに似た声が聞こえた。

 辺りを見渡したが、誰もいない。

 再び、廃工場の壁に向かって拳を振るう。

 その一発が、私の頬をかすめた。

「……え?」

 思わず拳を止めたところで、目の前の影だけがゆらりと動き出した。

 それはやがて、人の形を取って言った。

「人ではお前の相手にならん」

 あまりのことに足がすくんだけど、こんなことで恐れをなしたりはしない。

 必死で正気を保ちながら見据えたが、影は鼻で笑った。

「何とも思わないな、そんな怖い顔をされても」


 それからだった。

 私の周りで奇妙なことが起こりはじめたのは。

「僕と、つきあってください!」

 誰もいない、放課後の教室の中だった。

 ぱっと見には冴えない男子が、七尾くんの取り巻きの女子に告白していたのだ。 

 それを目撃した私は、別に驚きもしなかった。

 女子がこくんと頷いても、心がときめきもしなければ、見ていて照れ臭いとも思わない。

 全てが、予定されたことだったからだ。

 それでも一応、影に尋ねてみる。

「これも、あなたの差し金?」

「そうさ」

 勝手に動き始めた私の影法師がやったのは、こういうことだ。

 声色を使ってお互いの耳に放課後の待ち合わせを吹き込む。

 それまでの間に思わせぶりな囁きでその気にさせる。

 ついには、無人の教室での告白まで持ち込むという、かなり強引なやり方だ。

 私は呆れるしかなかった。

「こんなことして、何になるの?」

「君のためになる」 

 影はあっさりと答えたが、私にはなんのことだか見当もつかなかった。

「私は、別に何も……」

「言わなくていい、僕は君だから。心の中は手に取るように分かる」

 次の日にはもう、その目論見はほとんど達せられていた。


「どういうつもり? 人間関係ぐちゃぐちゃでしょ、これ!」

 たった一昼夜で、学級の中は恋の修羅場と化していた。

 昨日の女子Aから告白されていた男子Bは別の女子Cからの告白を断り、その女子Cに憧れていた男子Dは男子Bに喧嘩を吹っ掛け、一方で女子Aは告白してきた男子Eを振り、その男子Eに恋していた女子Fは女子Aに喧嘩を売り、女子Aの親友である女子Gは女子Fとの間に割って入り……。

 きりがないのでこの辺でやめておくが、早い話、教室の中は疑心暗鬼と派閥抗争のるつぼと化したのだった。

 昼休みになると、その隅っこで、ひとりだけぽつねんとお弁当を食べている者がある。

 七尾譲くんだった。

 口にこそ出さないけれど繊細だから、何が起こっているのかはたぶん、分かっている。

 正義感は強いから放ってもおけないだろうけど、やっぱり繊細だから、いさかいを止めるだけの踏ん切りもつけられない。

 影は私に囁いた。

「今じゃない? 邪魔者はもういないよ」

「こんなことまで頼んでない」

 実際、なんでも望みを叶えてやると言う影に、私は半信半疑で答えたのだった。

 ……七尾くんに近づきたい。

 だが、影は口答えをする。

「君には自信が必要なんだ。そのためには、まず、壁を除いてやらないと」

 確かに、私と七尾くんの間を遮る者はいない。

 それでも、私は余計なおせっかいをきっぱりと断った。

「壁、嫌いじゃないから」

 へえ、と影は感心してみせる。

「恋を諦めて、学級を平和に戻すってわけだね」

 私は、大真面目な顔で切り返す。

「いいえ、あなたを壁に戻すのよ」


 影を壁に戻すには、拳で追い詰めるしかない。

 私は……いや、私たちは再び、あの廃工場にいた。

 いや、初めての顔もある。

「へえ……結構可愛いじゃん」

「誰も来ないだろうし、こんなとこ」

「やっちゃおうか」

 見るからに、若い身空で人の道を外れた連中が、私を眺めて下卑た笑いを浮かべている。

 こんな連中を操ることもできるのだ、この影は。

 こういうのは、欲望に駆られると動きも速い。

 たちまちのうちに、私を取り囲む。

 伸ばした手を弾き飛ばすと、後ろからしがみついてきた。

「あ、つまんねえ、胸ないじゃん」

「俺、こっちさえあればいいから」

 やめろ、ともがいたが、スカートは引き剥がされる。

 だが、獣どもが狂喜乱舞するときの、あの金切り声は聞こえなかった。

 頬に羞恥を溜めた私を突き放した連中の顔は、むしろ青ざめている。

 それでも、このまま立ち去ったりはしなかった。

「ふざけんな、気色悪いんだよテメエ!」

 そのひと言で、私の理性の糸は切れた。

 シュッ、と息ひとつ吐くだけで、男ひとりが地面に落ちるようにして倒れる。

 耳元で、影が囁いた。

「あとで面倒じゃない? 半分は残しておかないと」

 我に返って手を止めると、その半分は倒れた半分を担いで逃げていった。

 春の低い夕日に照らされて、そこに残されたのは私たちだけだった。

 もう、恥ずかしい姿を見ている者はない。

 私がスカートを拾い上げて履くと、目の前の壁には女子生徒の影が映っていた。

 拳を突き出すと、同じ速さで返してくる。

 それをかわして打ち込んだ拳は、同じ拳で受け止められる。

 一発も当たらない。

 シャドウボクシングだから。

 

 次の日の教室は、静かだった。

 何事もなかったように、誰もが程よい距離を取って、当たり障りのない会話で間を持たせている。

 昼休みになると、いつも通り、七尾くんは女子たちに囲まれていた。

 私は、そこへ歩み寄る。

「一緒にお弁当食べない?」

 返事は決まっている。

「先約があるんだけど」

 私たちの周りを取り囲んでいた女子たちは、口を揃えて言った。

「……おふたりで、どうぞ」

 差し向かいでお弁当を食べる。

 何事もなかったかのように、僕たちを放っておいてくれている。


 突然、七尾くんは私に囁いた。

「まあ、自信を持つことだね、お互い」

 私の影によく似た声で言うなり、机の中から取り出したものがある。

 鬼の面だった。

 美術部で作ったものらしく、よくできていた。

「やめてよ……結構、怖いんだからね。いきなり見せられると」

 身体は男の身であっても。

 七尾くんは、可愛らしく微笑んだ。

 たぶん、私はこんなふうになりたかったのだろう。

 七尾くんもたぶん、私になりたかったのではないかと思う。 

 周りのみんなも、それを察してくれているのだろう。

 自分で壁なんか作らなくても、私の周りはぐちゃぐちゃになんか、なったりはしなかったのだ。

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ぐちゃぐちゃシャドウボクシング 兵藤晴佳 @hyoudo

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