あの日の赤い空(上)

 解像度の悪い写真のような,いやにべったりと張り付けたような赤色の世界。或いは視界。

 赤と黒のあり得ないグラデーションを背景に、同じく赤く照らされた尾根と,その麓にぽっかりと空いた黒々とした穴――すなわち山中のトンネルから、一人の人影が出てきた。


 リュックサックを背負い、鹿の面をつけた少年である。少年は迷子だった。

 今しがた出てきたトンネルは、入り口であって、出口ではない。ゆえに少年は、帰り道を探さなくてはいけなかった。


 トンネルの外は、影の国のようだった。


 全ての建物が影でできているようで、姿がはっきりととらえられない。


 ただ、西の空だけが、炎のように真っ赤に燃えている。しかし、そこに光源である太陽があるわけではない。

 ただ、写真が捉えた一瞬の様に、何かの光が静止した状態で、ある。


 一方、その光の外は、どす黒い闇だった。

 夜と夕暮れの境、と言うのでもない。

 星は一つもない。夜空ではなく、ただの、闇。


 赤と黒の境界線は、水彩画のごとく中途半端に溶けあい、光線が糸のように、闇と絡まり合っていた。


 そしてその下に広がる街は、全て影でできているのである。そこには、西の空の光は届かない。光が闇に、ではなく、あたかも影が光の中にさしこみ、覆い隠しているようだった。


 その陰の中に足を踏み入れたら、自分の居場所がわからなくなってしまいそうで、恐ろしい。

 だが少年は一方で、西の光の方が、もっと怖かった。それは自分がよく知っている光ではなく、もっと何か、グロテスクで巨大な生物のように思えたのだ。あまり長く見つめていると、頭がおかしくなりそうな。


 少年はできる限り西から目を逸らして、てくてくと歩いていく。

 どういう訳か、こんな真っ暗な世界でも、自分の体だけは周りから浮き上がったように、はっきりと見える。まるで自分だけが,一つ上の次元から来たかのような,場違いな感じがする。


 街の方の様子を見てみたが、やはりよくわからない。

 建物は、ずいぶん少ない。ほとんどのところで、真っ平らな土地に、点々と何か、柱のようなものが見える。その中に、ちらちらと人影が見えた気がした。


 少年は、思っていたよりも早く街中に出た。

 遠近感はあるのに、風景が通り過ぎていくのが、やたらと早い。まるで、山も建物も、ただの張りぼてでできているかのように。


 改めて町の中に立って、周りを見渡してみると、やはり人影が見間違えではなかったことがわかる。

 この距離からでも、人影は黒く塗りつぶされていてよく見えないが、輪郭から、ずいぶんぼろぼろの服を着ている人が、多いことに気づく。立ち振る舞いも、浮浪者のようだった。


 ぼんやりと立ち尽くしている者。俯いている者。ふらふらと妙な歩き方をしている者。電柱に頭を持たれかけている者――


 少年はなんとなく、彼らと目を合わせないようにしながら歩く。


 さらにあたりをよく見てみると、先ほど見た点在する柱だと思ったものは、実は廃墟であることが分かった。

 柱だけではなくて、崩れた壁や建物の残骸らしきものがある。そんなゴーストタウンの中でも、人々は当然のように暮らしていた。

 あそこは茶の間だろうか。家族がちゃぶ台を囲んで団らんしている。何やら盛んに喋っており、時折くすくすと笑い声が混ざる。小声なのに、ずいぶん近くに聞こえた。

 ――天井がないのに、雨が降っても平気なのだろうか。

 いや、この赤と黒の空の下に、透明な雨など永遠に降らないのかもしれない。


 住宅街らしきところを抜け、上り坂を上っていると、遠くの方に、川が見えた。周りは真っ黒だが、水面が反射して赤く光っている。かなり速い流れだった。


 立ち止まっていると、坂の向こうから、一人の男がこちらにやってきた。けだるそうに、ずるずると足を引きずりながら歩いている。


 少年は思い切って、道を尋ねようと思った。


 すれ違う直前、「あ、あの――」と言いかける。



 ……だが、男の顔を見て、口を慌ててつぐむことになる。


 その男には、両目が無かった。


 その代わり、その位置にはぽっかりと空洞が開いている。黒い影で覆われた顔より、更に黒い、深い穴が。


 少年は、凍り付いたように動けなくなる。


 幸い、今の自分の声は聞こえていなかったようだ。


 男は眼球がないせいか、少年の存在に全く気付かずに通り過ぎていった。

 脇をすれ違う時、男の口から「ヒューッ、ヒューッ」と、壊れた楽器のような、無機質な呼吸音が聞こえた。


 男が遠くに行ってから、少年はようやく歩き出すことができた。


 ――今のは一体、なんだったのか。

 わからない。ただの見間違えかも知れない。


 そのまましばらく歩いていると、すれ違う人影の数が増えていった。


 少年はその最初の一人に話しかけようとした。……が、またしてもできなかった。

  

 その女には、顔が無かった。その代わり、本来顔がある所から、何か薄い紙のようなものがひらひらと垂れ下がっている。


 次の人は、左足が無かった。


 その次の人は、背中からたくさんのとげのようなものが生えていた。


 その次も、その次も――


 まっとうな見た目の人間は、一人もいなかった。どうやらこの街では、それが普通らしい。

 

 少年は結局、誰とも話さずに進んだ。


 しばらくして、少年はバス停のようなところにたどり着く。

 そこにはすでに、何人かの人が列を作って並んでいた。当然、彼らも体にどこかしら異常な部位を持っている。


 ――大丈夫、恐れる必要はない。きっと、この場所では当たり前のことなのだ。

 少年は自分にそう言い聞かせた。


 列の一番後ろの男は、何やら一人でぶつぶつとつぶやき続けている。


「――あ、あの……バスって、いつ来るんですか?」

 少年は遂に、意を決して話しかける。

 だが、返事はない。男は相変わらずぶつぶつ言っているだけだった。

 良く聞こえないかったのかと思い、少年は仮面を外そうとする――はて、そういえばどうして、こんなものをつけているんだっけ。


 仮面を外して顔をさらした、その瞬間――少年は突然、並んでいる人たちから一斉に睨まれた気がした。

 慌てて、仮面をつけなおす。


 少年が困っていると、後ろから声が掛けられる。

「電車なら、もうすぐだよ。」と。

 少年は思わず肩をびくりと震わせ、振り返る。

 そこには杖を突いた、はかま姿の老人がいた。彼もまた、左足の膝より下が無かった。

「あ、そうなんですか……えっと、それに乗れば、帰れますか?」

「帰る……。どこへ?」

 老人は独り言のように問う。

「どこって……わかんない。」

 少年は自信なさげに言う。

 ただ、とにかく帰ると言ったら、帰るのだ。

「……そうか。それじゃあ、私たちについておいで。」

「……おじいさんたちも、どこかに帰るの?」

 そう尋ねると、老人は少しの間黙ってから、こう答える。

「――帰れなくなったから、ここにいるんだよ。」

 老人は、どこか遠くを見ながら言う。

「……………………。」

 少年はなぜか、その意味を聞こうとは思わなかった。


 やがて、ベルの音を鳴らしながら、箱型の車両がやってきた。


 しかしそれは、予想に反してバスではなく、電車のようだった。

 影でよく見えなかったが、地面には枕木も並んでいるらしい。


 少年は前の人たちに続いて、きしむ電車に乗り込む。ずいぶんぼろぼろだが、本当に大丈夫なのだろうか。


 後ろから、最後尾の老人も続く。片足がないのに、ちゃんとステップを登れるだろうかと心配したが、老人はするりと難なく乗り込んだ。

 電車の中は、ほとんど開いている席が無かった。少年は老人に席を譲って、自分は最後の一つに座ろうとする――そこには一体の人形が置いてあった。誰かの忘れ物だろうか。

 なんとなく、どかすのが憚られて、少年はそのまま吊革に掴まって立った。

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