リキャプチャー
丹路槇
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バイトで稼いだ金が今月もサークル費と飲み代であっという間に消えた。夏は納会と合宿、秋は学祭とライブ、1月からの長い春休みと新歓で貯金が底をつく。
人と喋ることが不得手な自分が間違って入ってしまったこのサークルを辞めようと思い続けて二年、未だにその機を見定められずにいる。人間関係も惜しくない、やっていることに興味がない、そもそも活動に参加すること自体がほとんどない。
きっかけは些細かつ不純で、入学してすぐに正門前で人集めをしていた新歓にふらふらとついて行っただけなのだ。連日のコンビニ飯よりも美味いただ飯にありつけると踏んで、その日限りの都合の良い参加者を装おうとしてしくじった。その代償がこれだ。
入ったサークルは陸海大学お笑いサークル、略してROS。シャバすぎる。センスの欠片もない。
今夜も脱会宣言の頃合を掴めないまま、ずるずると宴会の末席に居座ってしまっている。
散会の頃には新宿駅のJRもメトロも一本も動いていなかった。予約していた居酒屋の座敷を追い出され、カラオケやネットカフェに雪崩れ込む者、朝まで開いている別の飲み屋を見つけて吸い込まれていく者、時たま徒歩で帰宅を試みる者もいたが、挙手で参加者を募った者が俺に視線を留めることはない。
意志もこだわりもない俺の行く先はいつの間にかサークルでは周知の事だった。こうなると決まって同期の住むマンションの一室に引っ張られるのを、当の本人以外は全員承諾している。
「ウス、行こう」
石田恒太という名前があるのをとっくに忘却しているのだろう、この男はいつも俺をウスと呼んだ。高校時代にラグビーをやっていた体格の名残か、あるいは過去の宴席で猿蟹合戦の臼のようだと先輩に揶揄われたのを傍で聞いていたようで、以来そのあだ名を好んで使ってくる。こちらも別に否定したり嫌がったりしていないからそのまま定着して、最近はさほど親しくない連中にまでウスと呼ばれたりする。
「あんたの家、酒あるの」
念のため尋ねると、やはり前回同じように俺を招き入れた晩から冷蔵庫の中身が全く更新されていないとえらそうに言われた。苛々して溜息を吐くと、思ってもいないくせに男はしきりに謝って許しを乞おうとする。
成り行きで深夜の閑散としたコンビニに入った。エアコンが効き過ぎていて空気が乾いている。喉がつかえる前に口に溜まった唾を飲み込んだ。レジにも店員が立っていない。裏で発売日の少年誌でも読んでいるのだろう。
男は構わず籠を取ると、水に食パン、洗濯洗剤、シェーバーなど日用品ばかり放っていく。前は飲み直す気があるのかと顔を顰めもしたが、もう何を言っても無駄なので新品の肌着と長缶のハイボールを手に取って籠に放り込んでいく。
翌日の服は家主の物を借り、別の日にまた自分の服を着て帰り、と行き来していたので、半袖も冬服もごちゃ混ぜにこの同期の部屋に置いてあった。俺は幅広の中背、男は細身の長身なので、きつくも緩くもなく借りたものは大抵違和感なく着られた。自分も要る物なら回収すればいいだけだし、結局一度たりともそれをしたことがない。別に身綺麗にして赴く所もないので男が好むメタルTシャツも何のポリシーもなく拝借していた。
「キヨマ」
俺が先を行く同期を呼ぶ。酒も肴も無断で適当に買うが、デザートコーナーにあるカットフルーツは翌日摂るヨーグルトに入れる主役なので、何故か毎度吟味の際には両名立ち合いの下という暗黙のルールがあった。
「ん、今日どんな気分?」
「リンゴ」
「ウス、可愛い果物が好きだよな」
「可愛くねえ果物教えろよ」
承諾と受け取ってカットフルーツ二袋を籠に放った。明らかに割高だが、俺はこの深夜の訪問の翌朝に生活感を求めていなかった。単価が高いから頻度を抑える歯止めにしたい時期もあったが、それも無意味だと既に証明されている。
キヨマがいつも持ち歩いているエコバッグを預かって広げると、レジを通った商品を詰め込んでいった。知らない間にウイスキーが一瓶入っている。明日の夕方まで廃人のように二日酔いに苛まれることを覚悟した。昼過ぎにジャンケンで負けた方がマンションの入口脇にある自販機まで水を買いに行く。夕方に俄かに食欲が無尽蔵になると、今度はコンビニでカップ麺を食べきれないくらい買ってくる。そのまま二泊することもある。屑みたいな学生生活だ。そしてそれが自分によく似合っていると思っている。
「持つよ」
キヨマの手が伸びてくる。平生の骨抜きみたいな恰好とは別物の、長くて節くれだった指が緩く開いて掌を街灯に晒す。身を引いてその手を躱してから、「清水くんの家にお邪魔しますんで」と素気無く返した。
この男の方は分かりやすく、清水真人の読みが改変され略されてキヨマになった。高校時代からそう呼ばれていたのか、サークルでふと名付けられたのかは知らない。はじめから今と全く同じ調子で「キヨマって呼んで」としつこく言われたのにただ従っただけだ。
それが何を意図しているのか分からないが、キヨマはそうではない呼称を使われると、口喧嘩で負けそうな少年の顔をして「それ、やめろよ」と怒る。ちなみに女子には全く怒らない。清水くんと呼ばれるとむしろ鼻を伸ばして喜んでいる。全く迷惑な話だ。
「ウス」
「なんすか」
「明日、バイト?」
これも毎度の定型句だ。そんな訳あるか。あんたに呼ばれるのが分かっていてサークルの週例とイベントとその翌日は深夜帯のバイトは外しているのだと言ってやりたかった。その代わり普段は日中に講義とゼミ、仮眠して深夜から早朝まで夜勤を入れるので、自分でもこの慢性の寝不足の中でどうやって生き延びているのかがよく分かっていない。
眉を寄せて自分より頭半分上背のある男を睨めつける。そうすると今度は狼狽える様子もなく、立ち止まってこちらを真っ直ぐに見つめてくるのだ。
サークルから二年も脱けられずに居座っているのは全部この男の所為だと断言する。
今日の週例から突然つけてきたスポーツブランドのヘッドバンドを指摘して、「それ、似合ってない」と言ってやった。キヨマは慌てて耳の後ろに手をやり、伸びて湿気でうねる前髪の端をつまんでみせる。
「だって、こないだお前の真似して短くしたら失敗したんだもん。こうやってしばらく伸ばすの」
「シャバくさ。縛れば」
「ウスみたいに器用にできない」
明日、風呂の後にまた頭やって。男は訳もなく強請った。その都合の良さも甘え上手なのも、サークルでコントのネタを書く男なのだから自然と身につけた社交性と考えればいいのかもしれない。それが何故コンビの相方など手近な相手ではなく俺のような幽霊マネージャーに向かってくるのかという謎は、できることなら当分解き明かされなくていいと思っている。
床に差す陽光が熱い。寝ようと思っていたわけではないのに、卓袱台の脇で蹲り少し目を閉じていたら、次に意識が戻る頃には、もうとっくに朝の電車が動いた後だった。
腕を突っ張って起き上がり、近くにあるグラスに入った飲みかけの水を口に流し込んだ。傍でいびきをかいて寝転がっていると思っていたキヨマの姿はない。
立ち上がってテレビの脇にある扉がふたつしかない小さな冷蔵庫を開ける。横倒しになった2リットルのペットボトルを引き出してそのまま口を付けて緑茶を飲んだ。床に座った姿勢で無理に伸ばした手で扇風機の電源をつける。エアコンは連続運転の自動装置が働いて今は送風口が閉じられたままだ。
テレビのリモコンを探したが見つからなかったので床に這うように上体を倒す。フローリングのソファと卓袱台の先まで見通すと、窓際のカーテンが不自然に膨らんでいるのにやっと気づいた。
四つ這いになってカーテンをめくると、蒸し風呂みたいになった小さな空間から脚を折って座るキヨマが出てくる。何やってるんだと怒気を込めて声をかけると、ぼんやりした顔でこちらに向き直った。
「ウス、おはよ」
「おはようじゃない、脱水になるだろ」
「ううん、水はさっき飲んだ」
男の手首に通っている黒の髪ゴムを引き抜き、前髪を適当に掻き上げて旋毛の後ろあたりで括ってやった。隠れていた額から玉になった汗が出てきて、濡れた前髪がめくりあげられたからか、その涼感に「きもちいい」と素直に目を細めている。
一度シャワーを浴びて体温を下げろと忠告したが、男は黙って微笑んだままその場を動かなかった。まだ酒が抜けていないのだろうか。昨日も普段通りに気が済むまで飲んではいたが、途中で意識が飛ぶこともトイレに駆け込むほどの深酒をするまではさすがになかったのに。気を揉んで水を汲んで来ようとすると、立ち上がる前に腕を掴まれる。
何、と尋ねると、片膝を立てて静止したままの俺を見上げて、キヨマは消え入りそうな声で言った。
「ウス、はーちゃん知らない?」
「は?」
「はーちゃん。サークル、ちょっと来てただろ。俺、学科一緒なんだ」
いつもは聞き覚えのある名前でも知らぬ存ぜぬを突き通すのが常だが、この時は憔悴しきっている同期の顔に気圧されて、少しばかり記憶をさらうことにする。
確かに二年の頃はそんな名前を耳にしていたはずだが、かといって直接話したことがあるかどうかも怪しいレベルの距離感だ。朧げな記憶では女子だった気がする。
キヨマの学科ということは、別学部の俺は授業の棟もほとんど別だった。きっとサークルにまだ顔を出していた頃にその女が〈はーちゃん〉であることを認識した程度、ということだろう。
「思い出した」
「そう。最近、見た?」
見るわけない、と即答できるほどなげやりにもできず、黙って首を横に振った。キヨマは諦めたようにふっと微笑する。
「やっぱり。いなくなっちゃったんだよね、はーちゃん。もう半年くらい見てない」
「そんなもんだろ」
「そんなもんかな。俺、昨日の週例の前、ダメなんだけど、分かってるんだけど……はーちゃんの棚、開けてさ。それで、実家の場所、分かった」
男のいつにない狼狽えようはそのせいかとやっと分かった。観念して窓際のフローリングに腰を下ろし、視点は男に掴まれたままの手首に置く。
適当にシャワーを浴びてから雑魚寝の部屋を出る。駅前のコンビニに寄り、買った鮭にぎりと納豆巻きを飲むように食った。屋内にいれば至極快適だが、九月を迎えても相変わらず日が出ている時間帯の都内は生命の危険を感じさせる猛暑だ。風呂上がりに乾かすのを億劫がって、その上汗で濡れっぱなしのキヨマの前髪を再び適当に掻き上げて括った。毛先を団子にしてやると指先で触って確かめながら無邪気に笑い、「ウスは器用だなぁ」と手放しで俺を褒める。
体感よりずっと早い時刻に最寄駅に着いたので、新幹線の切符購入は却下して鈍行で乗り継ぐことに決めた。
「小田原まで17駅もあるの? ウス、俺それまでにきっと吐く」
長身の男が程よく日焼けした血色のいい四肢を晒しながら、ホームのベンチに仰け反って顔を顰めた。
「電車でやったら、吐いたもん飲ませるからな」
「ひどい、優しくない」
「誰のせいだと思ってんだよ」
出立前にカーテンの影でキヨマが開けたと話した部室にある棚は、部室の壁一面にあったので出入りする者がおのおの好きな場所に荷物を入れていた。南京錠を下げることもできたが、結局鍵を失くして開かずの扉になった棚を幾つも拝んでいるので、部員たちは指定の棚にマグネットをつけたりテープを貼ったりして個のスペースを主張しつつもほぼ無施錠で使っていた。キヨマはよく他人の動向を観察したり着地のない会話をしたりするのを好むので、それで所在が不明になった女子の棚が何処だったのかを覚えていたのだろう。
レジュメや参考書に紛れて奨学金の継続申請書類が入っていたらしい。不躾に内容まで目を通すと、保証人の欄に同じ苗字の氏名と住所が書いてあった。携帯のカメラで撮影されたその画像を隣から覗き込む。静岡県伊豆の国市。場所が分からないからマップアプリで住所を入力して経路の検索をした。番地を写し取りながら、申請者本人の氏名欄が視界の端に映る。
男がはーちゃんと呼ぶ学科の女子は、間宮もみじという名前だった。
「……どのへんが〈はー〉なの」
「マミヤのマをハザマって読んだ時の頭文字かな」
ホームに快速急行の列車がどっと流れ込んでくる。先に立ち上がった男の背に、所在の分からない非難を浴びせた。
「暴力的なこじつけだな」
「あだ名ってそんなもんだろ」
ガタンと鉄がこじ開けられる音がする。ドアの横幅いっぱいに広がって乗車すると、ラッシュが終わった列車は疎らに空席があった。
キヨマが車窓を背にして遠慮なく座席を確保する。俺はその足下に鞄を放って向かいに立ち吊り革を掴んだ。飼ってる犬がカンって言うからカンちゃんになった奴もいるよと話し続ける男の声を適当に聞き流す。
小田原で東海道線に乗り換える。熱海の先で長いトンネルを潜った。函南は小さな駅で、その先の三島はホームから大学の看板がでかでかと見える。
「降りるぞ」
「うそ、もう?」
「ちがう、まだ」
JR三島駅からの連絡改札を出て、今度は駿豆線を待つ。怠惰な男はホームに並んでいる古風なデザインの青いベンチを見つけると小走りに近寄り、背を滑らせてどかりと座った。日陰になって涼しそうなその隣席に少し遅れて腰を下ろす。キヨマは向かい側のホームに停車している青い電車を眺めて「目がくりくりしてんなぁ」と呟いた。電車のヘッドライトを目と呼ぶならば前面の車窓はなんて言うんだと思うが口には出さない。
「ねえウス、あと駅いくつ?」
隣の男はすっかり油断しきっただらしのない声で話す。お笑いサークルでネタを書きライブをこなしていても、WEB配信もサークルの公式チャンネルに義務感で載るだけ、プロの賞レースや事務所入りについては全く興味がないようだった。他の部員はなんとなくそのきらいがあって、日常でも気張って面白おかしくトークを盛り上げようという面々が揃っているだけに、キヨマの緩急のない平穏な喋り方はかえって独特だった。
乗換案内のアプリの画面に切り替えて携帯の画面を差し出す。7つ目の停車駅で降りることになっている。
コンビ同士であればここでひとボケでもするのだろうが、俺はもともとつまらない殺風景な人間だ。お笑いも芸能もさらさら興味がないし、はじめの新歓だって、声がでかくて話好きの連中ばかりの所に行けば、気配を消して静かに食事ができると打算的に考えたからだった。
隣の男が加減なく寄りかかってくる。頭の横側がぶつかって頬が肩の角に擦れた。
「7駅かぁ、このセリヤマってとこ?」
到着時間と共に経路の最下部に書かれた「韮山」の文字を指さす。返事はアナウンスの音声に一度消された。俺の声を聞き取ろうと、キヨマは更に顔を寄せてくる。まだ少し酒臭い。
「ニラヤマ。あんた馬鹿なの」
確か反射炉という良質な鉄を生成するための歴史的施設があるというようなことは、受験期に頭を悩ませた日本史の解説で読んだ気がした。詳しく覚えていないので説明を割愛して携帯の検索画面を開くと、「ウスは造詣が深いなぁ」と愉しそうに言ってくる。それが人を小馬鹿にしたようには聞こえないのが悔しい。
「いいから、早く酔いを醒ませ」
肩で力の抜けた頭を跳ね除けて立ち上がり、ICカードを翳してスポーツドリンクを買ってやった。さっそく結露で滑った飲料を放ってやると、男は両手で包むようにペットボトルを受け取りながら、定型句のようにそれを言ってくる。
「なあウス、もう一緒に住もうよ」
それは主に俺の方に原因がある。キヨマの家を宿代わりに使うのはやはり良くない。成り行きだけの付き合いはこのあたりが辞め時だと、近頃常に感じていることだった。
飲み会も終電の時間までに切り上げれば必ず自宅に帰れる。定期は夏季休暇中も通してあったし、都内で日を跨ぐ方がどう考えても非効率だった。週に何度も顔を合わせたところでキヨマと俺が改まって話すこともない。この先、秋から就職活動が本格化すれば、きっとこの惰性に終止符が打たれると他力本願に思っていた。
かつて何度もあった誘いを、しばらくぶりに言われた気もしたが、今日も俺はそれを無視した。答える必要はない。キヨマは後先なく勢いで楽しい事を提案しているだけだ。きっと毎日が修学旅行のように愉快であればいいのにという程度の、安易な動機だろう。そうであれば別の連中と合宿もどきのことをすればいいのだ。俺はそうは思わないと、解釈してくれればいい。
自棄になっていることをばかばかしく思いながら、間宮もみじの実家付近の地図をアプリで確認した。ここに到着したらキヨマの突飛な遠足ごっこは終わるのだろうか。
韮山駅で降りる。反射炉の最寄り駅はさらにひとつ奥で、この駅はかつてテレビで観たような時代劇や大河ドラマのポスターや施設案内の掲示が目立つ。
それでも歩けばすぐに閑静な住宅街が広がる細道に入った。地図によると下田街道を越えた先、狩野川へ出る手前の茶色い瓦屋根の戸建てが間宮の実家ということらしい。
ナビが示す経路の通りに歩けば、一方通行のせいで遠回りをさせられたものの、目的地にはきちんと辿り着けた。遠慮のない男が門の内側まで入り込み、表札を見て確かに間宮の家だと確認する。
呼び鈴を鳴らして数十秒、ふたり並んで無言で立っていたが応答はなかった。
こうなることを見越していたキヨマに家の前でしばらく待ってみたいと言われる。男の家を一緒に出てここまでついて来た時点で、断る理由など何も無かった。
残暑の重たい陽が刺さる。時折苦しくなって吐く息も気温よりぬるく感じるくらいだ。キヨマとは用件以外もう数十分も会話をしていない。携帯は近くのホテルを予約したあたりで電池が切れて、モバイルバッテリーに繋ぎながら余力を温存している。
暑さに耐えられなくなると自販機へのろのろと歩いて行く。舌が繰り出されるように何度も拒絶された千円札をどうにか捻じ込んで一本買って、当面の水分補給のための小銭を確保した。買った飲料をふたりで分けて消費するというのを何度か続ける。はじめは炭酸水、次に緑茶、水、その後の水は二本買って、一本は頭からかけて髪を濡らした。
キヨマの癖毛が湿っていっそううねり、濡れて膨らんだ毛先から水滴が溢れ落ちる。汗で背中にべっとりとくっついたシャツの皺が細身だが上背のある身体を窮屈そうにさせていた。アスファルトの縁石に座るのも熱くなって立ったり座ったりを繰り返していると、眩しそうにこちらを見上げた男が何か言おうとしていたが、口が一度開いて空気を呑むとその気怠さに当たったのか顔を顰めるだけだった。
こちらはもうじっと留まっていられるほどの忍耐はとっくに切れていた。皮膚が溶かされて臓腑や粘膜が露わになった自分を何度も詮無く想像していた。纏うものもなく、学生とか男だとか分類されるものから逸脱して、灼熱に晒されるだけの不思議な有機体になったという下らない設定だ。それくらい思考は無責任に考える必要のない事だけを考えていたし、隣にいる同期から容易く軽蔑されるくらい子どもじみた悪口が何度も喉から出かかってもいた。
猛暑と退屈は思考の余白を埋められない。意識の外側で動いた手が鞄を漁っている。ふと正気に戻れば引っ込むが、何度か繰り返した末に遂に指先が煙草の紙箱を引き出した。
ひしゃげた蓋を指先で抉じ開けて吸い口を撫でる。残り四本。ライターは箱の中になかった。鞄の底を撫でるとブックマッチがキーケースに挟まっているのを見つける。数か月前、たまたま入った見知らぬカラオケ屋で配っているのを面白半分に貰ってきた。その形式での生産が終わってしまったので在庫分しかないと言われ、無遠慮にみっつほど鞄に放り込んで帰ったのだった。
紙箱とマッチを鞄から引き出してアスファルトの上に落とした。こんな小さくて軽い物も握っていられない暑さなんてどうかしている。
台紙からマッチを一本ちぎって引き抜くように擦って火を点ける。光と黒煙の視覚はあったが、熱さはとっくに麻痺していて、いつもより不用心に咥えた煙草に火種を作った。左隣にいる同期とは反対側にある自販機に向かって振り向きざまに煙を吐く。
いつもであれば路上喫煙はだめだとか携帯灰皿は持っているのかといたずらに揶揄ってくるのだが、今はその気もないか、と吐いた白濁をぼんやり眺めながら小さく鼻を鳴らした。
「はーちゃん、手先が器用でさ」
長くお喋りを絶っていたキヨマが不意に話し出す。そろそろ立ち去ろうとしているのだろうか。煙草を咥えたまま再び鞄を開けるが携帯灰皿は見つからない。覗き込んでいる間にぼたぼたと汗が腕や鞄の中に落ちていく。風に煽られて灰も鞄の中に降った。暑い。どうでもいい。溶けると分かっていて開いたペットボトルの飲み口で煙草を叩いた。底に落ちるまでに熱が幾分か削がれたのか、沈んだ灰にボトルはまだ変形を起こさない。
その様子を横目で捉えながら、言い繋いだキヨマの声がじわりと地熱に滲む。
「演るネタ、ピンが多いんだけど、いつも自分でこさえたぬいぐるみ抱っこして、そいつと会話すんの。シュールで、はーちゃんはいつも謝ってて。でもそれが出来上がってるんだよ」
聞きながら、初めて間宮の喋る様子が映像で蘇った。昨年秋の、珍しく最後まで見られたマチネの日だった。空席ばかりの小屋で、隅のパイプ椅子に新入部員と並んで何をするでもなく鑑賞していた。同席していた新入りとは違って、俺はどのコンビの何のネタが好きかなんて何も無かった。
その日にキヨマのコンビがどのネタを披露したのかも記憶が曖昧なくらいだ。だけど確かに、今隣にいる同期が言ったような変な女のネタは憶えている。
他の演者の時は間が悪い不快さに目を逸らしたり、課題やバイトのことを考えながら聞き流していたのに、確かに手製のちぐはぐなぬいぐるみを持った彼女は、微笑を浮かべ、見た目よりも低くて潤んだような声を出して、淡々と提起からオチまでを漫談したのが強く印象に残っていた。そのやり口は、聴衆を置き去りにして議論を引き摺り下ろして捨てていった、という感じだった。
キヨマも同じ日を思い浮かべていたのだろうか。べったりと額に貼りついた横髪を掌で払いながら、酷く疲れた笑顔を見せた。
「別に、面白いって訳じゃなかった。見るのが好きだったんだ、純粋に」
おうちの人来ないね、と言った男に返事をしなかった。俺が揉み消そうとした煙草に手を伸ばして残りをくれと強請られる。
「シケモクだぞ」
「いいの。たぶん一口でおえってなるし」
ブックマッチから一本棒を折ってまたちぎり取る。引き抜いた摩擦で発火したマッチを男の顔へ近づけた。さっきまで何の感覚もなかった皮膚が、今は痛いほどの熱を感じている。
半日居座った気分だったが、結局俺たちがそこへいられたのはおよそ1時間40分という僅かな時間だった。再び駅まで引き返すまでの道のりは最悪で、シャワーを浴びたい、服を全部脱ぎたいと口々に文句を言いながら、苛立ちを剥き出しに身体を引き摺って歩いた。
取ったホテルは歩いても行けそうな距離だったが、キヨマが意地でも伊豆長岡まで電車に乗ると言ったので、自販機で崩した小銭の残りで紙の切符を買った。下車してからもしばらく歩いて、些細な言葉尻から口喧嘩をして、流れ続ける汗が全く引かないまま宿泊先に着いた。
九月初週の平日という静かな日だったからか、受付の人が親切にも先に温泉に入ってくると良いと荷物を預かってくれ、フロントでそのまま浴衣とタオルを渡される。脱衣所にあるウォーターサーバーでタンクの水が尽きてしまうのを心配しながら止め処なく水を飲んだ。搾れそうなほど汗で濡れそぼった服を鎧のように床に落とし、拾い上げるのも億劫だとこぼしながら前に屈む。
「ねえ、お前、勃ってるの?」
後ろにいたキヨマの声が掠れていた。足下をちらと見遣るとまだ靴下も脱いでいない。卑怯者、と思ったのは完全な言いがかりか。首につけたままのチタンネックレスを捻って外しながら、ただぞんざいに言い返すことだけに意識を集中した。
「なるだろ、暑いと」
「ああ……午後の授業、眠いなぁ、お日様気持ちいいなぁ、って時とかみたいに?」
「まあ」
「まあって、何」
歯切れの悪い会話をしているうちに昂ったものはあっという間に鎮静した。炎天下で頭がおかしくなっている間の生理現象、男性器は不便なものだと思うのは俺だけなのだろうか。
女になりたいとは思わないが、せめて乳房のように常に形が決まっているものであれば良かったと思うことは何度もあった。自慢できるような逸物を持ち合わせているわけではないが、その抑揚が本心の代弁のようにされるのが酷く窮屈に感じている。
間宮もみじの件でここまでキヨマをつき動かしているのは、ただの思いつきと言って片づけるべきではないと思い始めていた。昨日の夕刻にロッカーを開けるまでの逡巡を俺は知らない。今ここで同じ成分の同じ温度の湯に浸かっていたとしても、それがあちらから溶け出してこちらへ流れ込み理解できるようになるものではない。
率直に尋ねると、やはり男は間宮の失踪を随分前に察知していて、ひとりでは退っ引きならなくなった末に俺に話してみたくなったと答えた。手近なやつを掴まえて吐き出したくなるほど根を詰めたということだろう、そこまでは容易に想像できた。
「サークルの週例には全然顔を出さないけど、ライブ用に回してるメッセージは、はーちゃんいつも絶対反応あるから、それがなくなってから変だなとは思ってたんだ」
風呂に備え付けられたシャンプーとリンスで適当に髪を洗った。泡を流した後の触り心地がひどく軋むし、間違いなく翌日に寝癖がつくだろうと思ったが諦めた。キヨマの家に何故かいつも切らさず置いてある変な椿みたいな匂いのシャンプーに慣れてしまっただけだ。ラベルのない透明なボトルに入ったそれは、何度か泊まっているうちに気づいたら置かれるようになっていたもののひとつだった。
男が流した身体を湯船に浸け込んで肩まで沈めるので、背の方に回って今度は後ろ髪を結ぶ。風呂で全部濡らした髪に触れるのは初めてだった。くたりとして艶々と光る髪は普段の剛健なうねりは息をひそめ、色素を暗く黒に近づけ、しっとりとまとまっていた。
女みたいだな、と思った時に、脱衣所での会話が邪魔になる。俺は男に欲情する野郎だと思われただろうか。というかそもそも、俺は清水真人に男とか人間とかそういう区分できちんと認識されているのだろうか。この感性だけで成立しているような、それでいて端然とネタを練ってくるこの青年に、俺はどう見えているのか。
大げさにばしゃばしゃと湯を跳ねながら、手摺がついた階段状の湯船の縁まで行って先に上がった。キヨマの声だけが追いかけてくる。
「ウス、携帯を解約する時って、どういうのだと思う」
俺たちの他に誰もいない大浴場に、落ち着いた穏やかな音が形なく反響した。振り向くと、男はいつになく小胆な面持ちだった。
「どうも、ない」
「本当? えらく嫌なことがあるとかは?」
男は食い下がって聞き重ねる。誘導尋問などお門違い、何を考えているか知らないが余計ないことに巻き込むな、とは言えずに足を止めた。視線を落とすと見事な靴下焼けが肌を二分しているのに気づく。足が赤くなったというよりも、足首だけ通りそびれて留まったような心地になった。耳なし芳一の耳のような、この足だけ前に進めない、置き去りの感覚。
後ろでざっと水が落ちる音が聞こえる。ざばざばと湯船を歩いて突っ切っているようだ。その音に紛れてくれと無駄に祈りながら、ぼそぼそと所在無く答えた。
「電話、失くしたとか。……誰とも、連絡取りたくない、とか」
「うん」
誰にも、探されたくない時とか。
ひたひたと水音を立てていたキヨマの足音が止んだ。ただの友達付き合いでここへ来ただけだ。これから後期が始まればまた金がかかるのに今日一日で猛烈に無駄遣いをしている。就活が始まる前の思い出作りと割り切れるか? だとしたらこの仕打ちは何だ。俺があんたから間宮を取り上げたみたいだ。理不尽だろ、この因果の無い訴追ごっこみたいなのは。
振り向く時に睨み上げながら男の視線を追う。頼むからこれで黙ってくれと懇願するような顔をしてしまったかもしれない。暑さと入浴の火照りと発汗が混ざった浅い息が不規則に重なっては離れるというのを繰り返した。
目が合った男は俺よりもさらに怒っているようだった。水気が少し抜けてうねりが戻りつつある髪から雫をこぼし、臓腑の熱を捨てるように大きく息を吐く。
「ウスのことが好きだと思う、はーちゃん」
キヨマの突飛かつ意固地、謎の気概はここにあったかとやっと悟った。
声のする方へ歩み寄り、肩が掠りそうなくらいすれすれを擦るように通り抜けた。近くのシャワーヘッドを掴んで、湯温を一番低くして頭から被った。細い水流が耳の上を通って短い横髪の脇から落ちていく。
キヨマの遠足ごっこも、俺の意思のない成り行きの人間関係も、何もかもがくだらないと思った。青春もアイデンティティの創生も自己実現も、何が糧となれ宝となれ、だ。全て大学生という執行猶予期間に押し付けられた屑鉄だ。そんな荷物を背負わせるな。俺は受け取られることも返されることも、一度たりとも乞うたことなどなかったというのに。
振り返って男の腹にほとんど水になったシャワーを鋭くかけた。「わっ、冷たっ」と怯んだ隙にシャワーを戻すと、「先に出る」と押し切ってそのまま振り返らずに脱衣場へ帰った。後ろから何度も名前を呼ばれたが無視し続けた。
汚れた服を洗うと義務的に伝えると、キヨマはようやく口を噤み、俺もすぐに出ると早口に呟いた。
一緒にいて独りになりたいと思ったのは初めてかもしれなかった。今まで何も望まず何ひとつ叶えずなんとなく生きてこられたはずなのに。
自分が怒っているのか嘆くべきところなのかもよく分かっていなかった。
結局は、俺自身が考えなしにこの珍妙な旅行についてきたのだから、このまま何も思案せずに程良い退屈を完遂させるべきだと思うことにした。
洗面所の脇で扇風機が小さく唸っている。整然と無機質なその風を、腹の足しに食む気にもなれない。
ランドリールームでふたり分の洋服を洗濯して乾燥機にかけた。ズボンが皺だらけの不格好になった以外は断然洗って良かったと思う。自分でも臭いを確認するのが嫌なくらいだった衣服が、からりと乾いてしまえばまた着ることに全く違和感を持たなくなる。
このまま館内で食事をして寝るだけなので浴衣着でも良かったのだが、俺もキヨマも自然に自分の服を取り戻すとそれに着替えた。まるで不言のまま互いに夜の外出を心得ているようだった。
それなのに、旅の発起人は食後に部屋へ戻ってからむこう、トイレや洗面所へ行き来するたびにドアノブのあたりをじっと見るだけで何も言い出さない。その様子をわざと睨むように見遣ってもあからさまな舌打ちをしても、男はこちらを見向きもしなかった。
やや後ろから見る彼の横顔が暗がりからすうと抜け出て輪郭を現す。鼻筋が通っていて目元が窪み、影が深い。睫毛が光っていて鋭角の照明は唇の形も皺も鉛筆でなぞったようにくっきりと映していた。
あまりにだんまりの様相に痺れを切らして、ベッドから下ろした足をスニーカーに突っ込んだ。靴底が絨毯にぎゅっぎゅっと擦れる。つま先をしつこくとんとんと突き立ててから、ようやくドア際の影を「キヨマ」と呼んだ。
「あ、ウス、あれ? どっか行く……?」
あまりに間抜けな口調に殴りかかりたくなった。ふざけるな、いい加減にしろ、俺はもうROSにも行かないしあんたとつるんだりしない。
喉に出かかっては呑み込んでしまうそれを、身についた癖のように今度もあっさりと引っ込めた。俺は馬鹿だ。こうしていつまでもキヨマにも自分にも優しくなれない。殺風景で緩慢、つまらないくせに意思のある素振りを見せる。そのくせ、蓋を開ければ中は空。
今だって、終始キヨマの思いつきに甘えているだけの日和見は俺の方なのだ。間宮もみじについて知りたいと思うことさえ、都合良く流されては本意を揉み消している。
「腹、空くだろ」
短く言うと、キヨマはぱっと笑顔を浮かべた。
「それ、ラーメンの誘いじゃん。久し振りだな。近くにあるかな?」
「検索したら、どっかにはある」
ぱたぱたとスリッパを鳴らしてベッドの間にある狭い空間へ入り込んできて、俺に倣い靴に履き替える。
「美味いラーメンがいいなぁ。すごい臭いやつ」
「言い方がむさ苦しい」
「あ、ウス憶えてねえの? 前にカップ麺、くれてやったろ」
それが博多長浜のとんこつラーメンだったことも、キヨマの言う臭いという意味が出汁に絡まる旨味の香りだということも、うんざりするくらい仔細に分かる自分が疎ましかった。
ドア脇のカードキーを抜き取る。財布と携帯電話をポケットに入れただけの身軽な男たちの身体を通した部屋は、思い出したように数秒後、消灯した。
下田街道を北上すると派手な看板のラーメン屋を見つける。半ほどまで開いた引き戸の隙間から見える鳶の男が食べている一杯が、夕飯もしっかり食べた後の食指をあっさりと動かした。
艶々と脂が浮いた赤茶のスープに氷山のように盛られた葱とわかめ、スープにどっぷり浸かった黄身まで硬く火を通したゆで卵。箸でどっと引き揚げられた緩く縮れた麺の群生が真っ白な湯気を吐く。
ふらふらと暖簾をくぐり、席に着く間も無く二杯注文する。
ほどなくして、カウンターの上から伸ばされた腕がどん、とどんぶりを置く。朝顔型に開いた丼の縁に玉を掴んだ龍が描かれていた。外側は朱塗りのよくあるラーメン屋の趣ある器だ。添えられたプラスチックの蓮華がそれらしくてとても好ましい。
「全然臭くない、普通にいい匂い」
「黙れ」
「ウス、可愛いラーメン好きだもんな」
「イチゴとアイスが盛ってあるみたいに言うんじゃねえよ」
ぱちんと安物の箸を割った。チャーシューが零れんばかりに乗った醤油ラーメンの、熱く被さる湯気をふうふうと盛んに吹きながら一気に麵を啜った。首筋から汗を垂らしながら何かに急かされるように麺と白葱を口に押し込んでいく。チャーシューを噛む頃には幾分か勝った気分になり、メンマを蓮華に乗せながら今度は逃げられないという焦燥に駆られた。情緒の起伏など構うはずもなく、ラーメンは綺麗に腹の中へ納まった。
店を出て、キヨマと共に再び間宮の家を訪ねる。この時間なら家の人も在宅かもしれない。本人はいるのか、いなくても事情を教えてくれるのか、教わったことを知って何になるのか。
つまりこの珍紀行に目的を見出す方がお門違いなのかもしれない。そもそも動機がおかしいのだ。不在が長くても部員の棚を無断で開ける事そのものが間違っている。よしんばそれを答え合わせできたからといって、何がどうなるわけでもない。
日中よりも8度ほど外気温が下がり、一駅分歩いてもさほど辛くはなかった。韮山駅を過ぎてからは一度見た景色を遡るからなのか、その家の前に着くまではあっという間だった。
玄関灯はぼんやりではあるが点いている。二階建ての全ての窓は見える限り暗いままだ。昼に朦朧としながら眺め続けた家屋の外観との違いを探ろうと試みたが、寸分違わぬ姿としか言いようがなかった。やはり今も不在なのだろうか。
キヨマが呼び鈴のボタンを押し込んだ。外にもピンポンという乾いた音が聞こえる。それは間延びせず手を離すとすぐに鳴り止んだ。じんじんと痺れるような静寂が続く。
先程散々小銭を落とした自販機の脇に立っている俺の所へ小走りで戻ると、男は両手を合わせて頭を下げた。
「ごめん、ウス、あと5分」
「今更」
答えながらポケットから携帯を取り出す。ロック画面を点灯させて時間を確認した。煙草を持って出なかったことを薄く後悔していた。砂時計の役割になるそれが無いので、昼間よりも時間の消化が遅く感じる。
尋ねもしないのにキヨマは知る限りの間宮のことを話し始めた。家族構成、見かけていた時に食べていた菓子、一緒に履修していた科目、集中すると時折見せる耳の後ろを触る癖――。
それを聞いても呼び戻される記憶は何も無いのに、光ったまま手元にある携帯には目もくれず、俺はただ黙って頷くことしかできなかった。
言葉が尽きると男は足元の石を靴底で踏んで転がした。じんわりと浮かんでは襟足から首、背骨にずるずると伝う汗も、真昼の時のような不快感はなかった。むしろ滑った皮膚感覚が怖気を呼ぶようで、肝試しのようだと不謹慎なことまで考える。
キヨマは最後に緩くうねった髪を掻き毟り、声と共に長い溜息をついた。負けたような笑みを漏らして、少し離れて横並びにいる俺の肩を力任せに叩く。
「あと、どうする」
その言葉の後すぐに、自販機の真上にある街灯が、頼りなく点滅してから再びぱっと光った。
「ねえよ。徒労で終わり」
それをうっすらと見上げながら、携帯の画面を見ずにロックボタンを押してポケットに滑り込ませた。
「ウス、優しいね」
男はこうして擦り切れるまで何度も俺を呼ぶ。本当の名前ではない、不確かなそれを、声に出して確かめ続ける。呼ばれる度に怖くなるこちらのことなど意も介さず、それが友情の証であると行使されているように聞こえた。清水真人には俺が必要だと思う瞬間と、全て俺の勘違いでこの距離感が成立していると気づく瞬間と、その残酷が交互にやって来る。それに長くつきまとわれてきたが、今晩は一際鋭利にそれを感じていた。
息苦しいはずのない夜の外気が、湿気を纏って喉に絡まる。それを振り払うように、舌の裏側に溜めた唾を一気に飲み込んだ。
伊豆長岡の駅方面へ歩いて戻る。街道沿いの店はとっくに閉まっていて、煌々と光る建物はファミレスとコンビニだけだった。
一軒目のコンビニを素通りした後にラーメン屋の先にコンビニがあったかどうかで揉めた。携帯を持ってきていないキヨマが正解を教えろと食ってかかるのを追い払って歩道の先を歩かせる。五歩ほど下がってついていくと、男はすぐに萎れた長身を揺らして戻ってきた。
「ウス」
「あんたが悪い」
もう一度肘で押し退けて携帯を見る。知らない間に不在着信が入っていた。メッセージアプリではなく直接番号でかかってきている。連絡帳に登録がない、知らない番号だ。
「お前だって怒ってる。なあ、地図で見落としてもなんも言わねえよ」
下四桁が4343、記憶にはないが変な番号だな、と思って見ていたら、キヨマもつられてこちらの画面を覗き込む。
「言ったら駿河湾に沈めてやる」
「目え据わってるじゃん。ウス、怒ると二枚目だなぁ」
折り返しかけるかと言われて首を横に振る。じゃあ俺の髪またやって、と文脈も場の空気もない甘え様に、ただ諦念の息を吐く。
コンビニの明るい外灯の近くまで引っ張っていき、少し屈めと言ってヘアゴムを預かった。その時に何故かポケットではなく男の手に俺の携帯を持たせた。前髪を両手で掻き上げて括る間に、男の手の中で長方形の黒い液晶が俄かに点灯して震え出す。
ちらと画面を確認するとさっきと同じ番号だった。その視線を目敏く読み取った男が、出た方がいいと勝手に通話ボタンを押して俺の耳に押し付ける。
「……はい」
「あ、もしもし……ウス?」
聞いたことのある男性の声だと思う。俺をウスと呼ぶのだからサークルの連中だろう。そうですが、と応答すると、電話の向こうは途端に雑踏と喧騒で聞こえづらくなる。
「今日、キヨマと一緒?」
「一緒。それで、誰」
「おい、番号登録してないの? さすがウスだな。寺林だよ。去年の留年組」
何とも間抜けな自己紹介だな、と不躾に思いながら、それで、と言葉を継ぐと、どうやら本当はキヨマと連絡が取りたかったらしい。何度も電話を鳴らしたが不在、メッセージも既読がつかないので、勢いで俺にも電話をかけてみたところだった。おそらくどこかの一群で飲んだ帰りということだろう。連日ご苦労なことだ。
結い終えた髪から手を離すと、キヨマが持っていた携帯電話をそのまま向こうの耳の方へ押した。漏れる通話音を全く聞いていなかったのか、男は惚けた顔をしている。
「あんたに用」
「そうなの? 誰?」
「テラバヤシさん」
そんな人知らない、とやや怯えながら携帯を自分の耳に当てたキヨマは、すぐにぱっと表情を明るくした。
「なんだぁ、ジリンじゃん」
男の笑い声を聞きながら、ほぼ無意識に湧き上がった考えで視界があっという間に翳った。
キヨマは今の電話相手を寺林ではなくジリンと思っているのと同じで、俺を石田恒太と認識していない。〈はーちゃん〉を間宮もみじと思ったりもしていないだろう。今まではそんなものだろうと気安く受け流せていたものが、この時だけは不思議と胸につかえて抜け出せなくなった。
寝不足、暑さや疲労による認識能力の減退、つまり一時の気の迷いであることは分かる。それでも無性に、キヨマの前で〈ウス〉であることから今すぐにでも逃げ出したくなった。
「ウス」
覚束ない思案はあえなくキヨマの一声で沈められる。もう俺はウスのままでいいのだという妥協が瞬時にすんなりと身体になじんだ。
ジリンとの電話は済んだようだった。持ったままの携帯の画面が消えている。
その時俺は、目の前に立つ男を見上げて、髪を上げると額が狭いのが目立つ顔だな、とか、上瞼の輪郭みたいに綺麗に生え揃っている睫毛だなとか、頬が張っているのはよく笑うからとか、そんなどうでもいいことしか考えていなかった。
キヨマの硬い声も、険しく歪んだ表情も、細かく震えて色が失せていく唇も、視界に入れたふりをして全て見落としていた。
「ウス、はーちゃん……亡くなってた、って」
その声ではっと我に返る。気づけば触れてしまいそうなくらい伸ばした手の先には、零れるのを堪えて涙を纏った目があった。声も悲痛に濡れている。
電話口でジリンが語ったことをそのまま伝え聞いた。彼が今晩参集した先の、基盤ゼミの飲み会メンバーの中にたまたま間宮もみじと同じ高校出身者がいたこと。その話をするつもりは全くなかったのに、半年前に自死した知人の話として聞いていたらそれが間宮だと分かったこと。彼女は3年に進級する前に実家に帰ることなく亡くなっているのを、様子を見にきた兄に発見されたこと。
「はーちゃん、定期的にひとりの時間がほしいタイプだったから、今度も充電が溜まるまでひとりが良いんだろうなって、その同級生も、知らせが来るまでは何も思わなかった、って」
その後の言葉は掠れて、足下に落ちる焦燥に呑まれて消えていった。大きな両手で顔を覆い立ち尽くす男と向かい合ったまま、俺は言葉で慰めることも背をさすることもしなかった。なすすべが無かったわけではない、あえて手を出さなかったのだ。今のキヨマが後悔と苦痛で打ちひしがれているのなら、そのまま享受すればいいと残酷に思っている。
「ごめん、俺」
やっと声を絞り出した同期は、はあはあと押し寄せる動揺を吐く。息が上がり、背に震えが走り、在りもしない腹の反吐にえづいている。人の死とはこんなにも受け入れ難いものなのかと、今も好奇心と無関心の絶妙な狭間にいた。
「謝らなくていい」
差し出した手は嘘に塗れている。俺は今朝、キヨマからこの話を聞いた時点で、きっと間宮はもう死んでいるだろうと根拠なく思っていた。
あのライブの情景が記憶の内に留まっている理由を考えると、死に際の人間とは美しく強いものだと本能が知っていたからと説明するのが最も単純でそれらしいのだ。間宮がサークルや自分のまわりにいる人間をどう思っていたのかは知らない。だがさして序列もなかったのだろう、あるとすれば生きている間に近しい者に何か傷痕でも残したくなるものだ。
それを清水真人は何ひとつ理解していなかった。死者を憐れみ、期間が満了すれば忘却し、次の眼前にある自分の課題に取り組んでみせる。そうしてまた別の街をその日の気分で何の蟠りも抱かずに旅するのだろう。
キヨマに水を買ってくると断ってコンビニに入る。一変して暴力的な冷気が肌を苛んだ。鳥肌を立たせながら店内を横切り、大きな冷蔵庫に縦列しているペットボトルの飲料をふたつ引き抜いてレジに向かう。鞄代わりと思ってポリ袋の代金も支払った。
1分も経たずにキヨマがいるコンビニの駐車場へ戻る。男は身体を小さく折り畳んで、車止めの小さなブロックの上にしゃがみ込んでいた。
「買った」
顔の前で交差する腕にペットボトルの底を軽くぶつけた。冷たさや濡れた不快感に反応されるかと思ったが、想像以上に情緒の沼は深いようだ。
あんたが好きなやつだと言うと、ちらと目線を上げてから、どのあたりが、と問い返される。
「裸のまま売られてた」
「ラベルレスって言えよ。あと俺はお洋服着てる方が好きなの」
「最低」
「何がだよ最高だよ、あとお前が言わせたんだろ」
怒ってるのと困ってるのとが区分なく混在したままの顔で、キヨマが俺からペットボトルを取り上げた。キャップを捻り開けると、上を向いて喉を鳴らしながら一気に半ばまで飲む。
気が済むまで腹に冷水を流し込み、細く吐息を漏らして手の甲で口端を拭うと、隣の男はふふと自嘲気味に鼻を鳴らした。
「変だよな、別にそこまで仲良くなくてさ、何度かしか話したことしかなくて……はーちゃんが急に来なくなってから、俺のせいかもって思ったんだ。俺、同じ学科だったのに別の奴とつるんでたろ。授業の話、部室でしたことなかった」
この男が間宮の生前を振り返っている間に俺は、命を絶つ術は何を選んだか、痛みや苦しみはあったか、死後どれくらい死体は放置され、肉体はどれほど朽ちたのかとそればかり考えていた。
おそらく自分が同じように死んだらどうなるのかを推測したかったのだと思う。人知れず命を断ち、遺骸を隠し、この世から消え去る方法を思案することが、今はとても自然なことのように思える。面倒だから死なないだけだ。死ぬ必要がある時には、粛々と実行しなくてはならないという所在のない衝動が間宮にもあったのならば、同じ思いは容易に持てそうだった。
忘れてほしい。誰にも自分の名前を告げられたくない。
それを、キヨマは平気で破ってくる。
「そんなの関係ない」
立ち上がって先にホテルまでの道を歩き始めた。上背に似合わない小股で男がそっと後を追ってくる。
「なあウス、俺、はーちゃんの友達になるべきだったのかなぁ」
その声は後ろから走り抜けたハイエースに掻き消される。続いて後ろから2トントラックがごうと風を煽って前方へ抜けていく。一呼吸おいてさあさあと乗用車が通った。たまたまだろう、白い車体のセダンが続いた。
今この歩道の白線から少し飛び出れば、黒っぽいTシャツ姿の男ふたりはヘッドライトが姿を浮かび上がらせる時まで簡単に見過ごされ、後ろから跳ねられるだろう。そのままアスファルトへ投げ出された身体は車輪に轢かれ絶命するかもしれない。
それほどに脆い肉体を器にしていて、心が強いわけがないのだ。どこかへ拠り所を作れば間宮もみじの精神が繋ぎ留められたのではないかという仮定は、生きるのに不便がない人間たちだけですればいい。
ホテルに戻ってフロントに預けたカードキーを受け取る。閉店間際の売店で酒とつまみを買った。別の階にある製氷機で使い捨てのカップを両手に抱えて持てるだけの氷を調達して部屋へ戻る。
シャワーはいいのかとか今のうちに着替えておくべきだという俺の忠言を一切聞かず、キヨマは缶ビールを一気に飲み干すと、氷を入れたカップに長缶のハイボールを注ぎ足しながらごくごくと喉に流し込んでいく。
ソファを占拠しながら男が煽るように飲む様を、ベッドの端に腰かけて黙って見ていた。恐ろしい速さで嚥下する動作をつんと飛び出た喉仏の動作が伝えている。それが徐々に収束して、堪らず吐き出された長い呼気とともに、男は諦めたように少し笑った。あのカーテンの影に隠れて小さくなっている時のように少しぼんやりとしていた。それがまだ今朝のことだなんて俄かに信じ難い。
次の酒を求めて小さな冷蔵庫へふらふらと歩いていく男の手をベッドから乗り出して制止した。俺に腕を掴まれたキヨマは引かれるままに身を投げて寝床を弾ませる。面白そうに小さく声を上げて、仰向けに転がったまま甘えたような声を出した。
「なぁウスぅ、面白いこと言ってよぉ」
「言わない」
「なんでぇ」
素気無く言っても全く意味がないのは分かっている。今のキヨマには必要な分だけ飲み、気が済むまで笑ったり嘆いたりして、記憶が朧げになる頃に眠るのが必要らしい。本人がきっと、そうあるべきだと思い込んでいるから。酒が足りなくなる前に、とっとと酔ってしまいたいのだろう。それを俺が、付き合ってやる義理があるだろうか。
「明日の朝、バイキングらしい」
どうでもいい話をしてみる。キヨマは結ったままの前髪の生え際を掻きながら、「ヨーグルトがあったら、可愛い果物探してやるよ」とだらしなく答えた。緩んだ顔が時折、ぴくりと引き攣る。
酒で赤らんだ頬を、腕を折って手の甲でごしごしと不器用に擦る動作がいっそう幼く見えた。その無垢な所作を焦点なく見下ろしながら、今日の遠征で色素沈着が進んだ健康的な肌色が手足の長さを際立たせていることだけを考える。
その腕がぐんと上向きに伸ばされた。酒の催促かと思って眉を顰めると、肩を掴まれてキヨマの隣に横向きに寝転がされる。
くそ、と悪態をつくと、男は肩からぱっと手を放し、赤くなった目尻をさらに指の端で拭う動作をした。上体を捻って向かい合うように動き、スプリングを揺らす。並んで歩くと俺より頭半分上にある男の頭が、今は俺の胸のあたりに下がっていた。いつもは特段気にしない男の両眼が、実は瞳を囲う濃茶の筋が刻まれて虎目のようであることを初めて知る。
キヨマはその目をすっと細め、八重歯までぱっと歯を見せて笑った。
「あのさぁ、時々お前がライブで俺らのネタ見るじゃん、その時にさぁ、面白いんじゃなくて、お遊戯会で頑張ってる子ども見てるみたいに笑うの、あれ、好きでさぁ」
心地良さそうに布団に身をゆだねながら、ウス、お母さんみたいだよね、と言われたことに驚いた。そんなことを考えているなんて今まで思ってもみなかった。むしろ俺がROSをなんとなく辞めずに居座ってしまっているのには、キヨマのコンビが演るコントは酷評に値しない、つまりかなり面白いと思っているからだ。不意打ちで笑わされるのはほぼ毎回、定石のボケすら堪えられないくらい。それを、幼児の発表会扱いしている観覧者だと思われているのには、怒るというよりも申し訳なさが募った。
「……悪い」
起き上がったついでに自分の分のビールを開けようと、背を向けたままぼそっと詫びた。尻を滑らせてベッドの端に戻り、素足をそのまま絨毯につけて冷蔵庫を開ける。
後から起き上がったキヨマがベッドの上を四つ這いで動き、俺の背中のすぐ後ろへ来た。また肩を掴まれる。半身を振り返させられると、座高はやはりこちらが見上げる形になるのに今更ながら何だか悔しくなる。
肩越しに寄って来るキヨマの顔が近い。その鼻先にばかり気を取られていたら、長く節くれだった五指に両側から顔を挟まれた。
「謝んないで。ほんとに嬉しいだけだから。……あのさぁ、ここ」
手は顔を挟んだまま、親指が両方の目尻を内から外へ線対象に撫でる。その動きにびっくりして硬直していると、それさえ面白そうに男はふにゃっと表情を崩した。
「ウスが目のとこ皺つくって、優しく笑うの、好きなの」
その屈託ない笑顔が、優しく落ちる声が、昼間に頭から水を被ってでも茹っていた、皮膚が溶け落ちて臓腑が露わになったような錯覚の中にいる、白昼の路上で融解しきった自分の姿を呼び覚ました。
生理的に勃つはずのものが怖気で縮みあがって震えた。昼間に炎天下に晒した皮膚が再び焼けるように熱くなる。
どうしたら今の清水真人に俺の本心を隠蔽できるのか、ただひたすらそればかり逡巡して何も答えなかった。キヨマは青くなった俺にすら気づいていないようだった。
「もう寝るよ」
開けたビール缶に一口だけつけてごくりと飲み込むと、テーブルへ置く前に男がそれを取り上げ、畳みかけるように飲み干した。夜中に一度起こして水を飲ませるべきかと思ったが、不意に、その役目はもう終わった感覚もあった。
使っていない方のベッドに渡って薄っぺらいシーツみたいな掛け布団をめくった。柔らかくもあたたかくもない所へ足を突っ込み、服も着替えず雑魚寝のようにそのまま横になる。キヨマに背を向け薄明りに浮かぶ壁紙をぼんやり眺めていると、後ろでベッドを軋ませながら男が「うん、そっち入れて」と呟いた。
「何言ってるの」
振り返って抵抗する前にどっと背中に重みがかかる。背負わされているのが俺より上背のある、飲み過ぎた夜はよく肩を貸してやっていた男の目方だった。緩いがほぼ羽交い絞めにされる格好で、寝返りを打つこともできない。しばらく無言で抵抗を試みたが、やがて太腿に擦れたものにざっと血の気が引いて、動くのを止めた。
血を巡らせて硬くなった物が太腿の腹に押し付けられている。同じ物を持っているので何なのか嫌でも分かった。
「お願い、一緒に住もう、ウス」
耳元にかかった息、縋るような文句。
飲んだ嗚咽は逃げられないことからの恐怖ではなかった。俺が間宮のように死んだら、またキヨマの横に俺のような奴ができるという、その焦燥だった。
部屋の明かりは仄暗く灯ったままだ。空調の音に耳をすませている間に、後ろにいる男の呼吸が寝息に変わる。勢いできつく瞼を閉じて歯を食いしばったまま眠った。
次に目を開いた時には、今と何ひとつ変わらない景色と乾きだけが殺風景に広がっているのだろう。
◇
目が覚めた。新しいマンションの壁紙や間取りにはまだ慣れず、視界に入ると未だに少し驚く。大学があった場所とは山手線を挟みほぼ真反対の、都営地下鉄沿線の静かな駅そばに住み始めてもう半年が経った。
難航した就活の末にひとつだけ得た内定先は都内にある信用金庫だった。卒業までの時期を鑑みると選択の余地もなく、つまり盲目的に就職した。1年間店舗勤務をした後に、今は人事担当の仕事をしている。採用の時からなんとなく目がよく合うと思っていた人事部長である47歳の男が借りているマンションに夏から成り行きで転がり込んでいた。部長は週に二、三度ここへ訪れたり泊まったりしていく。仕事で顔を合わせる時と自分が所有する部屋へ来る時とで立居振る舞いはほぼ変わらない。その目論みが分からないままここへ居させられているので、俺はその人事部長に飼われている、と思っている。
瞼を擦り開けるとベッドの端にその男は腰を下ろしていて、布団の中で動く俺に気づくとゆっくりと顔を近づけた。
「早起きだね。まだ時間、あるよ」
柔らかくて良く響く声だ。その声を聞くたびに、反射で目を瞑りたくなる。
何度か瞬きして視界が馴染むと、そこにはやはり、白髪が疎らに目立つ疲れた白肌の中年男性が背を丸めて佇んでいた。
最後にもう一度だけぐっと目を閉じる。寝起きの幻想は何度追い払っても執拗について回っていた。次に目を開けた時には、脳裏にこびりつく記憶の破片を取り除くことができている。
「鮎川さん、来てたの」
やっと開いた口から出た言葉は、空ばかり切ってなかなか声が乗らない。
「うん、恒太くんの顔を見てから家に行ってこようと思って」
仕事の外では役職ではなく名前を呼び、敬語を使わない決まりになっているからそうしている。鮎川は家に〈行く〉という言葉を好んで使うが、それは俺への気遣いというプレイだと解釈していた。
実際には妻と娘がいる家が郊外にちゃんとあって、ここは繁忙期の為に借用しているホテル代わりのマンション、俺にとってはそういう認識でいる。しばらく放っておいても勝手に生き延びる猫を部屋に置いておくのと同じだと思われていればこちらも気が楽だった。
「今日、休みだし、起こして嵌めれば良かったのに」
掛け布団を跳ねのけながらそう言うと、壮年の男は皺とささくれが目立つ手で俺の頬をそっと撫でた。
「そんなことしないよ。前から言ってるでしょ、ここに居てくれるだけでいいって」
その言い分もいくらか語弊があると思っていた。鮎川部長は過去に何度かこの身体を組み敷いたことがある。酒を飲んでいた日もあったが、素面の時の方が多い。事後にはいつも盛大に詫びられ、日頃はこうして観葉植物のように扱われるのだが、不規則な発作でまた唐突に抱かれる日が来ることはとっくに承知している。
俺自身がそれを望んでいるから、鮎川からそれを与えられていると感じる時もあった。捨て猫を拾って腹を満たしてやろうとするこの壮年が手を尽くすほど、それと同時に惨めさも募っていく。
リビングに行くとサンドイッチとレモンゼリーがテーブルに置かれていた。一緒に食べるつもりで道すがら買ってきたようだ。
冬場の今はいいが普段は冷蔵庫にしまわないとだめだと言うと、人事部長は小さくなって謝り俺の機嫌を取ろうとする。それはあくまでも今だけのことで、これを食べ終えて自宅へ戻った壮年男は、週末に重なったイベントのために、明後日の出勤まで家族サービスに時間と体力を全て費やすのだろう。
給湯ポットを沸かしながらリモコンを掴んでテレビに向けた。たまたまついたチャンネルが民放の情報番組で、昨夜行われていたコントの賞レースで優勝したコンビの特集のようなものを流している。
コンビ名は〈朝ヨーグルト〉、結成時から変わらずこの名前のまま。事務所へ入った時に宣言した通り、優勝を最後にお笑い芸人を辞めるとネタ中の映像とともにナレーションが伝えていた。
一発ギャグもできる器用なボケは坊主頭でよくいる芸人顔、相方は伸ばした癖毛をハーフアップにした風貌が印象的の長身男だ。それがキヨマだということは、初めてテレビで見かけた時から分かっていた。追いかけることも避けることもしていない。こうして放映されるままに、自分もただ流し見をしている。
「へえ、最近のお笑いとか、ぜんぜん分からないや。ふたりとも恒太くんと同い年くらい? 背が高い方の男の子、ハンサムだね」
ハンサムと言われるくらいなら二枚目と言い切られた方が清々しいと思いつつ、キヨマのことを美男だと思ったことはあっただろうか、と僅かに思考の沼に触れそうになった。
考えるのを止めよう。今の俺には関係のないことだ。芸人になる気はないと言っていたあの男が、就活もせず大手の事務所にコンビで入所したことも、ものの3年で頭角を現して深夜テレビから地上波に進出したことも、今回の賞レースだって一番の注目株だったことも、ROSから突然消えた俺が今更どうこう言える筋合いは全くなかった。
キヨマの突飛な思いつきで旅した伊豆のホテルで目覚めた朝、俺は同じベッドで寝こけていた男に声をかけず、ルームキーが挿しこまれたポケットに多めに札を折って挟み、ひとりで先にその場を立ち去った。
携帯と財布以外の忘れ物はかなりあったが全部どうでもよかった。駿豆線を下車して三島駅の携帯ショップに立ち寄り、使っていた機種の番号の解約と新規契約をした。東海道線に乗り込んで腰掛けた座席の隅で何度も舟をこぎ、気づいたら品川駅のホームでドアが開いているのを急いで駆け下りた、という塩梅だ。
大学には変わらず通った。サークルはその時その場に参集さえしなければ、私立大学の通学生一万人のキャンパスで遭遇することも探し出されることもなかった。就活が始まり履修がゼミだけになれば避けて通るのは容易なことだ。面接ではサークル活動に勤しんでいると騙り、なんとか現職に入庫したという、全く面白味のない大学生活の終わりとなった。
面接での謳い文句を覚えていた鮎川が、「恒太くんもこういう芸人さんの卵とサークル活動してたんでしょ?」と他意無く尋ねた。一瞬、鼓動がどっと大きく鳴る。音を殺してそっと息を吐くと、なるべく力の抜けた気のない返事を心掛け、おざなりな言葉を選んだ。
「まあ、そう」
「そっか。卒業してから、お友達に会わないの?」
鮎川の質問はただの悋気と分かってほっとする。
「会わないよ。そういうの、面白いこと言うやつだけで集まるでしょ」
「そんなもんなのかな」
それ以上は深追いされない。俺からももう話すことがなかった。給湯ポットが沸騰してスイッチが自動で切れる。吐き出される蒸気が元は透明な姿だったのが白く濁った姿で逃げるように上昇して換気扇に吸われていく。その儚い姿に少しだけほっとしてしまう。
テーブルに向かい合って座り、朝食を摂る。今日の予定を聞かれ、近所の電気屋が10台限定で加湿器を通常の半額で販売するので開店前に並ぶと告げた。
「そんなことしなくても、買ってあげるのに」
涼しい顔をして笑う鮎川に緩やかに首を横に振る。 終業後の時間の過ごし方も、着る服も、冷蔵庫に入れておく食品も、全てこの家の主に黙って従ってきた。でも今日だけは一寸も退かず免罪符のように自分のわがままを突き通したい。このまま部屋で所在無く過ごしていたら、時の人となった〈朝ヨーグルト〉の功績を嫌というほど何度も見聞きすることになるだろう。
俺はあの時起きた間宮もみじに関する一連の出来事を、解明し噛み砕き自分の糧にすることが、人間形成において素晴らしいものになるなどと露とも思わなかった。逃れ者と罵られても然るべきだ。それでもいいから逃げ続けたかった。そのおかげで、妻子ある上司に飼い殺されるつまらない信金勤めの人生でも、それこそが分相応だと腹を括っていた。
淹れたコーヒーに口をつける。飲む前に反射で吐いた息が湯気になって返ってきて鼻先をくすぐった。
それでもきっと俺は恵まれている方なのだ。恋愛感情も性的欲求も生物学的に逆行した趣向を持つことを長く独りで抱え込んでいたのを、今は幾分か慰められている。生活に苦労はないし、面白おかしい事を好んでいるわけでもない。これで十分なのだ。
食事を終えた鮎川が先に席を立った。電車の時間をあらかじめ決めているようで、その1本前の時刻でも間に合うようにこの部屋を出ていく。
玄関のドアが閉まる音、外から鍵が閉められる気配を確認してから、テレビを消して皿を洗った。
軽く身支度をして戸締りをする。徒歩圏内の行動なので久々に学生時代から穿いているデニムとパーカーに袖を通した。ジャケットの代わりにウィンドブレーカーを羽織る。
部屋を出ると思いの外空気が冷たく、痛いくらいの風に思わず頬をかばった。柄にもなく背を縮み上がらせながら、今日は寒いくらいがちょうどいいと何故か安堵する自分がいた。
フロアの外階段を素通りしてエレベーターのボタンを押す。待っている間に触った携帯で先に出た鮎川からメッセージが届いていたことにようやく気づいた。
エントランスを出たところの生垣に不審な男が腰掛けていたという。ゴミ捨て場へ行く通路から外出するようにと書かれていた。
その社用メールの指示みたいな文句に、「分かりました」と短い返事を打って、紙飛行機の送信ボタンを押す。乗り込んだエレベーターのドアがもったいぶってゆっくりと閉まった。
下降しながらふと昨晩の帰宅でポストを確認しそびれていたことを思い出した。大した物も届いていないだろうが宅配ボックスを利用している不在票などが入っていたら面倒だ。念のためエントランス脇のポストを開けたが中は空だった。そこまでほぼ無意識に来て、エントランスの自動ドアを見て鮎川の忠告を思い出したが、その不審者が今も居座っているとも限らないと思い直し、構わず正面からマンションを出た。
自動ドアを出た先の段差の浅い階段とその両脇には人の姿はない。やはり鮎川が見た後に立ち去ったのだろうと電気屋へ行く方向へ道を折れると、生け垣の影に長い足を投げ出して男が腰掛けていた。
ロングコートに革靴姿、ファーのついたフードを目深に被り、黒いマスクをしている。確かに不審者と言われて相応だと思いながらやや距離を置いて通り過ぎようとすると、男がぐっと前のめりに起き上がり、こちらへ腕を伸ばした。
不意打ちによる驚きよりも、手を出されたという恐怖よりも、一瞬で想起した数年前の映像が呼んだ衝撃が勝った。
この腕の掴まれ方をよく知っていた。つい先ごろまでテレビで顔を見ていた、かつての同期だった。
「ウス、おはよ」
ふわりと綻ぶ花弁のような声。マスクの向こうで口角が上がり、唇が綺麗に弧を描いて端然とした笑顔を作っているのが記憶で見える。瞼の輪郭を引いたような生え揃った睫毛、髪を上げて露わにしている額の狭さも嘘みたいに変わらない。
今まで慰めにしていたもの全てが、一瞬で塵になり足元からざあっと崩れていった。
朝ヨーグルトのツッコミ役は、呆然と俺が見ている視線の先を察して、空いた手でフードを後ろへ落とした。指先で額の生え際から髪を撫でる。
「見て、何年やっても、結ぶのちっとも上手くなんねえの」
困ったような照れ笑いは、あの日に伊豆長岡のホテルで一方的に姿を消した俺を、その数時間後に三島駅で待ち伏せしていたかのような、今までの月日を帳消しにするくらい、何ひとつ変わっていなかった。
「あんた……何、してるの」
口を開いたが声が震えてまともに話せなかった。
本当に何をしているのだろう。昨夜、生放送のコントグランプリの決勝戦に出場して、優勝してからはそのまま関連番組にハシゴ出演、いくらこのまま芸能界を引退するといっても、その後は同業と飲み明かし、ろくに寝ないままここへ来たのではないか。
そもそも何故この場所へ辿り着くことができたのだろうか。就職先は大学時代の人脈で知り得たとして、夏に越したばかりの住まいがバレているのは何なんだ。
そんな事を考えたところで仕方がないのは分かりきっていた。俺は間違えたのだ。あの時に間宮のように死んでしまえばよかった。何を根拠にもう一生会うことはないなどと高を括っていたのだろう。
掴まれた手はもう添えられるくらいに緩んでいた。それを振りほどけずに棒立ちしている俺が全て悪いのだ。頭では理解している。今すぐに腕を振り払い走り去る以外の選択肢はない。もう終わった、あの時に話は済んでいる。俺がこの男に未練がましくぶつける言葉は何も残っていないはずだった。
「ねえ、俺さ、頑張って何回かテレビに出たんだけど、見てた?」
複雑に縺れた思考を置き去りにされて、男は至って呑気な声を出す。何も答えずなおも立ち尽くしていると、見てたらいいなと思ったんだぁ、と相変わらず邪気のない口調が会話を継いだ。
「見たらウス、忘れないでしょ。ずっと決めてた。あの日に獲られたから、次はちゃんと取り戻すって、だから嫌でも目に入るように、売れなきゃって思って、すごい頑張って……でも、今日で終わり。はーちゃんからウス、もらいに来た。もう返して」
「は、意味、わかんな……」
「分かってないの?」
掴まれた手に再び力がこもった。今度は反射で解こうとするが力で敵わない。あの頃はこうして捻じ伏せるように力を行使されたことがなかったことを今になって知った。不本意にぞっと背が慄く。
それでもキヨマから目が離せなかった。子どもだったら泣いたり喚いたりできただろうか。許しを乞うて縋ったり、駄々をこねたりすれば良かったのだろうか。
答えは伊豆に残したどの忘れ物にも見当たらなかった。朝の寒空に立たされたままの感覚のない手が力なく落ちて服に擦れる。マッチで火を起こす摩擦に似ている、と思ったら、もう、駄目だった。
キヨマの声がする。何も考えずに頷いた。不規則に重なるふたりの足音が、あっという間に雑踏に溶けていく。
その言葉に返事をするくらいなら、いっそ死んでしまおうと思っていたのに、俺は今も死に損なって、意識はあの日の街道をずっと歩き続けている。
キヨマはその横に並んで、時折俺を眩しそうに見ては、あの日から変わらない声で、何も知らないふりしたその甘い声で、懲りずに何度も、それでいてそっと、風が吹くように囁いた。
「ウス、俺と一緒に住もうよ」
〈了〉
リキャプチャー 丹路槇 @niro_maki
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