あの日の赤い空(下)
電車はベルを鳴らし、ガタピシと,のろまな調子で動き出した。
少年は手持無沙汰で、車内を見まわす。
老若男女、いろいろな人がいた。
先ほどのはかま姿の老人。鳥打帽とカーキ色の上着に、同じ色のダボダボしたズボンの男。黒い帽子に黒い詰襟の少年。白い帽子に水色のワンピースの美女。作業着のようなものを着た青年。それに――
「――っ!?」
少年は思わず目を逸らし、息を止めた。
その男も、やはり体に欠損があったが――その部位は、腹部だった。
黒い影でほとんど見えなかったが、欠けた腹部からは当然、その、中身が、溢れ――
少年は吐かないように口を抑えようとして、自分が面をしていることを思い出す。外そうと手を掛けた時、目の前に座る鳥打帽の男が、だしぬけに口を開いた。
「外さない方が良い。」
「え?……どうして?」
「……礼儀みたいなものかな。ここでは、顔がちゃんと見える人は少ないからね。偉い人なら別だけどね。」
「そうなんだ……。」
少年は、きっとそう言うものなんだろうと納得する。
男の顔は、相変わらず影に隠れて見えないが、口調は優しく、親しみやすかった。
周りの乗客は、自分たちの会話など気にも留めない。
少年は、先ほどの腹が裂けた男の方を見ないように、窓の外を見るようにした。
建物がない所に差し掛かり、遠くの方の風景が見える。どこもかしこも、残骸と廃墟だらけだった。そしてその合間を縫うように、たくさんの人々がさまよっている。
――いったい、この街は何なのだろうか。
やがて、電車は停留所についた。
何人かの人たちが降車し、それより少ない人数が乗ってくる。降りた人の中には、あの腹が裂けた男もいた。少年はほっと息をつく。
席が空いたので、座ってみた。正面の席には、白いシャツの男が座っている――その席はさっき、人形が座っていたはずだった。
少年の隣のカーキ色の服の男が、また話しかけてきた。
「――君は、どこに向かっているんだい。」
「……帰りたい――僕が、帰るべきところに。」
「……帰りたい、だって?」
「うん。」
「…………まさか。通行券は、持っているかい?」
「持ってるよ。」
ちゃんと、無くさないように肌身離さず持っている。
「……そうか、君は、やっぱり……。」
男は何かを言いかけて、押し黙った。
やがて電車は、橋の上を通りかかる。
ガタピシと車体がきしむ音が、ひときわ激しくなる。その上、橋自体も危なっかしく揺れているようだった。
少年は、空の赤色を直接見ないようにしていたが、ふと何気なく,川面を目に映す。
「!!?」
――否。赤く光っているのは、川面ではなかった。
「……………………にん,げん?」
川には、水など張っていなかった。
そこにいたのは、たくさんの、ヒト型の赤いものだった。輪郭がゆらゆらと、空の光の様に揺らいでいる。まるで火の玉のように。
「……あの人たちは、自分が炎だと思い込んでいるんだ。だからずっと、燃え続けてるんだよ。」
鳥打帽の男が言う。
「そ、そうなんだ……。」
少年はまた目を逸らした――その視線を移した先では、白いシャツの男が自分の両腕を掻いていた。
「カユイ……カユイ……。」
彼が腕を掻きむしるたびに、なぜかくちゅくちゅと奇妙な音が出ている――よく見ると、その両腕は皮がはがれ、何かぬるぬるしたものでおおわれていた。
少年は俯いて、できるだけその音を聞かないように努める。
……ここにいて、心休まるものを見た試しが一度もない。唯一安心して接することができるのは、隣にいるこの男だけだ。
なのに,なんだろうか――この奇妙な、ぬるま湯につかるような感覚は。
時間が経てば経つほど、この状況に違和感が無くなってくる。まるで最初から、怖いことなど何一つなかったかのように。
「恐い」、「気持ち悪い」、「不愉快」――それらの言葉に一体、何の意味があるというのだろうか?
その後、電車は三つの駅で停まった。だんだん、車内に人が多くなってきた。
二つ目の駅で小さな女の子が乗ってきて、忘れ物を探していたが、見つからなかったようだ。
「ない……なイ……誰かガ、盗ンダ゛…………。」
何事か、低い声で呻いている。左目が飛び出しているが、問題なく見えているらしい。
「許、サなぃイいゐッ……!!!」
とつぜん、少女は大声を出す。
少年は後ろ暗いこともないのに、自分が言われているような気がして身をすくめた。
三つ目の駅を超えた時には、車内はぎゅうぎゅう詰めだった。身動きも取れない。この近さでは、目の前に立つ人たちの欠損を目に入れずにおくのは、難しかった。
――そういえば、誰も匂いがしない。
怪我をしている人がこんなにもいるのに、血の匂いが全くしない。ただ、ほのかに線香のような、焦げ臭いにおいがする気がした。
「……なあ、君。」
鳥打帽の男がまた話しかけてきた――なぜか、小声で。
「君はやっぱり……この電車から降りた方が良い。」
「え?どうして?」
少年もなんとなく声を潜める。
「この電車だと、君のお家には帰れない。次の駅で、降りるんだ。」
「でも――その後、どこに行けばいいの?」
「それは…………。」
男の顔には影がかかっていて、表情がよく見えない。
黒いシャツの男が、また自分の腕をひっかく。
車内にぼりっ、と音が響いた。
「カユイ……。」
「それは、僕にもわからないよ。でも、このまま乗り続けちゃだめだ――二度と、帰れなくなる。」
「……なんで?」
少年は当惑した。
「……うまく説明できないな。とにかく、駄目なんだ。」
男は焦ったように言う。その真剣な様子を受けて、少年は尋ねるのを諦めた。
「…………わかった。」
「――次は、譁ュ邨カ、譁ュ邨カ。閾ィ譎ょ●霆、します――。」
車掌がしわがれた声で言う。
「――やはり、開いていたか……そうか、今日はそういう日だったのか――」
鳥打帽の男が何か、よくわからないことを言う。
「――少年、これは天の助けだ。帰り道が見つかった。」
「本当!?」
思わず少年は大きな声を出してしまった。
直後、反対側の座席からぎりりっ、と歯ぎしりの音がする。
そしてその後に、ぐちゅ、ぐちゅっ、とあの嫌なひっかき音が続く。
「…………降りるときは、できるだけ目立たないようにするんだ。」
鳥打帽の男が不安げにささやいた。
「う、うん……。」
窓の外の景色はずいぶんと、赤色の比率が大きくなっていた。だんだん、西の方に近づいているらしい。
少年は、もしかしたら、あの空は壁に描かれた偽物で、電車はその端に向かっているのだろうか、と思った。
それにしても、光があまりにも煌々としているので、あたかも本物の太陽に、近づくと焼かれてしまうような気がした。しかし当然、全く熱くない。
――遂に、その時は来た。
急に暗幕を垂らしたように、景色が真っ黒に入れ替わった。
電車がやけに大きく揺れながら、停止する。
「――さあ。」
鳥打帽の男が少年の背を押す。
だが、他に降りる者が誰もいないので、通路が開かない。
「……すみませんが皆さん、ちょっとどいてくれませんか。この子が、降りるんだ。」
だが、客達は微動だにしない。
また、ぐじゃり、とあの音が聞こえた。
「聞こえない方か……情けない奴らめ。仕方ない、君、ちょっと強めに押しのけてでも、出るんだ。運賃はタダだから、気にしなくていい。」
「あ……うん。」
少年がそっと立ち上がり、目の前の女性を押しのける。心の中でごめんなさい、と言いながら。女性は質量がないかのように、簡単に脇にずれた。
少年はちょっと振り返って、「おじさん、ありがとう――」と言った。
「ああ……さよなら、達者でな。」
男は顔を上げずに答えた。
少年は人々の尻に挟まれながらなんとか潜り抜けていく――そのうしろで、別の誰かが動く音がした。他にも降りる人がいるのだろうか。
――少年がステップに足をかけた、その時、
少年の腕は、通路の反対側から伸びてきた手につかまれた。
ぬるり、と嫌な感触が二の腕を襲う。
「――!?」
振り返るとそこには、あの白シャツの男が立っていた。
「――――かゆい。」
「――なん、ですか……。」
「かゆい、カユイカユイカユイ痒いぃッ…………!!痒くて虫唾が走る――ここまで来て、帰してもらえるとでも思っているのかっ!」
男は顔を上げる――真っ赤に焼けただれた、凄惨なその顔を。
「俺は、お前のような卑怯者に我慢ならない……!軽い気持ちで入りこんできて、他人の不幸をわがもの顔で見物し、傷一つなく帰っていくお前たちがっ――!」
男は激しく歯ぎしりしながら言う。
男が手に込める力が強くなる。握ったところからじゅっ、と音がして、火花のようなものが出ている。少年は驚いて振りほどこうとしたが、できなかった。
「――やめないか!」
後ろから、鳥打帽の男が彼の肩をつかむ。
「この子は何も悪くないじゃないか!通行券だってちゃんと持ってるんだぞ!」
「――通行券が何だ!偉そうに!」
「かわいそうだろう!」
「可哀想だと!?こいつらは、生きてるじゃないか!俺たちのことを忘れて、平和にのうのうと――」
「――やめなさい。」
更に後ろから、別の声が掛けられた。
「――この子を連れて行ったら、そのぶん楽になるとでも言うのかね。」
「――っ!」
白シャツ男の醜い顔が、さらに大きくゆがむ。
「この子のせいにしても、どうしようもないことくらい、わかっているだろう。」
「…………クソッ。」
男は二人の人物の説得で、ようやく手を離した。彼の掌からは、煙が出ている。
少年はよろめきながら、地面に降り立った。思わず自分の手を確認するが,血の一滴もついていなかった。
「大丈夫かい?」
鳥打帽の男が、降りてきて言う。
「う、うん……あ、あの人の腕、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。すぐ元に戻るんだ――その代わり、あれ以上良くもならないけどね。」
少年が白シャツ男の方を見ると、確かに彼の腕は焼けてなどいなかった。それに、あれだけひっかいたにもかかわらず、見た目はほとんど変わっていない。
彼を説得した人物は、最初に少年が会話したあの老人だった。彼らは何か話し合っていたが、よく聞き取れない。どうも、この街では音の響きが悪いようだった。
「――よかった。出口はすぐそこだね。」
鳥打帽の男が言う通り、すぐそこに「出口」はあった。
それは、空の一角にぽっかりと開いた、赤黒い穴だった。
入るのがためらわれるような見た目だが、少年はそれに、よく慣れ親しんだ安堵感を覚える。
「うん……いろいろ、ありがとう。」
「礼には及ばないよ。もう、こんなところに来ないようにするんだよ。」
男はようやく顔を上げて言う。
――ああ。
少年は、男が今まで顔を隠していた理由が分かった――彼の顔は、今まで見た度の人よりも、ひどく崩壊していた。もはや顔に見えない――ただの、引き裂かれた肉の塊のように、糸を引いている赤黒い何かでしかなかった。
それでも、少年はもうおじけづかなかった。ただ――
「……おじさんたちは、これからどこに行くの?」
「……あっち側だよ。」
男はまた、うつむいて顔を隠しながら、指をさす。
それは、この黒い場所の向こう側――西の果ての、もっとも光が強いところ。何か、大きな炎のようなものが見える。
「……あんなところに入って、熱くないの?」
「はは……慣れてるから大丈夫だよ。……今だってこんなに熱いしね。君は、平気なんだろう?」
「うん……。」
どうやら、自分だけが熱さに鈍いらしい。
「もう、何度もこういうのを見てきた気がするよ……君のような人が来るたびに、ね。あのほかの客たちも、どこかであったような気がする。」
――この人たちは何度も、こんな炎の世界を巡っているのだろうか。
「……おじさんたちは、帰れないの?」
「……帰る場所が、無いんだ。僕たちはね、みんなからだんだん忘れられていくと、持ち主がいない記憶の中で止まってしまうんだよ――この街と一緒にね。」
「…………じゃあ。」
少年はそう言って、男の手を取った。あの男と同じように、ぬるりとした感触がしたが、かまわない。
「――――僕が、おじさんたちのことを覚えておくよ。」
男は、はっとした顔をする――その瞬間、確かにそこには、男の本来の顔があった。
「――――ははっ。おい……こりゃ笑えるね。まさか、僕の目にまだ水分が残ってたなんて……。」
男は肩を震わせながらそう言う。
「――少年、ありがとうな。こっちこそ……。」
男は少年の手を離した。
「うん……!今度は、違うどこかで会えると良いね!」
そう言って少年は、出口に向かって歩き出す。
「ああ、もしできることならな……。」
その寂しそうな声を聞いて、少年の歩みに一瞬ためらいが生じる。
――だが、いつでも去り時と言うものはあるものだ。少年は、そう知っている。
電車はまだ、動かない。手を振る男と共に、少年を見送っているようだった。
少年は、永遠に凍った炎を背に、暗闇に帰っていく。
彼の正しい列車が待っている方へ――本物の、太陽が昇る方へ。
あのにます:怪異幻想断片集 現観虚(うつしみうつろ) @ututuro
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