写真

空一

写真

雨上がりの朝、僕は君を写真に写した。

 

カメラを辞めてどれくらいになるだろうか。久しぶりに雨露昴(あまつゆすばる)はカメラを手に、大分県の金鱗湖をフィルムに収めに歩いていた。

三年前昴はプロのカメラマンとして、各地を動き回っていた。全国を勢力的に活動し、いわゆる「売れっ子カメラマン」としての名が世間に知れ渡っていた。しかし、その二つ名が蔓延って以降、昴は大きなスランプに見舞われてしまった。自分が今まで嬉々として撮っていた写真は何だったのか。世間で有名になることで、逆に昴は読み手を意識しすぎて、自分のためのカメラマンではなく、誰かのためのカメラマンになってしまったのである。

そこから、二年間ほど写真展を開けなくなった昴は、もはや売れっ子カメラマンでも、プロのカメラマンでもなくなっていた。

そして6月の梅雨。彼はカメラマンとして最後の写真を撮るために金鱗湖へ来ていた。

昴を囲う雨上がりの新緑は、彼の心内とは裏腹に水に濡れた部分が美しく光輝いている。

昴が進む道の硬い枝は芯が太く、彼の精神とは裏腹に力強く痛い音がした。

まるで自分を笑っているようだと、昴は思った。フィルム越しに自然を撮ってきて、今更そのことを投げ出し、肉眼で見る景色はこんなにも綺麗だと。自分がこれまで撮ってきた写真よりずっと、綺麗だと。

昴は思わずフフッと鼻で笑った。やっぱりここは最後に撮るには美しすぎる景色だ。

カメラを辞めるには、十分すぎるフィルムだ。


しばらく歩くと、木と木の間から湖の端が見えてきた。きっとここが金鱗湖だろう。昴はシャッターを押す準備をしようと、腰からぶら下げている一眼レフカメラを手に取った。久しぶりに来る感触は決して心地いいものではなかったが、気にせずに顔の前にファインダーを近づける。そのまま歩いていくと、ファインダー越しに大きな湖が見えてきた。 

金鱗湖だ…。思わずカメラを下ろして、肉眼でその姿を見る。

朝の湖とはこんなに尊大な雰囲気に包まれているものだろうか。湖から白い湯気のようなものが立ち込め、周りを囲む新緑さえも、立ちはだかる湖に萎縮しているように見える。

再度昴はカメラを手にし、ファインダー越しに景色を切り取った。どこを切り撮っても絵になる風景に、昴は意識を高ぶらせる。

どこを撮ろうか。どこを写そうか。どこを…

その時、昴のもつカメラに写ったのは、一人の若い女性の姿だった。

白いワンピースを着ている彼女は、淡い太陽に照らされて美しく佇んでいる。


                 カシャッ


「あっ…」

「えっ?」

思わず彼女の姿を切り撮ってしまった。彼女はシャッター音に気づいたのか、昴の方を見て驚いている。

やばい。これって盗撮じゃないか?何を血迷っているんだ僕は。最後にしようと思った写真を、最低なものにするなんて。でも、ファインダー越しに写った彼女の姿は綺麗だった。

「あ、あの、ち…ご、ごめんなさい!」

言い訳するにも逃れられないと思った昴は、正直に謝った。

「…?」

しかし、彼女の顔はきょとんとしていて、不思議そうに昴を見つめていた。

これはどっちなのだろう。本当に何が起こったのか分からない顔か、はたまた僕を試している顔か。

「あ!さっき撮った写真はすぐに消しますから!ほ、ほら、見ててくださいね。よーし…」

「みえますかっ!」

…え? 

彼女は予想以上に大きな声を出して、顔を少し赤らめてそう言った。

「…っ、あっ!」

口元を隠し、変なことを言ってしまった…と言うように、白いほっぺたをどんどん赤く染めていく。昴は何が起きたか一瞬分からないでいた。

可愛い…

その気持ちが昴の心に大きく残ってしまったからである。

顔を赤らめたその表情が可愛い。

出し慣れてない大きな声が可愛い。

身長が高く自分と二三センチしか変わらないスタイルの良さが可愛い。

普通に白のワンピースが似合ってて可愛い。

後ろに伸ばした黒い髪が可愛い。

昴は初めて、一目惚れというものを体験した。

そのことを自覚すると、みるみる顔が赤くなってしまう。

金鱗湖に二人。男女が顔を赤らめているという、希有な現象がその日起きていた。

「…あ、あの。カメラマンさんですか?」

気を取り直したのか、彼女が少し首を傾げて昴に質問した。

彼女の黒い後ろ髪も、彼女の動きに反応するようにサラリと揺れる。

昴は咄嗟に視線をずらして、

「そ、そうですよ。」と言った。声は緊張していた。

「わー!すごいですね!」彼女の目が、尊敬の眼差しになる。

昴にはその眼差しが痛かった。どうして自分はカメラマンと答えてしまったのだろう。

もうすぐ引退してカメラは二度と触らなくなるのに、彼女が質問をしたとき、どうして嘘をついてしまったのだろう。

心の罪悪感が昴の全身を覆っていった。

「じゃ、じゃあ、もしよかったらですけど私を…」

「えっ…なに?」

彼女との距離がかなりあるせいか彼女の声が聞きづらい。

なにか言いづらそうにしているけどなんだろう…

すると、彼女は何かを意気込んだのか、よしっ!と体の前でガッツポーズをとって、昴に近づいていった。

え、え、え、え、なに、なに?!

昴と十分話せる距離になっても、彼女は歩みを止めない。20,10,5mと昴との距離を近づけていく。そして、彼女と昴がかなり近い距離まで接近したとき、彼女は昴のカメラを持っていない手を掴んだ。

「あっ…」

「私を、撮ってください!」

「…え?いええええええええ!?」

彼女の思いがけない願いに、昴は混乱する。

「おねがいしますっ!」

それでも彼女は頭を下げていた。

長い黒髪を前に出して、何回もお辞儀をする。

昴は手にくる柔らかい感触と、彼女の必死さに当惑した。どうすればいい、僕は?

カメラをやめようと、わざわざここまで来て踏ん切りをつけようとした。でも、美しい女性に出会ってカメラをまた再開する?あまりにも自分は甘すぎないか?必死な思いで諦めたカメラに対する思いをこんなことで再燃させて良いのか?

昴は今までの自分の思いと、彼女を撮りたいという今の自分の思いに交錯していた。

初めて写真を撮ったときのことを、その時昴は何故か思い出していた。

あの頃の自分は、自分に正直で自分だけの写真を撮っていた。初めて撮った写真は、何気ない、今思えば平凡な写真だったけど、あの頃の自分はフィルムの中に思い出を詰めているようで楽しかった。

そんな気持ちはいつの日からか忘れていたけど、今になってその気持ちが燃えたぎっている。僕は、僕のために彼女の写真を撮りたいんだ。

「…わかりました。僕でいいなら、撮らせてほしいです。」

「ホントですか!」

彼女は太陽に咲くひまわりのような笑顔をしてお礼を言った。昴はその表情にまた調子が狂いそうになる。

これで、この人の写真を撮ったら、本当にカメラマンを辞めるんだ。自分にとって、彼女の最高の写真が撮れたらきっぱり終わるんだ。

そう何回も自分に言い聞かせる。

「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私は、朝霧真琴(あさぎりまこと)と言います。」

「雨露昴です」

「昴さん。よろしくお願いしますね。」

そう朗らかに笑って、真琴は両手でカメラのポーズを撮った。

昴はその可愛らしい仕草に思わず顔をそむけて

「よ、よろしくおねがいします…」と小さく答えた。

小さな手で作られたカメラの外側から見る彼女の笑顔は、この世のものとは思えないほど、美しかった。

          *  *  *

池の周りを真琴と歩く。その事実だけで昴は心が燃え尽きそうになる。

「ここ、いいですね!撮りますか?」

カシャ

「わあ!ここ綺麗です。撮りましょう!」

カシャ

真琴の言うとおりに写真を撮っていくが、一枚目のときのような感動はなかった。

ただ、風景写真を撮っているような味気ない感じがする。せっかく写真を撮っているのだから

「もっと、右よってください!」

「そこ、そこキープで!」

と指示を送って写真を撮っても、ファインダーに映る真琴の姿は、昴にとって納得いくものではなかった。昴は真琴の姿を最大限に美しく撮れない自分に対して苛立ちを感じていた。

ブランクやスランプを理由にしても、自分は前みたいに”上手く”も撮ることができない。

構図も光の使い方も、全部下手になっている。

自己嫌悪になりながら、どうにかシャッターを押していると

ぽつぽつと空から雨が降ってきた。

「冷たっ。」真琴は額にかかる雫に目を伏せる。

しかし昴は突然降ってきた雨を気にも止めないかのように思案している。

どうすれば。どうすれば朝霧さんを綺麗に撮ることができる?昔の自分をどうやったら思い出すことができる?あれ…どんなふうに撮ってたっけ…。おもいだせ、おもいだせ、おもいだせ‥!

ぺちっ

頬に柔らかい感触があった。

「えっ…」

顔を上げると、昴の前には頬を膨らませた真琴が立っていた。濡れた髪がグチャグチャになりながらも、昴に真剣な表情で向き合う。

「昴さん!風邪引きますよっ!」

真琴の怒った表情、濡れた髪と服を見て、昴の心は空っぽになった。

放心状態の昴を、真琴は腕を引っ張って連れて行く。次第に強くなっていく雨は湖に当たって更にその強大さを表現する。二人に踏みつけられていく地面は、すぐに硬い音から泥濘んだ音へと変化していった。金鱗湖全体を、雨が支配していく。

昴に当たる雨の感触は痛かった。でもそれ以上に、連れられる右手の感触、そして自分の幼稚さが昴にはもっと痛かった。


真琴と昴は近くの休憩所へと入った。古びた木材の匂いが充満して、椅子が立ち並んでいるだけのこじんまりとした休憩所で、昴は先程より強い自己嫌悪を感じていた。

僕は最低だ…降り出してきた雨に気づかず自分のことだけを必死に考えて、朝霧さんが濡れているのを無視してしまうなんて、僕はカメラマン失格だ…

濡れた前髪が昴の視界を遮っていく。そのせいで真琴がどんな表情をしているか昴は分からなかったけれど、初めて彼女の顔が見えなくていいと思った。今見えて目があってしまったら、罪悪感が自分の心を覆い尽くして逃げ出してしまいそうだから。…逃げたいな。

昔もこんなことを思ったことがある。周りからの信頼と期待が重い。もっと自由に作品を作りたいのに作れない。そして、期待の目が一瞬にして失望と嘲笑に変わっていく。自分はそこまで評価される器ではなかったことを嫌でも自覚して、逃げ出したいと思ってしまう。

こんな自分がもう一度写真を撮ろうなんておこがましかったんだ。神様はもう僕の存在なんてとうの昔に捨てていたんだ。不良品だったんだ、自分は。

ぺちっ

また、あのときの優しい感触を昴は感じた。

顔を上げると、心配そうに見つめてくれる朝霧さんの姿があった。朝霧さんの濡れた髪、顔、白いワンピースを見ると、また頭が真っ白になっていきそうだった。

昴の目から、一筋の雫が垂れた。その雫は、雨のように冷たいものではなく、熱く込み上がった涙だった。一度出すと、そこから止まらないように涙が溢れ出てくる。昴はその涙を袖で必死に拭いていった。涙が出ることで、昴はやっと自分に向き合うことができた。

「ごめん…ごめんなさい…僕、朝霧さんに最低なことを…期待に応えられすにごめんなさい…」

昴は泣きじゃくる弱々しい声で、真琴に謝った。何度も何度も、声が枯れるまで何度も。


「きっとあなたは、ものすごく真面目なんですね。」


「…え…」

真琴は泣いている昴に、そう優しく微笑んだ。

「はい、どうぞ。ハンカチです。」

そう言って、真琴は赤い刺繍が入ったハンカチを昴に手渡した。そのハンカチは暖かくて、ふわふわしてて、すごく安心する感じがして、昴はそっとそれで涙を拭いた。

「ふふっ。」僕の表情を見て朝霧さんは笑って、僕と反対側の外の景色に目を移した。

「あーこれじゃ、もう撮影はできませんね。」地面を強く打ち付ける雨を見て、朝霧さんは残念そうに言った。

静かな空気が流れて、僕は覚悟を決めた。これ以上朝霧さんを写すことはできない。僕がカメラを持つことも、もう二度とない。僕よりももっと良いカメラマンがいるから、その人を紹介しよう。そう言おうと、口を開ける。

「朝霧さん、もう僕は…」

「私、そのハンカチお気に入りなんです。」

昴が最後まで何かを言う前に、真琴は言葉を被せてきた。また真琴は振り返ってフフッと笑う。昴は咄嗟にハンカチを顔から離す。

「だから、明日あなたが返してくれませんか。」


「そして…また、私の写真撮ってくださいね。」



真琴と別れて帰路に立った昴は、昔お世話になった写真家へと電話をしていた。

雨は上がったが空はまだ曇り空で、夏だというのに6時にはもう暗くなっている。その灰色の空は、昴の心の中の不安を引っ張り出していくみたいだった。コールが長引いていくほどにその気持ちはどんどん形を成していく。

「もしもし。」「はっ‥!もしもし、お久しぶりです、雨露です。」

久しぶりに聞いた声に、昴の中の緊張は最大限に高まっていった。

「おお、君か。どうした、今さら?」電話の主の優しさの中にこもった威圧感に、電話越しでも昴は震えそうになった。少し覚悟を決めて切り出す。

「あの、もう一度そこで勉強させてくれませんか?無理なお願いだとは分かっています!でも、でも…」

「ははっ…そんなに固くならなくて大丈夫だよ。その言葉は、もう一度私のところで働きたいということで良いんだね?」

「は、はい!」電話の主の返答に、昴はすぐさま応える。

「…なるほどね。

君さ、カメラを少し甘く見てないかい?」

えっ…聞いたこともない声色に、昴は息を飲んだ。

「何が理由でカメラをまた始めたかは知らないけど、君はそうやって自分のぽっと出の意思ですぐに物事を始める悪い癖があるよね。まず辞めると言ったときに、なぜ僕に会いに来なかったの。どうして説明もせず、写真展を開かなくなったんだ。君は、そのことを一つでもファンに謝ったかい?君の作品を待ち望んでいるファンはごまんといるはずなのに、君はなんの説明もなく勝手に辞めて、また勝手に始めるのか。」

「は、はい…おっしゃる通り、自分勝手でした…」

昴は今までの自分をこの上なく恥じた。そうだ、自分にもファンはついていたんだ。なのに、自分がスランプという理由で勝手にカメラを投げ出して、多くの人に迷惑をかけた。

昴は表情を暗くして、心の中で罪の気持ちを噛み締めた。

一呼吸おいて、電話の主は息遣いを整えた。

「……君は辞める責任を持ちなさい。何か君が物事を辞めたとき、困るのは自分だけではないことを自覚しなさい。そして、始める責任も持ちなさい。」

「え…」最後の言葉に、それまで肩を落としていた昴の表情が色づき始める。

「明日の10時に、写真を私に見せなさい。私が納得する写真を撮れていたら、君をまた雇いましょう。では、また。」

「あ、ありがとうございます!」昴がお礼を言う前にその電話は切れていたが、昴の目には闘志が燃えたぎっていた。もう一度写真を見せて、あの人に雇ってもらうんだ。自分がまだ新人だった頃のように…

        *   *   *   *

久しぶりに来る【白井写真事務所】の日の朝は雨が降っていた。昴は一眼レフカメラを前に大事そうに抱えて、右手にビニール傘を携えて、前かがみに歩いていく。歩くたび水溜りに捕まり、その都度昴の革靴には水が入ってきたが、昴はそんなことは気にしなくなっていた。傘に当たる雨が、一つ一つ違う音を立てては消えていく。昴の鼓動のリズムは、事務所に近づくにつれて早くなっていった。

「こんにちは。よく来たね。」

やっとのこさでたどり着いた事務所は、昔と変わらずこじんまりとしていた。白い鉄のビルの二階にそびえ立つ事務所で、昴は昔目の前の老人の助手としてよく働いていた。その老人というのが、国際プロ写真コンテストで二度も優勝したことがある、昴の師匠『白井吟造(しらいぎんぞう)』だった。

白井はその片鱗を見せることなく、カメラ以外ずぶ濡れになった昴を案内した。

招かれた部屋はこれまた質素で、デスクが2つと大きな机が一つ、白井が案内したのはその奥の向かい合わせになったソファだった。

「君は何茶が好きだったかな?」白井は優しく昴に語りかける。

昴は少し寂しくなりながらも、「緑茶です。」と静かに答えた。

先生は僕の好きなお茶の種類まで忘れてしまったのか。一昔前までは、事務所に来ると自分のデスクには必ず温かい緑茶が置かれていたのに…

「はい、どうぞ。」それでも、白井は何事もないように昴へ緑茶を届けた。

先程もらったタオルで髪を拭くのを一旦辞めて、水面の表面から湯気を立ち昇らせる緑茶をゆっくり飲んだ。とても懐かしかった。懐かしくて、懐かしくて…思わず目が潤む。

「あらあら、また君は泣くんだね。君は昔も、よく失敗しては泣いて悔しがってたよね。僕はそれは、君の良いところだと思うよ。」

そう言って白井は優しく微笑んで、昴はまた泣きそうになった。

先生は、僕のことを忘れていなかったんだ。

あの頃の楽しかった思い出。よく失敗しては先生に怒られて、その度悔しくてなんとかしてやろうという思いが強くなっていったんだっけ。初めて写真の賞を受賞したときや、写真展を開いたときは、仲間や先生が自分のことのように喜んでくれて、とても嬉しくてよく帰り際に泣いていた。

『せんせぇ〜、ぼくはぁほんとに、カメラやっててよかったですぅ…うわあああ』

『あーあ、また泣いちゃいましたよ昴くん。先生、どうにかしてください。』

『そうだねえ、昴くん。君はね…』

「昴くん、昴くん…」

「えっ、あっはい!」昴は白井に呼ばれてこれまで失っていた意識を取り戻した。

「す、すみません」いくら昔を思っても、それは過去でしかないんだ。今は、未来に向かって走っていくしかないんだ。昴は一眼レフカメラを手に取った。

「君は、なんでもう一度写真を撮りたいと思ったの?」

えっ…手に取っていたカメラをもう一度ソファへと置く。

「それは、僕が…」

一瞬言葉に詰まったが、次は自信を込めて続けた。

「僕が、撮りたい人に出会ったからです。最初は写真を辞めるつもりで彼女の写真を撮っていました。この仕事が終わったら、もうカメラなんて持たないぞと、その気持ちで。でも、僕は被写体を、彼女を一度傷つけてしまって…。そこで、彼女が言ったんです。

『また、私の写真撮ってくださいね』必要とされているようでした。自分を認めてくれているようでした。だから僕は決めたんです。この人をいつまでも撮り続けるぞって…」

「彼女が君を救ったんですね。…じゃあ、もし彼女がいなくなったら君はカメラを辞めるんですか?」

昴は今まで感じたことのない、白井の威圧感を感じた。でも、僕はもう一度決意したんだ。カメラを続けることを、シャッターを切ることを、もう二度と止めないって。

「僕は、何があってもカメラを続けます。」

「…よく言いましたね。では、君の自慢の写真とやらを僕に見せてください。」

そうして僕は、もう一度一眼レフを手に取った。さっき取ったときより何故か、そのカメラは重く感じた。


昴が手渡したカメラを手にし、白井はその中の写真を覗き込むように見ていった。あまりにも急なことだったので、現像ができなかった昴は、白井に『行くときに現像してきましょうか』と言ったが、白井が別にいいと答えたのでそのままカメラごと持ってきてしまった。

白井曰く、カメラの中の写真が1番撮り手の気持ちが伝わってくるそうだ。

写真をスライドしていく白井。その表情からは評価の内訳が見えない。自分が弟子の頃も、先生はいつもニコニコ笑っていたなあと昴は思っていた。怒っているのかどうかわからないから、知らないうちに失礼を働いてしまうこともよくあった。

コトン

一通り見終わったのか、白井はカメラを机において昴に向き合った。

「昴くん、これは…」        …え


          *  *  *  *  *

僕はハンカチを届けるという名目で、彼女を撮るために金鱗湖へ来ていた。

林を抜けて、泥道を抜けて、目に反射するのはまた雨上がりの湖。目に映るのは、昨日と全く同じところに佇んでいる、真琴の姿。

真琴は、湖へのでっぱりになってるところで、手すりに捕まって湖を見ている。

僕はまた、彼女にシャッターを切った。


                  カシャッ


その音に気がついたのか、真琴は昴の方を振り向いて顔をパーッと明るくさせた。

「昴さん!来てくれたんです…」

「どうして…」

「ふぇ?」

ファインダー越しに真琴の姿を見ながら、昴はそう呟いて

「どうして…君の姿が写真に写っていないんだ…」

カメラを肩から落として、泣きながらまた、呟いた。

『昴くん、君の写真に誰一人として写っていないよ?』

『え、そんなはずは…なん、で?どうして朝霧さんの姿が、どの写真に一枚も…』

ガシャン と鈍い音を立てて落ちた昴の一眼レフカメラには、真琴の姿が写っていない、湖の写真が写っていた…


また、雨が降ってきた。

朝よりも激しく、二人を強く打ち付ける雨。

昨日と同じように休憩所に入った二人は、自分の洋服の裾を絞っていた。そこに一切の会話はない。聞こえてくるのは、窓を斜めに打つ水音と、雨だというのに鳴かぬのをやめない小鳥の囀りだけ。

雷が鳴った。あの黒い雲が光を放ったのだろうか。真琴を見る。真琴はただ、椅子に座って項垂れて、雨の音だけを聴いていた。

音より早く雷の光が見えて、その直後にどこに落ちたかもわからないような音がする。

雷が鳴ると、真琴は少しだけ怯えてワンピースの袖を握る。昴はそれを横目で見て、ただ雨が上がるのを待つしかなかった。

次第に風が強くなって、緑の葉がぼろぼろと落ちていく。その風は昴たちがいる休憩所までやってきては、悪徳商人みたいにドアを強く響かせた。

昴はこの音の中、何を言っても聞こえはしないだろうと思った。

だから、こんなことを口走ったのかもしれない。

「朝霧さんは何者なんだ…」

真琴がその言葉で、言いにくそうに唇をしかめる。聞こえてしまったのか。聞こえるのは分かっていたはずなのに、昴も唇をしかめた。

二人の間に、雨の音も流れないような沈黙が流れる。

「私は…」真琴が静かにその口を開いた。雨の音はうるさいはずなのに、なぜか真琴の声だけははっきり聞こえる。

「死んでいるんです。」

ガタッ 昴が椅子を思わずずらす。また何事もなかったかのように椅子を戻した。

こんなことは予想していた。ある意味予想通りだった。自分のカメラが壊れている可能性もあった。その言い訳をしてほしかった。でも、彼女は嘘をつかなかった。

写真に映らない彼女の原因は、彼女が死んでいることにあったのだ。

彼女にシャッターを切ったとき、変な感じがしたのを覚えている。ただ、どこか寂しさがあった。真琴を写しているのに、ただ自分は景色を切り撮っているような、そんな違和感が。

「あなたは、何が目的なんですか。」どうして彼女は、僕に写真を撮らせたのだろう。

「それは、私が成仏するためです。」

「写真を撮るのと、あなたが成仏するのにどんな関係があるんですか。」

「…わからないです。」分からないってなんだよ。

「ただ、模索していたんです。私がこの世からいなくなる方法を。」

そうして真琴は、長い黒髪を後ろ手に結ぶ。前見たときも、今も、彼女の髪はずっと濡れていた。

「…それは、僕がただあなたの道具だったってことですか。」

「…違います。」真琴は少し驚いて、結んでいた黒い髪をストレートへ戻し、そして、否定した。

「違わないですよ。…あなたは、僕をただの道具としか見てなかった。」昴は立ち上がって嘆いた。真琴が困った表情で昴を見ている。あなたにはそんな顔をしてほしくないと、昴は思った。

「あのときの言葉も…あの日、雨が降ったときも、あなたは僕を失いたくなかった。だから!っ、だから‥あんな言葉を言ったんですね。」

昴の目には、また涙が溢れては落ちていった。雨と同じように、その雫は勢いを増していく。

「あのとき僕は、その言葉に救われたんだ!…なのに、なのに‥その言葉は、嘘だったんですね。」

昴がそんなひどいことを言っても、真琴は涙を我慢しているだけで、何も言わなかった。

「やっぱり、嘘だったんですか‥」

昴の息が乱れては消えていく。昴は、部屋の隅っこに投げ出していたカメラを手に取った。さっき落とした衝撃で、レンズのところの配線は剥き出しになっていたけど、気にせず昴は壊れたカメラを引っ張り捕った。

「あなたを、信じていたのに…」

最後にそう呟いて、昴は真琴へ背を向けた。もう言う必要はないのに、意地になって言ってしまう。それが自分のダメなところで、ズルいことだった。

引き戸に手をかける。雨はまだやんでいない。先程より強く降って、引き戸の前には水溜りと、その表面に浮かぶアメンボが潜んでいた。

「まって…」

初めて真琴が泣きそうな声を出した。昴の手が、意識が、一瞬止まったけれど、昴は何事もなく引き戸を開ける。すると、外に溜まっていた水が自分の革靴に流れ込んでいく。外は前よりも、強い雨の匂いがした。

「…ごめんなさい‥ごめんなさい…本当に、騙してごめんなさい…」

真琴の声が、泣き出しそうな声から、涙を溜めて泣いている声に変わった。

外から来る雨の音が、昴の耳を支配していたけれど、真琴の掠れた静かな声は、昴の耳にはっきり届いた。

「…あなたが、写真をとっていたから…あなたが、うれしそうにカメラで、私を撮ってくれたから…わたしはっ‥っ、っ、っくぅ、ぅぅぅ…あなたのっ優しさにつけこんでっ‥」

「ごめんぁさい……」

そう最後に謝って、真琴は今まで我慢していた声をだして、地面に泣き崩れてしまった。

ただ、何回も謝って、謝って。声が枯れるまで、何度も。

昴が真琴の方へ振り返って、静かに座る。

そうして静かに、微笑んだ。

「…きっとあなたも、ものすごく真面目なんですね。」

「‥え‥」どこかで聴いたような言葉。私が多分、あなたに言った言葉。

「どうぞ、返し忘れたハンカチです。」そう言って、昴さんは私に微笑んでくれる。

「どうしてっ…昴さんはそんなに、人に優しいんですか‥?」

「…だって僕も、あなたに優しくしてもらいましたから。」

そう優しく笑う彼は、泣いている私と不釣り合いで‥でも、似た者同士だと思えた。

「僕ら、何だか似てますよね。」

「えっ…」私もおんなじことを考えていた。昴がまた真琴に微笑んで、開いた入り口の空を見ていた。雨が葉っぱが、昴の顔に落ちては落ちては振り払われる。雨の日に、真琴と昴は、同じ灰色の、水を撒く空を、ただ静かに、静かに眺めていた。

「もう一度、僕は朝霧さんのハンカチを借りに来ます。」

「だから、明日また、貸してくれませんか?」

「そして…もう一度、あなたの写真を撮らせてください。」

そう言って、昴は二人の空間を手放した。

もう外は、雨が上がっていた。


昴が真琴を撮る朝は、雨上がりが多かった。昔の感覚も思い出して、写真に残らない真琴の姿を切り撮っていく。それでも僕達は何度も写真を撮って、色々なポーズを撮って、最後にお別れ代わりに赤い刺繍のハンカチを渡す。何度も洗っているせいか、赤の刺繍は色あせて見えたけど、それが彼女と自分の関係が深くなっていることを表しているみたいで、少しも寂しくはなかった。

真琴と午前中で別れ、午後になると昴は【白井写真事務所】へ出向いていた。

そこで先生に写真を見せてはアドバイスをもらう。見せる写真は、ただの風景写真だったけれど、昴はそこに真琴の姿が写っているかのように話した。

「君が撮る写真に、真琴さんの姿は見えないけど、とても不思議に感じるね。そこに人はいないのに、何故か君の写真は、誰かがいるようなそんな感じがする。」

「だって、実際いますから。」

「…そう、だったね。」

そうやって先生は、静かに笑った。ただの風景写真でも、そこに真琴の姿が写っていると思われるだけで、昴の心は嬉しかった。

寝るときも、寝る前も。起きるときも、起きた後も。

最近、昴はずっと真琴のことを考えていた。

今日はどんな写真を撮ろう。明日はどんな写真を撮ろう。そうやって、昴は眠りについた…


六月も終わりが近づいて来た。朝七時にかけるアラームがなって、昴は布団をはねのける。いつもの通り朝食を作って、空を見ていると、今日の空は晴れていた。朝、フライパンの上を転がる卵の音と、ニュースキャスターの天気予報で、いつもの一日が来たことを感じる。

『今日は久々に快晴の予報です。最近梅雨模様が心配されましたが、明日から3日間は晴れ空が続くでしょう。』明日から3日間は晴れ…雨は降らないのか…

いつの日も昴と真琴を繋いだのは雨だった。にわか雨、通り雨、夕立、荒梅雨、青雨…

その雨たちが降らないことに、昴はどこか不安を感じながらも、換気扇の音は響き続ける。寂しい一人の部屋に、外の鳥の声を引き連れて。

朝食を食べた昴は、外の服に着替えてカメラを持った。雨がなくても、自分がやることは同じだ。そう空に主張するように。


金鱗湖に来ると、いつもの雨上がりではない葉っぱが昴を待っていた。風に揺れて、昴に道を作るように靡いていく。昴はその風景を一枚写真に収めようかとカメラを近づけたが、すんでの所でシャッターを押すのを止めた。もう一度向き直って、土の道を歩いていく。

彼女が、まってる。

_「昴さん!おはようございます!」湖に着くと、真琴はまた反対側を精悍な顔で眺めていた。昴に気がつくと、真琴は顔をパーッと明るくさせて、にこやかに微笑んで挨拶を交わした。

「おはよう、ございます。」雨が降っていなかったときの彼女の姿を見るのは初めてで、少し緊張してしまう。不格好に昴も真琴へ微笑んだ。

「今日は、雨は降りませんでしたね。」真琴が残念そうに近づいてきて、空を見てそう呟く。真琴は左手に大きな傘を持っていた。

「せっかく、今日なら濡れないと思ったのに…」

「ぷふっ」あ‥昴は思わず笑ってしまった。

「あー!笑いましたね。どうせ私のこと馬鹿だと思ったんでしょう!」真琴が頬を赤く蒸気みたいに膨らませて、昴に怒った。

「う、ううん…ぷふっ。」

「やっぱり昴さん思ってたんですか!?」

「だって‥雨振らない日に、傘を持ってくるなんて…ぷふっ、運悪すぎでしょ‥」

「もう、ひどいです…」そう言って真琴がそっぽを向いても、一人昴は笑っていた。やっぱり、雨が降らなくても僕たちは僕たちだ。


カシャ 今日もいつものように真琴の写真を撮っていく。写真に彼女の姿が映らなくても、昴はシャッターを押すのを止めなかった。真琴も、ポーズを決めるのを止めなかった。そこには、二人だけの世界があったからだ。

真琴の写真を撮っていると、すぐに午前中は終わった。いつも通りだと昴と真琴はここで解散するのだが、昴はまだ帰りたくなかった。

「じゃあ、また明日、返しに来てくださいね。」そう言って、真琴は赤い刺繍の入ったハンカチをポケットから取り出そうとする。

「ま、まって!」昴はそうしようとする右手を咄嗟に掴んだ。彼女の腕は栄養失調かと思うぐらいに細かった。触るとひんやりしていて、自分の焦げた腕と間近で見比べると、彼女の雪の色のような白い腕がとても目立つようだった。その手は彼女の白いワンピースによく似ているなと昴は思った。

「…あの、その‥」昴が言いにくそうに唇を噛む。真琴はいきなりのことに困惑して怯えていた。

「えと‥昴さん?」真琴は心配そうに昴の顔を覗き込んで言った。

自分の黒い目と、彼女の反射した自分を映す透き通った目が合わさって、これから言うことが恥ずかしくなる。でも、言おうと心に決心した。

「午後も、湯布院で写真を撮りませんか!」昴のあまりにも必死な顔に、真琴は少し驚いて、迷子の子供のように困った表情をした。黒くて滑らかな髪を耳にかけて、考え込むように思索する。そして昴の顔をそっと見て

「いい、ですよ‥。」そう言って、真琴は静かに微笑んだ。彼女のこの笑顔は、昴にとって一番嬉しいものであった。

       *   *   *   *   *   *

真琴と昴は二人、湯の平街道を歩いていた。久々の太陽に照らされた湯の平街道は、若者から老人まで、参勤交代みたいにごった返していた。行きゆく道は、最近の流行に乗っかったと思われるお洒落な店や、アンティーク感あふれる昔ながらの店などがあり、その景色はまるで、時空の狭間に迷い込んでしまったみたいだなと、昴は思った。

風に吹かれて匂う揚げ物の匂いに、昴はピクリと鼻と目線をそちらへ動かす。「美味しそうですね。」そう笑って真琴に言おうと目線を振り返すと、真琴が少し複雑そうな顔をして唇を歪ましていた。

「昴さん‥やっぱり、私とは行くべきではなかったんじゃないでしょうか。」

真琴が少し申し訳無さそうに昴に訊ねる。

今も人の群れが真琴を追い越していく。人々は真琴をそこら辺の石みたいな顔して、ただ通り過ぎていく。彼らの目線に真琴の存在はなかった。でも、昴は真琴にずっと話しかけていた。その姿を見て、周りの人が奇妙にコソコソ話したり、クスクス可笑しそうに笑ったりしている。真琴は胸が締め付けられそうな思いだった。

「私のせいで、昴さんが嫌な、気持ちに…」

「…大丈夫ですよ。」なんだそんなことか、と言うように昴は真琴に優しく微笑んだ。

「逆に、真琴さん!もし、僕の隣歩くの嫌とか、人混みが苦手だとかだったら言ってください!」次は必死になって、昴は真琴の顔を見る。

「ぷふっ。」真琴はそれがなんだか可笑しかった。ああ、どこまでこの人はお人好しでいい人なのだろう。自分がどう見られようと気にせず、私のことを心配してくれるなんて。こんな人、生きてた内にもいなかったな。

「あれ、僕、おかしなこと言いましたか?」

昴が戸惑ったような顔をして、頭をポリポリかく。真琴はそんな昴に微笑んで、手を掴んだ。

「私、行きたいところがあるんです!」そう言って、昴の腕を力強く引っ張りながら、人混みの中を走り抜けた。

「さっきのお返しです。」そう笑って言いながら。

私は、本当は人混みが苦手だった。晴れの日も苦手だった。誰かの隣を歩くのも苦手だった。私がずっと一人だって、強く実感してしまうから。でも、今日はなぜか、雨の日よりも楽しかった。


真琴が昴を連れてきたのは、お洒落とアンティークを複合したような粋なカフェだった。天井には温かい光をもたらす、オレンジ色のランプが無数個点いていて、その光が二人の座った丸いテーブルを照らす。

「真琴さん、何にしますか?」昴くんは私に当たり前のように注文を聞いてきた。その姿に嬉しくなる。私は少し照れながらも

「アイスコーヒーですかね。」と答えた。さも当然みたく言ってみたが、アイスコーヒは飲んだことはない。でもいつかの日、私を通り過ぎていったカップルが言ってたから、それが美味しいはずだと信じている。

「…苦あっ。」実際飲んでみるととても苦くて、思わず顔をしかめた。彼は笑っている。

「ははっ、コーヒー飲んだことないんですか?ぷふっ、砂糖ありますよ」馬鹿にされたような彼の口ぶりに、私は少しムスッとした。私は彼に手渡された砂糖をなりふり構わず入れる。

「…甘あっ。」今度はとても甘かった。

                   カシャッ


しかもその姿を写真に撮られてしまった。顔が変になってるのに…

「日常的な写真が撮りたいので」そう言って彼ははにかんだように笑う。彼の笑顔につられて、思わず私も赤く微笑んだ。彼は本当にいい人だ。私が幽霊だと知られてからも、こうやって笑顔で写真を撮ってくれている。ずっと孤独だった私に光を差してくれている。昴くんは太陽…いいや、傘なのかな。なんて思って恥ずかしくなって、真琴はアイスコーヒーをゴクッと飲んだ。

…あのこと、昴くんに話してもいいのかな。

「真琴さん。ここ、ものすごくお洒落ですね。」

その時、昴が店内を見渡して言った。真琴が少しビクッとする。

「真琴さん?」

「いや、ごめんなさい。何でもないんです。…確かにお洒落ですね。なんたって、私の穴場スポットですから!」

「あはっ」やっぱり、彼の笑顔を見ると安心する。いま、この笑顔を困らせた表情にしたくない‥ そうやって、真琴はさっき言い出そうとしたことを喉に引っ込めた。

ごほっ ごほっ 

その時、勢い余ってしまったのかわからないが、喉を枯らすような痛みの咳が出た。



そのカフェを後にした真琴は、湯の平街道を高校生顔負けなくらいはしゃぎ倒していた。真琴が何かを買って、何かを美味しそうに食べる。真琴が何かを見て、何かに目をかっぴらいて驚く。そのたびに昴はカメラのシャッターを押していった。彼女の良いリアクションがとても絵になる。撮ってる側としてもとても楽しかった。もはや、昴と真琴は周りの目など気にしなくなっていった。ただ、雨の日のような二人だけの世界に入り込んでいた。

ツー 昴の顔を雫が垂れる。汗か?確かに、少し撮りすぎたかもしれない。彼女の手には色々なものがぶら下がっている。

「真琴さん。少し休憩に…えっ、雨?」

ポツポツと空から雫が無数に降っていることに、昴は気づいた。なんで、雨…?

『今日は久々に快晴の予報です。最近梅雨模様が心配されましたが、明日から三日間は晴れ空が続くでしょう。』確かに、天気予報士はこんなことを言っていたのに。

また、雨?   なんだか気味が悪かった。脳が危険信号を出しているみたいに、汗が体を纏っていく。

…はっ!取り敢えず、今僕がやるべきなことは‥

「真琴さん!雨が降って来たみたいです!どこかへ避難しましょう!」

「…雨?は、はい。わかりました!」

そうして昴と真琴は、近くの休憩所へと逃げ込んだ。通りゆく人も、逃げ出す昴に気づいたのか、雨が額に当たることに気づいたのか、二人に続いて休憩所へと入り込んだ。

しばらくして、雨の勢いが強くなり、その姿は目に見えてくるようになってくる。そうしてすぐに、目の前の景色が雨によってかき消された。

「天気では、今日はずっと晴れだって言ってたのにねぇ。」

「大分のここ一体だけが雨降ってるらしいぞ。」

「なんだかそれって

           _気味悪いね。


ズンッ 言葉が全身に鞭を打って溶けていくみたいに、昴の体に寒気がさした。

なぜいきなり雨が降ってきたんだろう。いや、違う。この、全身を貫く気味の悪さはなんだ。さっきからすごい胸騒ぎがする。

昴は同じく外を見ていた真琴を見た。真琴は安心したような顔で外を見ていた。

「私達、濡れなくて良かったですね。ギリギリセーフでしたよ。」そう微笑んで、真琴は昴を見た。昴はその声を聞いて、少し理性を取り戻した。

全く、自分らしくもない。きっとこれはただの夏風邪だ。少しはしゃぎすぎて、自分のネジがどっか外れたんだよ。

「おかーさん!光った!光ったよ!」その時、帽子を後ろに被った、八歳くらいの女の子が声高らかに叫んだ。もしかして…

どどろどどろと、気味悪く湯布院に響いたのは、紛れもない雷の音だった。

「キャー!!!!」休憩所がパニックになる。昴も、そのうちの一人だった。顔から、血の気が引いていく。

『お前は、とんでもないことをしてしまったなあ』

脳の奥から、声が聞こえてきた。まるで自分に、直接語りかけているような。薄気味悪く、意識が朦朧とするような声だ。昴は立っているのもままならなくなり、思わずその場に座り込んだ。

「だ、大丈夫ですか!?昴さん!」

真琴がいきなり倒れこんだ昴を心配する。昴の耳に真琴の優しく透き通った声が響き、昴は正気を取り戻した。

「う、うん。多分、風邪とかだから。」そう笑って真琴に返しながら立ち上がる。外の雨粒の音と、昴の速く脈を打つ心臓の音が呼応する。まだ、気持ち悪さは抜けていなかった。遠くに見える車のライトが昴を照りつける。光を遮るように、目元を日照りした腕で隠した。

「おかーさん!みてみて、雷様だよ!」

「静香!どこ行くの、静香!」

目が見えない代わりに、聴覚が敏感になり、誰かが叫んでいる声がはっきりと耳に届く。

「あぶないっ!」

その時、真琴が声にならない震えた声で同じく叫んだ。

地面を強く打ち付ける音が聞こえる。昴は光を遮る手を振りどけ、真琴がいた方向を見た。

…いない。

そのとき、後ろの方で大勢の人が息を呑むような声と、耳をつんざくような悲鳴を上げた。

まさか‥。人々の視線の先を追う。そこには、二人が道路に飛び出している姿があった。

右耳から水溜りをはねのけて進んでくる、車の苦い音が聞こえてくる。その音は電車のように速く、速く迫ってくる。昴の心臓の音は、嵐になった外の雨よりも強く強く打ち付けていた。息が、体が震えていく。

あの二人のうちの一人は真琴さんだ。道路に飛び出した子供を救うために向かっていた。車の音が近づいているのに気がつく人が増えると、昴を囲う恐怖の声は大きさを増していった。

でも、誰も助けに動けなかった。外の嵐といきなりのパニックで、人々の頭は軽く混乱状態にあった。今まで体験したことのない景色がいきなり目の前に現れて、ここは現実なのだろうかと、繰り返す日常で平和ボケした彼らの頭は問い続けていた。

昴ももれなく、その集団の中の一人だった。助けなきゃ。助けなきゃ。死んでしまう。彼女が、死んでしまう。これは、夢なのか?いきなり、こんなことが一日のうちに起こって…

そこで、昴は自分の唇をこれでもかというほど噛み締めて、考えるのを止めた。考えがなくなると、体は急に自由を得たように、走り出していく。

もう、車のブレーキ音は昴の目前まで来ていた。昴の視線の先には、女の子はもう逃げてしまったのか、恐怖に目を見開いた真琴だけが道路に残っていた。ライトが昴と、真琴を順に照らしていく。

「真琴さんっ!」

昴は叫んで、うずくまった真琴を囲うようにダイブし、そのまま転がりまわった。

ピーーーーーーーーーーーーー

大きなクラクションが、打ち付けたコンクリートの重さを表しているみたいだった。頭を打ってしまったのか、さっきの気持ち悪さのせいなのか、意識が朦朧としてくる。

容赦ない雨が、昴の体を強く降り注ぐ。

人々が一斉に近づいてくる声と足音だけが、昴の耳に残る。

「昴さん…なんで、私を助けたんですか…。私はもう、死んでしまっているんですよ…」

その音をかき消すように、真琴の震えた声は昴にはっきりと届く。自分の裾を握っている手が小刻みに震えて、彼女の冷たい体温が自分の体を蝕んでいった。彼女が泣きそうになりながら、もう一度強く自分の裾を引っ張る。下をむいて、怒っているか泣いているかわからないような顔で、唇を震わせていた。

「…ぼくはっ…」

声を絞り出して、雨の匂いの中、喉を振動させる。こんな掠れた声、届いているだろうか。真琴は、昴のしゃがれた声に、ゆっくりと顔をあげた。彼の顔は雨のせいでよく見えない。

「…ぼくは真琴さんを、ただ助けたかったんだ。だから‥」

昴と真琴の目が初めて出会う。

「死んでるなんて、言わないで…。」

昴の顔は、必死さと思いやる気持ちで溢れていて、温かい涙が支配していた。

やばい、意識が…

「大丈夫ですかっ!」最後に誰かのそんな声が聞こえて、僕は眠りに落ちた。

_人々が、昴や真琴、子供の前に集まってくる。でも、この人達に私の姿は見えていないから、心配なんてされなかった。ただ、そんなことは気にならないほどに、真琴の頭は昴のことだけを考えていた。

昴くん。昴くん。昴くん!

「すばるくんっ…」どうして私は、こんなにも彼のことを考えてしまうんだろう。なんで、昴くんが大変なときに、私は何もできないんだろう。私は、足を引っ張ってばっかりだ…

真琴は両目を手で痛いくらいに覆って、泣き崩れた。どうして雨が降っているのに、体はこんなにも熱いのだろう。昴くんに優しく、抱きしめられてるからだろうか。

『お前は、随分調子づいてしまったなあ』

「はっ‥」どこからか聞こえてくる声に、真琴はバッと振り返った。聞いたことのある声。忘れたことがない、あの声。

声がした方向に振り向くと、そこには私が助けようとした女の子が私をずっと見ていた。でも、女の子の目には光が宿っていない。助けようとしたときもそうだった。あの女の子はきっと、あの子に支配されている。

女の子は、地獄の門番みたいな顔をして言った。

『昔の契りを忘れおったか』

『お前も、あの男も、この街も絶対に許さない‥』

「静香!大丈夫?怪我してない?」

「‥うん!大丈夫!このお兄ちゃんと、お姉ちゃんが助けてくれたから!」

「お姉ちゃん…?」

「うん!」

女の子が無邪気な声を出して、私を見る。

私はその視線に、これまでにないくらいの恐怖を感じた。

 


ここは、病院だろうか。

白くて冷たい天井が、仰向けになった僕の目に映っている。病室特有の酸性の刺激臭がして、僕は仰向けの状態から体を立て直す。

ゆっくり目線を、窓の外へと移す。カーテンがかけられていたので、そのカーテンを引っ張って開けた。

雨が、降っていた。これまで自分は雨などに興味などもっていなかったのに、この降り注ぐ冷雨を見ると、心が締め付けられる。何かを懐かしんでいるように。誰かに会いたがっているように。僕は、何か大事なものを忘れている気がする。

外の雨がテレビの音を削るように強くなっていったのにも気づかず、昴はただぼんやりとテレビを見ていた。時々、看護師や同じ部屋の患者が昴に話しかけるけれど、昴は曖昧な返事しかしなかった。

ただ意味のない時間が流れていく。空の色は変わらないけれど、テレビの右下の時間は刻一刻と変わっていく。もう、夕方過ぎになっていた。一日の限られた時間を、自分は何に使っていたんだろう。無気力になった自分が、エアコンの風で靡いているみたいだった。

『_金鱗湖の龍の伝説を、皆さんは知っていますでしょうか。』

雨の音に紛れて、テレビからそんな声が聞こえてくる。金鱗湖…?一度写真を撮るために一人でいったことはあるが、なんだろうこの揺さぶれる気持ちは。心の奥に粘り気を纏ったように引っかかる気持ちは。今まで聞き流していたテレビに、初めて昴は興味を持って見つめた。ナレータは眠りを誘う声で続けていく。

『昔由布院の地は大きな湖であり竜が住んでいました。

しかし、由布岳の女神である宇奈岐日女神(うなきひめのかみ)は、使いに命じて湖壁を蹴破らせ、湖水を奔流させるとやがて湖底から現在の盆地が現れました。

急に湖をなくし、神通力を失ってしまった竜は、天祖神に



「私は、長い間この湖に住んでいた竜です。この地に少しばかりの安住の地を与えてください。そうしてくだされば、ここに清水を湧き出させ、永くこの地を護りましょう」




と訴えました。

天祖神は竜の願いを聞き入れ、金鱗湖が残されましたとされています_。』

竜…あの湖にそんな伝説があったことは初耳だった。そういえばあの湖には鳥居があったような。水のほとりにぽつんと浮かぶ、幻想的な雰囲気を持った鳥居が。それを誰かがいつも見つめていた気がする。誰だろう。思い出そうとすると、体が拒否しているみたいに頭が痛くなる。

昴は前感じたことのある、気持ち悪さのようなものにフラフラして、机の端を掴んだ。

「‥ん。」机の端を掴んだ右手の感触に、何かクシャッとした紙類の肌触りを感じる。すっと視線をむけると、手に収まっていたのは茶色い封筒のようなものだった。その謎の封筒に昴は一切の疑問を持たず、封を切った。開かなきゃいけない気がする。

その中には、きれいな字で昴への手紙が書かれてあった。

[昴くんへ

お体大丈夫ですか?どこか、傷を負っていたりしませんか?

昴くんのことが心配ですけど、私はそろそろ金鱗湖からいなくなります。

成仏するんです。突然で本当に申し訳ないことだと思っています。

でも、私を一人にさせてください。

もう、金鱗湖には来ないでください。

素敵な写真を撮ってくださいね。

さようなら。

        朝霧真琴_。]

少し薄く、途切れ途切れになった字で、こう書かれてあった。

「……どうして‥」

どうして、知らない人からの手紙に、ここまで涙が出てしまうんだろう。どうして、手紙の内容を何度も読み返して、そのたびに心が締め付けられるんだろう。

「おかしいなっ…」僕は涙を拭いて、手紙を封筒の中に戻し、それを裏返した。

見たくない。こんな言葉、取り入れたくない…

そう思うのは不自然なのに、当たり前のように喉が震える。

手紙を裏返したのに、誰かもわからないのに、記憶は懐かしくなって、悲しくなって涙が出る。

「…あれ?」封筒の裏に、小さい文字で何かが書かれてあるのを見つけた。ひらがな四文字と、最後に句読点が打ってある簡単な言葉。涙で濡れた目を、袖でゴシゴシ擦って、何が書かれてあるか確認した。

「っ…!」

昴はその言葉をみると、全てを思い出したかのように、病室を飛び出していった。

一面が白い病院内を、灰色の服を着た昴が駆け回っていく。革靴の擦れる音が、雨の音と混ざり合ってクラシックみたいになった。階段を足早に降りて、多くの人の不安が入り混じったエントランスを断ち切るように、昴は入り口へと荒い息をしながら向かっていく。自動ドアの音を蹴破るように、昴は大きく外に出た。

世界のあり方が変わってしまったかのように、外の景色は繊細な粒に押しつぶされていた。

ありえない速さで光と音を繰り返す雷雲。

古代の湖ができてしまったかのようになっている大きな水溜り。

氷のように昴を突く硬い雨。

誰もいなくなった室内に流れる天気予報が、今の異常気象を知らせている。

『緊急ニュースです。現在、大分県周辺で、大規模な洪水と思われる現象が起こっています。なお、この雨は全くの異例事態ということであり、大型な台風が接近したというような情報も…』

…その全部を押しのけて、昴は意に介さず走り抜けていった。

なぜ、自分は忘れてしまっていたんだ。

どうして彼女の存在が、ぽっかり穴の空いたみたいに無くなっていたんだ。彼女は自分の中で、一番大切な存在なのに、自分に活力を取り戻してくれた人なのに‥

ブルンブルンブルン

昴は走りながら首を回し、考えを改めた。今の自分にできることは、封筒の後ろに書かれてあった言葉に従うだけ。ただ、足を動かして

『______________________あいたい。』

会いにいくだけ。




金鱗湖の近くの道に差し掛かり、柔らかくしなった枝を踏み越えていく。

昴を囲う新緑は、生命を失ったかのように項垂れて、散っているものも少なくなかった。

前来たときに感じなかったドス黒さが、昴の体を蝕んでいく。咄嗟に吐き気がして、自分の喉元を強く抑えた。体が重い。いきなり言うことを聞かなくなった。ここに来るなと叫んでいるみたいに、聴覚の感覚が奪われていくみたいだ。でも、負けじと進んでいく。息が詰まっても、心臓が痛くても。冷たい雨に打たれても。

昴は金鱗湖に着いた。

昴は真琴の姿を必死に探す。冷え切った空気の中で目を血眼にたぎらせて、真琴の姿を探した。目蓋にかかる雫の量がどんどん増えて重みをまして、視覚までも奪っていく。

その視界の隅に、白いワンピースが映った。

「真琴さんっ!」昴は必死になって叫んだ。その声が雨をつたって届いたのか、真琴は呼ばれた方向へ振り向いた。

その時の真琴の表情は、泣きじゃくった笑顔だった。

「えっ…」

それから、真琴の体がみるみる大きくなっていった。

そして、その姿は人間でないものにも徐々に変わっていき‥

「竜…?」

ザザ ざざざっ

『こちら、金鱗湖周辺です!今、竜が現れました!竜です!ほんものっ、っ、っ…の…』

ザーーーーー

*  *  *  *  *  *  *  *


_私は、遠い昔に湯布院一体を支配していた竜だった。

あの頃の記憶は覚えてないけど、そうとう好き勝手やってたんだと思う。

うなき姫がその私にとうとう目をつけて、道臣命(みちのおみのみこと)に竜を成敗するように命じ、私は逃げるまま金鱗湖に流れ着いた。あの時の私は、いきなり巣を奪われた悲しみと、このまま神通力が無くなってしまう恐怖が相まっていて、うなき姫に無理なお願いをしてしまった。

『私は、長い間この湖に住んでいた竜です。この地に少しばかりの安住の地を与えてください。そうしてくだされば、ここに清水を湧き出させ、永くこの地を護りましょう。』

無視されると思っていた。鼻で笑われると思っていた。だって、私はこの地を勝手に支配していた竜で、巣を奪われてしまうのは当然だったから。

でも、うなき姫はとても優しく微笑んで、願いを受け入れてくれた。あの時のうなき姫の表情は、長い年月の中で一度も忘れたことはない。

金鱗湖に居着き始め、私の姿も竜から人間の姿へと変化していった数百年後、私は輪廻転生し、首に勾玉の首飾りを着けたうなき姫と出会った。前まで因縁の相手だった私たちは意外にも意気投合し、沢山の楽しい時間を過ごした。

彼女は前は呪具を身に着けた女首長の巫女で、その後神になったこと。

彼女は天祖神社に囚われていて、日々の信仰でその力を保っていること。

私も金鱗湖に囚われてしまって、ずっと独りぼっちで寂しかったこと。

聞けば聞くほど、話せば話すほど、うなき姫といる時間は、自分がこれまで一人だったということを忘れさせてくれた。

金鱗湖の上に浮かんでいる鳥居が、私たち二人を繋ぐ架け橋となっていた。

 

でもその時間は、そう長くは続かなかった。


しばらくして、娯楽や経済成長が盛んになると、だれもうなき姫の神社に参らなくなっていった。神頼みや神を慕う心は薄れていき、うなき姫も私のもとへは来なくなった。

そうやって、一人で過ごすことになった時間は、前一人だった時間よりも、ずっと長く遠く感じた。時間の鼓動を打つ長針が、スローモーションの魔法にかかってしまったみたいに。

。。_誰かと会いたかった。

。。_沢山話をしたかった。

。。_金鱗湖の外に出てみたかった。

。。_もう一度うなき姫に会いたかった。

。。_天祖神社にお参りしてみたかった。

。。_誰かとデートをしてみたかった。

。。_誰かに見つけてほしかった。

。。_誰かに存在を認めてほしかった。



。。。。。。_早く、消えてしまいたかった。



そんな時、朝霧真琴は雨露昴に出会った。

雨上がりの朝、湖の表面から白い霧がユラユラ出ている先に見える小さな鳥居を見ながら、今日も一人の時間を過ごしていたところ

                   カシャ

シャッター音が聞こえた。

振り向くと、私にカメラを向けてとても慌てふためいている男の人がみえた。

「あ、あの、ち…ご、ごめんなさい!」

…???この人は、誰に謝っているのだろう。この湖には私しかいなかったはずなのに。

「あ!さっき撮った写真はすぐに消しますから!ほ、ほら、見ててくださいね。よーし…」

??????これは、もしかして…

「みえますかっ!」

彼には何故か、私の姿が見えていた。

私はそのことに思わず叫んでしまうほどに、興奮していた。顔が赤くなっていくのは感じたけど、最後のチャンスだと思った。やっと消えることができるかもしれない。

その考えが浅はかだった。

その独りよがりな考えが原因で、昴くんにひどい思いをさせてしまった。私は何してるんだろうと思った。せっかくうなき姫に、昴くんに、助けてもらったのに。私はなんて自分勝手なんだろうと、昔から何も変わってないんだなって思うと、自分が恥ずかしくなって、情けない涙が出た。

でも、昴くんはそんな私にも優しかった。一方的に私の考えを押し付けてしまったのに、昴くんは私に微笑んで、温かいハンカチをくれた。昴くんの熱が籠もった、二度と離したくないもの。

私はその時、一生昴くんのためを思って、昴くんに思い出してもらえるモデルになろうと決意した。


彼が外に出ようと言った。

私はとても心配だった。私は金鱗湖に囚われてしまっている。外に出られるのだろうか。でも、彼とは不思議で、ずっと抜け出したかった外に出ることができた。

昴くんとデートみたいなことができて、その日は楽しかった。外はこんなにも、綺麗で美しいんだ。歩きながら、何度も泣きそうになっては、見えないように袖で擦った。なんて泣き虫なんだろう。この時間が箱に詰まって、永遠に存在すれば良いのになんて思った。

でも、彼と過ごす大切な時間の途中で、雨が降ってきた。

咄嗟に逃げ込んだ雨宿りの途中で、昴くんの体調が悪くなったみたいで、私のせいだ…と自分を非難した。ついはしゃぎすぎてしまって、昴くんのことがしっかり見れてなかった‥そんなことを思っていると、視界の端で、一人の女の子が道路に飛び出していく姿が見えた。みんなパニックで、そのことに気づいてない。私は反射的に、体が動いていた。昔の罪滅ぼしだと思ってしまったんだろうか。結局、私は一人だけ逃げ遅れてしまって、昴くんに寸前の所で助けてもらっていた。

「昴さん…なんで、私を助けたんですか…。私はもう、死んでしまっているんですよ。」

こんな足手まといな自分が、とても嫌になった。だから、こんな言葉を口走ってしまったのかもしれない。

「死んでるなんて、言わないで…」

でも彼は、私のことを思ってくれていた。その言葉で私は、もう彼のことしか考えられなくなってしまった。今まで抑えてきた気持ちが。彼に迷惑をかけてしまう、この気持ちが。

水溜りで溢れて、止まらなくなっていた。


そしてその時、うなき姫と最悪の再開をしてしまった。うなき姫は少女の姿で転生していて、声はどす黒く、あの日一緒に話した子だとは思えないほどに、彼女の体の側面に棘が何針も刺さっているようだった。

『お前も、あの男も、この町も絶対に許さない‥』

今までの妬み、恨み、蔑み、負の感情全部が詰まった声で彼女は言った。

私は彼女がこうなるまでに、何かしてあげることはなかったのか。私は何度も、時間とともに強くなる雨が響く休憩所の中で、後悔した。

「ごほっ、っごほ…」あの日から、私の体が弱くなっていっている。咳き込むほどに体が前のめりに倒れそうになり、頭がズキズキ痛んだ。体が言うことを聞かなくなっている。うなき姫が言っていた、許されざる行為に対する罰って、こういうことなのかな。私は震える手で、昴くんに手紙を書くことを決めた。

彼は絶対にここに来させてはいけない。私と同じ、またそれ以上の苦しみを味わってしまう。白い紙に、ポツポツと雫が垂れている。それでも私は、引きちぎれそうな思いで手紙を書き終えた。

後ろに病院の住所を書いている。誰かのポケットにこの手紙を入れたら、都合よく届けてはくれないだろうか。そんなことはないだろうなと思いながらも、私は人を待った。休憩所から外に出て、真琴は髪とワンピースがずぶ濡れになりながらも、誰かを待った。

雨が無常にも、強く彼女を打ちつける。

そうしてしばらく待っていると、遠くの方で年老いた老人の姿が見えた。カメラと携帯をもって、誰かを探し回っている。

「昴くーん!大丈夫かー!昴くーん!」

その老人とは、写真のことで昴に会いに来ていた、白井吟造だった。あいにく雨の音で、真琴は白井が何を言っているか分からなかったが、真琴は一目散に白井めがけて走っていった。

ハアっ ハアっ

口元に雨粒が落ちて、生臭い匂いがして、息ができないほど苦しくなってくる。

いたっ

地面を這う小枝に何度もぶつかっては、転びそうになった。

まって

足がつりそうで、手を伸ばした先に、白井吟造の姿があった。今がチャンスだ。白井は疲れたのか立ち止まっている。

真琴の手が、白井のポケットにゆっくり伸びていく。

屋根にぶつかる雨の音が、真琴の耳に届いた。

何故か少し手が引っ込んでしまう。あと数センチなのに、体が、心が言うことを聞かない。

「私が、本当に言いたいことは、こんなことじゃない…」

そう真琴は、下を向いて呟いた。自分でも、何をしているか分からなかった。でも、私はポケットからペンを取り出し、ササッと封筒の右よれに私の本当の声を書いた。


「あいたい…」

また小さく呟いて、真琴は踵を返すようにその場を離れた。

どうせ、届くかもわからないような手紙だ。そう、自分に必死に言い訳しながら。

自分の弱さを隠して。

「…ん?なんだろう、これは…。【昴くんへ。】…六道病院宛?」

その後、白井が手紙を昴の病室へ置いていったのは、

この雨の奇跡かもしれない。




逃げていき、雨を凌ぐために休憩所で時間を過ごしていると、真琴の目に映ったのは、大きな竜巻を上に宿し、水流が竜のような形になっている、金鱗湖の姿だった。

「っ…!」私は急いで金鱗湖への方へと向かった。

急がないと、全てが台無しになってしまう。またこの一体が湖になって、昔と同じ過ちを繰り返してしまう。

‥宇奈岐日女が、原型を取り戻せなくなってしまう。彼女は本当は、心優しい女神なのに。


飛んでくる草木をかき分け、金鱗湖に出ると、すぐ目の前に小さい少女の姿が。宇奈岐日女が、金鱗湖へと意味ありげに、手をかざしていた。

『ふはははは!!!この地を無茶苦茶にしてしまえ!我が湖の竜よ!!!』

「うなき姫!まってっ!」真琴は、雨と周波数が違う透き通った声を出した。

少女がぬっと真琴へと振り向く。

真琴は、宇奈岐日女のこれまで見たことないような、目の色が失われている顔を見て、愕然とした。

『なんだ。昔の契りも守らず、ぬくぬくとガキを連れて、妾の敷地をまたぎおった竜が。わざわざ、死ににきたか‥』

「ちがうっ!」

真琴の声が、金鱗湖全体を揺らす。

「あなたを、止めにきたの。」

怯えた表情を見せないように、真琴はスッパリと目を見て言い切った。宇奈岐日女の顔が怒りに満ちてくる。

『止めるだとぉ?!ふざけるなっ!この町の奴らは、妾が過去に与えた恩を忘れて、神に信仰せず生きているのだぞっ?!この盆地を作ったのは妾だ!妾を慕い、敬わない者など、生きていく価値なんて存在しないっ!だから厄災で消し去ってやろうぞ!』

「やめてっ!…この街の人はあなたをけして忘れたわけではない、現にあなたが作ったこの盆地をより良いものにしていっているのは誰?この街に住む人々でしょ?!」

『うるさいっ…うるさいっ…』

「最近はこの町でも、神社のお祭りが毎年開かれている!これは、あなたが今まで忘れられていなかった証拠じゃないの?!」

彼女の気持ちはよく分かる。彼女も、誰もお参りしてこない日々がずっと続いて、寂しかったんだ。その気持ちが、間違った方向に逃げてしまっただけなんだ。

『うるさいっ…うるさい、うるさいっ!!』

宇奈岐日女が、初めて目から涙をこぼし、どうしようもない表情で見つめてきた。

『私は、どうすれば良かったんだぁっ…。もう、手遅れになってしまった‥』

 

グわあああああああああああ


最後に呟いた自分の本音に被せるみたいに、宇奈岐日女は苦しそうなうめき声をあげた。

彼女の周りの空気が震え、草木が燃え、湖が呼応するように強大になった。真琴を、竜の姿になってしまった宇奈岐日女の風圧が押し出した。なんとか病弱な足を泥濘んだ土につけ、必死に食いしばる。

「そんな‥」彼女は竜になってしまった。多分もう、彼女には自分の意思が宿っておらず、この町を破壊することだけしか脳にない。

【「私に、少しばかり安住の地を分けてはくださいませんか。」

 「無礼者!民を困らせた竜の分際で何を申すか!」

 『_竜よ。某は、二度と民の地を侵略し、民に災厄を与えないことを誓えるな?』

 「はい。二度と、民の地を侵略しません。与えられた地を、未来永劫護り抜くことを誓います。」

 『_ならよい。お前は、この地を未来先まで護るのだ。』】

あのときの会話の、うなき姫の微笑みを覚えている。

「この地を…うなき姫を、必ず護る。」

「真琴さんっ!」

…え?昴‥くん?

ぱっと振り向く。そこには、服がぼろぼろになった昴くんがいた。

「あえたっ…。」

そう小さく言って、微笑んで

「…さよならっ。」

また微笑んで、私も竜に姿を変えた。赤い刺繍が入った竜の目には、竜には似合わない、熱くこもった涙が流れていた‥



___真琴の体がいきなり大きな赤い竜になって、対照的な青い龍と闘っている。

いきなり起こった意味の分からない光景に、昴の頭は脳震盪を起こしたみたいに混乱する。

真琴が、本当は竜?あのテレビが言っていた竜って、真琴のことだったのか?あの青い竜はなんだろう?考えれば考えるほど、燦雨と土に混じれたシャツの匂いが、昴の全身を崩していった。

ブルンブルンと、崩れていくピラミッドをもとに戻す。

今、こんなことを深く考えたってしょうがないじゃないか。いま、自分にできることはなんだ。そうこう考えているうちに、赤と青の龍の戦いは激しさを増していった。

互いの尻尾が巻きつき合い、解れて、また絡まる。青い龍が首元に鋭い速さで噛みつくと、赤い竜は苦しそうな表情と、うめき声を出しながら、青い龍に反撃と言わんばかりに噛み付いた。その、持ちつ持たれつの肉弾戦を見ていると、こちらまで苦しくなってくる。

ガサンっ! 赤い竜が麓の林に身をなだれた。皮膚の鱗がえぐれる鈍い音がする。それでも、赤い竜は威嚇するように、自分を鼓舞するように金切り声をだした。

「だめだっ!」そのなんとも痛々しい姿に、昴は思わず声が出てしまう。

「だめだっ。だめだっ。やめてくれ。もういい。お願いだ、もうやめてくれっ!」

一度出した弱気な言葉は、真琴の心を揺さぶっていることも気づかずに、ポロポロとこぼれ落ちていく。

「真琴さんっ!もう、頑張ったから!もう、頑張らなくていいからっ!もう、やめてくれ…」弱い言葉が、自分までをも弱くしていくようだった。喉に詰まった気泡が、自分の呼吸を塞いでくる。

本当に自分が真琴さんに伝えるべき言葉はこれなのか?こんな弱い言葉を連呼して、真琴さんを動揺させてるだけなんじゃないか?

…でもっ、でもっ…


ウオオオオオオオオっっっン!


その時赤い竜、真琴が、ひときわ大きな声を出した。そうしてまた自分に勇気をいれたみたいに、青い龍に噛みつくように向かっていく。何度もぶつかっては崩れ、ぶつかっては崩れ、投げ出され、皮膚が剥かれ、鱗がゴリゴリとれ、それでも真琴は向かっていった。

昴はただその光景を意識が失ったみたいに見ていた。冷たい雨が降っているのに、真琴は何度も熱く向かっていっている。

…自分は、自分ができること。一人必死に、この異常気象を、竜を、この町を、

金鱗湖を。

守っている真琴に、自分が言えること。言うべきこと…

「…っ、う、っ」

「がんばれぇっ!!!!!!!!」

昴は目に涙を沢山に溜めながら、大きな声で叫んだ。雨だというのに、昴の声は違う周波数をもっているみたいに、真琴の耳にも届く。

「がんばれ!がんばれ!がんばれぇ…がんばれっ……」

昴の縮こまるほどの声も、真琴の耳に届く。

_昴くんが、私を応援している。

それだけで、真琴は最後に何倍もの力を振り絞った。

「いけええええええええっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!……‥…。」


クワアアアアアアアアアアアアアアアアンンンン


最後の叫びとともに、両体の竜は、それぞれ違う方向に倒れていった。

「真琴さんっ!」昴は咄嗟に、真琴が倒れた方向へと向かう。靴の波打つ音が、金鱗湖全体に反響した。

カーブを曲がると、深い霧の隅っこに、いつも来たとき彼女が何かを見ていた場所に、真琴が倒れ込んでいる姿を見つけた。

足跡を加速させ、真琴に急いで駆け寄る。

「真琴さんっ!大丈夫ですかっ?!」

「う、うん、ごほっ…」真琴が咳き込んだ姿を見て、昴は真琴の腰を支える。

心配そうに覗き込む、昴のレンズに映った真琴の姿は、とても弱々しく見えた。

「いって…」

「え?」

「私の元じゃなく、もうひとりの方へ行って…。」

「‥え‥なん、で…」

困惑する昴の肩を、真琴は力の入っていない、軽くなった手でがっしり掴む。

「あの子も、とても大事な人だから…あの子もずっと一人ぼっちで、寂しかっただけなんだと思うから…」

「いや、でも、真琴さんがっ…」

「行って!」真琴は力いっぱいそう叫んで、昴を突き放した。真琴に触られた肩のほうが、冷たく青い気を纏っていた。

昴は何も言わず、もうひとりの方の竜の方へと向かっていった。

湖をぐるっと回ると、湖の中心部分で、今にも濁流に飲まれそうな少女の姿を発見する。

昴は迷いなく荒れ狂う、湖に飛び込んだ。水の流れが円を巻いて、中心にあるブラックホールに吸い込まれていく。息継ぎをすると、何度も苦くて臭い、泥水が入ってきた。呼吸が困難になる。それでも昴は足と手を動かした。

少女に近づいて、そのまま少女の右手をとる。本当はこの手を投げ出したかった。真琴さんを傷つけた手を、この子を、助けたくなんてなかった。でも、彼女がこれまでに見せたことのない、必死な表情を見せたので、昴は必死に少女を助けた。

何があったかは分からないけれど、自分が今真琴さんのためにできることはこれだ。そう、自分に言い聞かせた。

助けた少女を、安全な小屋の中に入れて、昴は真琴の元へと走って戻っていく。

戻ると、真琴は錆びれた木の手すりを掴んで、そしてそのままうつ伏せになって倒れ込んだ。

「真琴さんっ!」

昴は必死に駆け寄って、その体を全身で支える。そして、平たい地面の上へそっと置いた。

「すばる、くんっ…」

昴を呼ぶ声が、しわしわになって薄れていた。その代わり、真琴は少し動ける手を、昴のもとへと伸ばした。

昴はさっと、その手をとる。彼女の手は冷え切っていて、重さを感じなかった。

「すばる、くん。」昴を呼ぶ、真琴の表情が少し穏やかになる。

「あった、かいね‥。」弱々しく、真琴は皺を作って微笑んで、

「うんっ。うんっ…」昴は、声が涙で喉に詰まって、相槌しか打つことができなかった。その代わりに、真琴の震える手を、優しくギュッと抱きしめる。

雨は強さを和らげたが、まだ空の下で手を握り合う彼らには、冷たい雨が流れ落ちていた。

地面に当たる、それぞれ違う長さや音階、痛みをもった多種多様な雨が、二人の雨の世界を作っていく。小鳥の囀りを。木々の風で揺れる音を。町の喧騒を。

全て雨が包んでいた。

「わたしっ‥やっと、成仏できるんだよね…?やっと、もう、寂しい思いをしなくてすむんだよね‥?」

「う、んっ…‥」

「ずっと‥昔からわたしは、ひとりぼっちだった‥話し相手がほしかった‥でも、全ての命が、わたしを、かくすのっ…」

「うんんっっ…」

「とても、さみしくて…わたし、なんで生きてるんだろうって…早く、天国へいきたいなっておもったの…‥」

「…うっ…ん。」

「だから、消えることができて、やっと、天国へ行けて、わたし‥しあ‥」

「‥………わせなんかじゃないよぉっ…」

全てを吐き出してしまったかのように、最後の力を振り絞ったかのように、地面で音を奏でる繊細な雨粒の中、真琴はこれまでで一番の涙を流した。

「うわあっ…うわあっああああ…」

その涙は、梅雨に突然降る豪雨のように、真琴の顔を次々とつたっていった。

昴は歯を食いしばって、自分が泣いてしまうのを止める。

「…わたしっ、昴くんに会って、まいにちが色づいてくみたいだった…。」

「これまで色がなかった世界が、あなたのフィルムからみると、全ての世界が七色に見えてっ…とても、すてきだった‥。」

「ずっと、この時間が続けばいいのにってはじめておもった。

一緒にずっといたいって、はじめておもった。

きえたくないって、はじめておもった。

…昴くんが、わたしに沢山のはじめてをくれたのにっ‥いま、わたしっ、きえてしまうなんて……‥一番しあわせなときに、きえちゃうなんて……」

「‥いやだよぉっっ…‥。」

そう言って、真琴は昴を握っている手を、自分のおでこへ近づけ、何度も荒い呼吸を繰り返した。昴も、これまで詰まっていた本当の思いが、喉の気泡を突き破って出てくる。

「ぼくもっ…いやだっ…。ずっと、ずっと、一緒にいたい‥君の写真を、また撮りたいっ‥‥」

真琴はその声に反応したのか、昴の手を離し、そうしてポケットを探り始めた。

白いワンピースの縁から、真琴が取り出したのは、あの赤い刺繍が入ったハンカチだった。いつも撮影の終わりに手渡していた、証明代わりのハンカチ。真琴さんとの明日を繋ぐ、赤いハンカチ。色は薄く汚れて消えかかっていたけど、赤いカーネーションの刺繍は形を保っていた。

「…すばる、くんっ。これ、返すね…。わたし、また待ってるから。」そう微笑んで、真琴は昴にハンカチを握らせた。手が触れたときに、真琴の冷たい体温がつたわってくる。もう、息が切れそうだった。

それでも、真琴は笑顔で微笑んできた。僕の泣きじゃくった頬を、撫でるように優しく触る。

「すばる、くん…。」

「まこと、さん…。」

真琴は最後に、弱々しく微笑んだ。

「ふふっ…。わたし、恋がしたかったんだね。」

その言葉を最後に、昴の頬をつたう、真琴の表面の力がなくなっていき、

ゆっくりと、目を閉じた。


          ‥ぼくはっ‥‥一目惚れ、ですよ…。


_雨が、徐々に勢いをなくしていって、雲が晴れ、

予想通りの、夏が訪れた。


*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 


雲ひとつない青空。

一ヶ月前に、歴史的な大豪雨が襲ったとは考えられないほどの空の下。

「久しぶりだよね〜雨露昴の写真展。」

「二年ぶりだっけ?突然活動再開するなんて、何か良いことでもあったのかしら。」

豊かな緑と、緩やかに流れる小川に挟まれた、小さな趣のある古民家の美術館で、雨露昴写真展は開かれていた。

金鱗湖から少し離れたところにあるその美術館は、金鱗湖にきた観光客の憩いの場として、静かに賑わっていた。

「ねえねえ、なんでこの写真展のテーマは『写真』なんだろう。そりゃ、写真だけどさ〜。もっと伝えたいこととかなかったのかな。」

「ん〜、取り敢えず中に入ってみましょう?」

靴を脱いで床に上がると、一気に木材の年季の入った匂いが口いっぱいに充満する。

「わー。きれい…」

「…うん。とても綺麗ね。」

日本家屋の壁に、ある程度感覚を保って、金鱗湖周辺の風景写真が飾られていた。

幻想的な雰囲気をもつ金鱗湖を撮ったもの。

新緑に囲まれている小橋を撮ったもの。

一つだけ電球が光っている休憩所を撮ったもの。

暖かい光に包まれたカフェを撮ったもの。

その他色々な写真が、3室の日本間に映し出されていた。

「でも‥なんかちょっと不思議な感じがしない?」

「不思議って?」

「うーん。なんか、この写真には誰の姿も写ってないのに、誰かそこにいるような。そんな不思議な感じ。」

「…うん。あたしも、同じこと考えてた。」

「やっぱり?!」

写真の中には、明らかに風景にピントがあっていないものが時々あるが、その写真も他と同じように飾られていた。

「…だから、『写真』なのかしら。」

「え?どういうこと?」

「きっとこの人は、この写真の奥にある、”誰か”の存在を、感じてもらいたかったんじゃないかしら。でも、何も感じ取れない人はただの”写真”にしか見えない。きっと私たちが何かを感じ取ったこの瞬間から、この写真展には『名前』がつくのよ。」

「えー、よく分かんないなあ‥」

「嘘でしょ?!あたしの説明、そんなにわかりにくい?」

「うふっ、うんうん。分かりにくい!」

「えー…」

たった十日間だけ開かれた、昴の写真展は大きな話題を呼び、『不思議なカメラマン』としての二つ名が、世間に蔓延った。




それから、秋が来て、冬が来て。幾年かそれから経って、また、冬が来て。

昴は久々に、元居た家に帰ってきた。

昴はこれまで、全国や世界をひたすら飛び回っていた。そしてそこでファインダーを覗き込み、ゆっくりとシャッター音を鳴らす。

そんな日々が何年か続いて、やっと久々にここへ戻って来れた。

カメラの点検が終わると、昴は無邪気な子供のように玄関を飛び出す。

テレビはまだ、放送が開始されていなかった。


「昴くん。君は少し無理していないかい?こんな時ぐらい、休んでも良いんだよ?」

「…大丈夫です。僕、あの日約束しましたから。」

「もう何があっても、ずっと写真を撮り続けるって。」

信号待ちをしている最中、あの日の会話を思い出していた。

昔、こんなことを先生から言われた気がする。

『せんせぇ〜、ぼくはぁほんとに、カメラやっててよかったですぅ…うわあああ』

『あーあ、また泣いちゃいましたよ昴くん。先生、どうにかしてください。』

『そうだねえ、昴くん。君はね…』


         ”誰かのための、カメラマンになりなさい”


「…先生があのとき言ってた、本当の意味ってこういうことだったのかな‥」

信号が青に変わり、誰も向かってこない横断歩道を渡る。どうやら昨日は、雨が降っていたらしい。ガードレールの隙間に、水溜りが所々存在している。

昴は一眼レフカメラを手にギュッと握りしめて、その横を通り過ぎた。

昴のジーパンのポケットには、赤い刺繍が入ったハンカチが綺麗に折りたたまれていた。



金鱗湖前の、小枝の大きなカーテンにたどり着いた。夏までは、この枝一つ一つに、新しい緑がついていたのに‥。昴は少しアンニュイな心持ちになって、その道をくぐり抜ける。

踏みつける木の感触が、とても懐かしかった。

金鱗湖の端が見えてきて、昴はさっとカメラのファインダーに目を近づける。

木々が晴れていくと、その先に見えたのは、

淡い霧が包む金鱗湖だった。

「…!」

そのあまりにも幻想的な姿に、昴は思わずカメラを下に下げ、肉眼で見る。

秋〜冬の早朝。年間を通して水温が温かい金鱗湖で偶然起きる、湖から湯気のように白い霧が立ち込める『朝霧』と言われるこの現象。

それをわざわざ撮りに来たはずなのに、その名前を思い浮かべると、目の奥が緩みそうになる。

その気持ちを紛らわせるように、カメラをもう一度覗き込んだ。

あの瞬間、誰かがそこに立っていたところに、そのままカメラを向けた。

その瞬間、ファインダーの奥に、誰かが立っているようなそんな感じがした。

その人物は、こちらに気づいたのか、ゆっくりと自分の方へと振り向いてくる。

焦点にあった彼女の表情は、笑顔だった。

               

              カシャ


_雨上がりの朝、僕は君を写真に写した。

 

Fin~





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写真 空一 @soratye

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