ふみふみ浴
髙 文緒
第1話
生理前の体調不良に加え、今日中に確認したい案件がいつまでたっても運航課から戻ってこなかった。
運航課の担当者はいいかげんで、内線電話での催促など、受話器を置いた瞬間に忘れられそうな雰囲気があった。
会社は古いオフィスビルのテナントとして3階と4階に入居している。ビルにはおんぼろのエレベーターが一基あるのみで、たいてい数分は待つことになる。というわけで、ちょっとした連絡には外階段を使って行き来することになる。
アリノの所属する船員課はオフィスビルの3階、運航課は4階にある。
というわけでアリノはいま4階の運航課まで、三往復目の往路にいた。
「何往復もさせやがって」
なんて汚いひとりごとが出るのも止むなしだ。
外階段から吹き付ける早春の風と花粉を浴びながら、いますぐ猫の姿に変わって、この手すりのところで昼寝が出来たらどれだけ気持ちいいだろうかと思う。
これは空想の話ではなくて、事実、アリノは猫に変身できる。
ほら、花粉に鼻を刺激されてくしゃみをしたアリノの頭から、黒い三角形が二つ生えた。
猫の耳だ。
「あーもう、めんど」
アリノは呟いて耳をおさえつけ、猫背になっていた背筋を伸ばす。
シャキーンという擬音を背中に背負うみたいにして、覚醒した顔を作る。そうしてみればアリノはなかなかのバリキャリという雰囲気になる。
日経ウーマンで特集されそうな感じになったところで、猫の耳はひっこんだ。
「生理前って猫の予兆が出るから困る」
ひとり呟いたアリノは、ヒールを鳴らして運航課の担当者の机を目指す。
担当者は席を外しているらしい。どうせ煙草休憩だろう。アリノは煙草の臭いが好きでないので、ヘビースモーカーである担当者の臭いも好きでない。
面と向かうと、シャー! と言いたくなってしまうので、居ないとなれば好都合だ。
荒れた机の上、必要な証書の写しを探す。
紙をかき分ける感覚は楽しい。新聞紙の上を歩くみたい。ふみふみ、ふみふみ。
気づくとふみふみに夢中になって、机の上はますます荒れている。
頭がむずむずしてきて、また耳が出そうな気配がある。
これはマズい、シャキーンモードだ!
顔をキリッと引き締めて、書類をより分けていく。ふみふみはしないように気をつけて。
見つけた、見つけた。
「あ、証城寺さんすみません。証書の件でしたよね」
シャー!
背後から担当者に声をかけられて、思わず威嚇の声が出た。嫌いな煙草のにおいだ。
「どうしました?」
振り向くと、担当者は不思議そうな顔をしている。
「いえ、なんでも。勝手に探してしまって申し訳ありません。終業時刻が近づいていたので、焦ってしまって」
もちろん残業をしたいわけではないけれど、残業したくないから焦っているわけではない。
下腹部が重くなっていて、月経のはじまる気配があるのだ。
油断していた。いつもより周期が早いので、出社してしまっていた。
「いえ、僕が忘れてたせいです。すみません、ご足労いただいちゃって」
ホントだよ、と言いたいところをぐっとこらえて、アリノはバリキャリの顔で微笑む。
終業時刻まであと15分。それから家まで40分。
なんとか家までヒトガタを保っていられますように。
「にゃ−」
間に合わなかった。
アパートの前までたどり着けたのは幸いだ。
エントランスにスーツとバッグを放置して、アリノはベランダを伝って301号室の扉の前に立った。四本脚で。
そして扉の前で、鳴き続ける。扉をカリカリもする。
「あれえ、生理明日からじゃなかったっけ?」
「なーん」
扉を開けて出てきたのは、アリノの恋人の
小柄で童顔のために小学生のようにも見えるが、れっきとした22歳社会人女性。ベーカリー店勤務。
めぐりに抱き上げられたアリノは、甘い小麦のにおいに、思わず頬をすりよせて甘い鳴き声をあげる。
「帰宅中になっちゃったの?」
「なあーん」
「じゃあちょっと、荷物探してきてあげるね。部屋で待ってて」
「にゃあ」
ところで、めぐりは料理全般は大得意なのだが、なにしろ片付けの苦手な女性である。
物を捨てられないし、家にあることを忘れて何度も同じものを買ってきたり拾ってきたりする。
というわけで2LDKの部屋は足の踏み場も無いわけであり、人間のときのアリノはそれがちょっと不満である。アリノとて片付けが得意な方では無いが、一応、やる。しかし片付けても片付けてもおいつかない。
部屋は足の踏み場も無い、と先に言ったばかりだが、玄関からしてビニール傘の林状態である。
しかし猫のアリノは上機嫌でそこをくねくねと避けて歩く。
ポストから運ばれてそのまま廊下におかれたチラシの山も、上を歩けばカサカサと楽しい。
アリノは存分にふみふみ浴を行いふみふみ欲を発散する。
明日から三日間は生理休暇取得である。この特異体質を隠して生きるために、生理休暇を取得出来る会社に勤めたのだ。就職活動時の条件はそれだけだったと言ってもいい。
三日間のあいだ、部屋を片付ける人間は居なくなる。
散らかし放題のめぐりと、それを喜ぶ猫のアリノの一人と一匹の生活だ。
ぐちゃぐちゃの部屋で、丸まって眠って、小麦の香りをまとう恋人の帰宅を待つというわけだ。
難儀な体質ではあるけれど、日向ぼっこに良い季節には、こんな人生も悪くないとも思う。
部屋の片付けは、ヒトガタに戻ったシャキーンのバリキャリのアリノに任せればよいと楽観した猫のアリノは、あくびをして丸くなった。
ふみふみ浴 髙 文緒 @tkfmio_ikura
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