喪のテディベア
koumoto
喪のテディベア
サエちゃんの机に、熊のぬいぐるみが置かれている。そのちょこなんと鎮座したテディベアは、死んだサエちゃんそのものだ。
「この問題、わかる人いるかな?」
教壇の上に立つ先生が、教室に居並ぶ生徒たちを
「あら、サエちゃん。元気に手を挙げているわね。じゃあ、みんなに答えを教えてくれるかな?」
熊のぬいぐるみはなにも言わない。重苦しいほどの、テディベアのまったき沈黙。
「そう、そのとおりね。さすが、サエちゃんは勉強熱心ね。もちろん正解です。みんな、賢いサエちゃんに拍手しましょうね」
ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち。死者を讃える拍手。照れて頬を赤らめるサエちゃんであるはずのテディベアは、机の上で微動だにしない。生きていた頃のサエちゃんは、そんなに頭はよくなかった。先生に当てられても、答えられずにまごつくことが多かった。積極的な挙手なんてするわけがなかった。それでも、いまのサエちゃんであるテディベアは、先生によれば、とても聡明な生徒であるらしい。きっとそうなのだろう。死者はなんでも知っている。そうに違いない。
電車の座席に座っていると、停車した駅で、熊のぬいぐるみを抱いた女性が乗り込んできた。周りの乗客たちが、少しだけ息を呑み、空気が変わった。
子どもを亡くした母親らしきその女性は、慈しむようにテディベアを撫でながら、座席に座った。ぼそぼそと優しく語りかけるように、なにも言わないテディベアになにごとかを囁いている。
「……そう、お父さんのね……うん、昨日から……え? ……ふふっ、違うわよ……お菓子? ……帰ったらね……」
秘密めかした、どこか哀しい声が、洩れ聞こえてくる。テディベアは利口な子どものように、なにも喋らない。いや、いっぱい喋っているのかもしれない。母親の終わりのないような囁きは、時おり途切れて、耳を澄ますような沈黙に引き裂かれるからだ。
不意に、その母親の様子が変わった。テディベアを撫でていた手が止まり、うつむいて、両手で自分の髪をかきむしり始めた。ううっ、ううっ、と苦しそうな、喘鳴のような泣き声を洩らしながら。周りの乗客たちは、なにも言わない。手もさしのべない。
その母親は急に立ち上がり、テディベアの腕を掴んで、床に勢いよく叩きつけた。そこで初めて、乗客たちは一斉に激烈な反応を見せた。咎めるような、非難するような眼をその母親に向けたのだ。
社会そのものであるその視線の包囲に対して、母親はしばらく気にもせず、死体のように床に寝転ぶテディベアを見下ろしていたが、とつぜん我に返ったように抱き上げて、テディベアに頬ずりしながら愛する我が子への囁きを再開した。周りの乗客たちは満足したように、ふたたび、気遣うようなこころ優しき無関心を装う状態へと戻った。
「ねえ、お母さん」
「うん?」
「なぜ、人は死んだら熊になるの? なぜ、みんなでままごとみたいなことをしているの?」
お母さんは、子どもはどうやって生まれるの? と訊かれたように、まごつき困惑し、慌てふためいた。家には他にだれもいないのに、だれかに聞かれはしなかったかと、疑心暗鬼に苦しむような怯えた眼で、周囲をうかがった。
「そんなことは、口にしてはいけません」
言ってはいけないらしかった。
みんなが黒い喪服を着て、橋の上から川を見下ろしている。それぞれの片手には、それぞれのテディベアが。
ひとりずつ、順番に、名残を惜しむような手つきで、橋の欄干越しに、テディベアを川へ投げ入れる。熊のかたちをした死者たちが、恨み言ひとつ言わずに落ちていく。
サエちゃんの番が来た。サエちゃんのお父さんが、沈痛な面持ちでテディベアを掲げ、最後の別れを告げるように、まじまじと見つめた。それから、惚れ惚れするような無情さで、こともなげにサエちゃんであるテディベアを川へと投げ捨てた。
ぷかぷかと、サエちゃんが頼りなげに、寂しげに、仏頂面の熊の顔をして漂っている。他の大勢のテディベアと一緒に。ゆっくりと流れていく。熊の死者たちの濁流にまぎれ、やがてサエちゃんの顔は見えなくなった。
喪服のサエちゃんのお父さんは、テディベアたちの流れを見送りながら、静かにすすり泣いていた。
あのテディベアたちは、だれが片づけるのだろう。みんなが流れた先で、津波の後の海辺のように、数えきれないほど浮かんだ死体たちを、だれかが片づけるのだろうか。厳粛に。あるいは機械的に。あるいは祈るように。
わたしは、すべてが馬鹿馬鹿しいと思う。わたしは、大人たちは馬鹿だと思う。わたしは、生前のサエちゃんの友達のひとりとして、すべてに納得していないと思う。それでもわたしは、他に悼むやり方を知っているわけでもなかった。わたし自身の痛みとも、どう向き合っていいのかわからなかった。
サエちゃん、さようなら。とことわに惜しみなくさようなら。熊に
喪のテディベア koumoto @koumoto
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