後編 雨の日は観覧車に乗って。

 ……外はいつの間にか雨が降っていた。


 父親が車の準備をするあいだ、私は自宅の玄関前で待っていた。通りに面した自分の部屋を見上げ、窓を閉め忘れていないか確認する。


 新興住宅地の一角に位置する我が家。五年前に同じ場所で建て替えをしている。それまで私は華蓮かれんお姉ちゃんと相部屋だった。新築とともに初めて一人の部屋が出来て、当時小学四年生だった私は本当に嬉しかったことをよく覚えている。ちょうどファッションに目覚めた年頃で部屋を大人っぽく彩りたかった。それまであんなに集めていた可愛いぬいぐるみたちが急速に子供っぽく思えてしまったんだ……。


『……華鈴かりん 雨に濡れるぞ』


 言葉少なに父親から傘を差しかけられた。大量の水滴が透明なビニールの表面を流れ落ちる。傘を持つ父の大きく伸ばした右手、まるで今の私たち親子の距離感みたいだ……。


『……お父さんの上着がびしょ濡れになっちゃうから』


『雨の日のお出迎えは慣れてるよ、お前は気にするな』


『華鈴はお父さんの自動車ディーラーに新車を買いに来たお客様じゃないから無意味だよ……』


『……ああ、そうだったな』


 そう言って父親は営業スマイルを浮かべた。何十年も仕事の現場で身についた癖はなかなか抜けないといつも言っていたことを思い出した。良く母親や姉から指摘されてもやめない父親の癖だった。ほらまた車の助手席に乗り込もうとする私を制して、うやうやしい態度でドアを開けてエスコートするんだ。私の頭上に手をかざして配慮する仕草もワンセットで……。


(華鈴はお父さんの大切な宝物だからな)


 ……いつからだろう。父の私に対する言葉や態度がうとましく思えたのは。


 久しぶりに助手席から父親の横顔を盗み見る。刻まれたしわの数は増えたが小学校のころの授業参観では私の自慢の父だった。長身のスーツに身を包んだ姿は娘の贔屓目ではなく、友だちからもかっこいいお父さんと毎回言われていたから。


 そんな父親が小学校まで私は大好きだった。褒められたい一心で勉強も頑張ったな。だけど私が変わったのは中学に入学して仲良しの女の子から言われた何気ない言葉に傷ついたから……。顔も几帳面な性格も父親に似すぎじゃないと指摘され、そしてお父さんが好きだと言って気持ち悪がられたことに激しいショックを覚えてしまったんだ。


(それはありえないよ。普通は父親なんて家で一番ウザい存在だから……。もしかして華鈴ちゃんって、まだ一緒にお父さんとお風呂に入ってたりして!!)


 友だちから言われたきつい冗談ジョークがずっと私の頭を離れなかった。これまでの父親との間に築いてきた良い関係が一気に真逆に思え、気持ち悪くて仕方がなかった。これが思春期の反抗と言うなら私はなんて暗示に掛かりやすいんだろう。世間一般の女子中学生は父親が嫌いっていう単純な暗示に……。


『……華鈴。足元の暖房は効いているか、今日は寒いからな』


『う、うん、大丈夫だよ。ちょうど良いくらい』


『そうか……』


 座る座席の違いはあるが、いつもならここで会話が終わる。


 でも今日の父は違ったんだ。


『華鈴、少し昔話をしていいか? お前にとってはつまらない話かもしれないが』


『……別に構わないよ』


『ああ、ありがとな。昔々、いや、それ程でもない昔かな。あるところに平凡を絵に書いたような男の子がいたんだ。彼はとても将来に悩んでいた。取り柄のない自分に何が出来るのか? 勉強もスポーツもそこそこで趣味と言っても何も誇るものはない。そんな少年が恋をした。一目惚れだった。相手はクラスで一番可愛い女の子、もちろん叶うはずのない恋だった……』


『……なにそれ、何かのドラマの話とか』


『華鈴、まあ慌てるなよ。話の続きはこうだ。男の子は相手の女の子が夢中になっている存在を偶然知ることが出来たんだ。彼女は当時流行っていたロックバンドのギタリストの大ファンだったのさ。そして少年はこれまで貯めた貯金をはたいてを手に入れたんだ……』


『ある物ってギターだよね? もしかしてその男の子って……』


 お父さんじゃないの!? そう言い掛けて私は口をつぐんだ。今この話をする意味はそれだけじゃないはずだ。


 車は市街地に差し掛かった。せわしなく動くフロントワイパーの向こう側に信号機の赤が滲む。


『この交差点に信号機が出来てからもう五年だな。あれは本当に痛ましい事故だった……』


 そうだ、この交差点で悠里ゆうりのお母さんは亡くなった……!!


 悲しみは時間ととも風化する事実に私は愕然とした。だけど彼はまだ深い悲しみの淵に沈んでいる。あれほど明るい太陽みたいな彼の笑顔を奪ったまま……。


 私の中で勝手な想像がどんどん膨らむ、もし父親がその昔話の少年だとしたら恋をした女の子って、もしかして亡くなった悠里のお母さん!? いやそんなことはありえないか……。


『華鈴、人は何かを変えたいときに自分の中に存在しない物を手に入れたくなるんだ。そう、今の悠里くんみたいにな』


『……どうしてお父さんは悠里が毎晩ギターを練習していることを知ってるの!?』


『これは悠里くんには言わないで欲しいんだか。 彼が毎晩弾いているのは元々お父さんが初めて買った古いギターの音色ねいろだから……』


 父親の話は驚くべき内容だった。悠里の家とお隣同士で家族ぐるみの付き合いなのは知っていたが私の父と悠里のお父さんは、幼馴染で学生時代はバンドを組むほど仲の良い親友同士だったことを知った。そして父親が初めて買ったギターを含めて手持ちの機材を悠里のお父さんに譲り渡したことを聞かされる。これまで無趣味の仕事人間だとばかり思っていた父親の意外な知られざる側面だった……。


『……どうしてお父さんはそんなに好きだったギターを手放したの?』


『ああ、それか。最愛の人を失ったには必要な時期だったんだ。支えになる何かが、たとえそれを弾かなくてもいいんだ。傍らにあるだけで気持ちが落ち着く安定剤みたいなものなんだよ、楽器ギターって存在は……』


『あいつ、って悠里のお父さんのことでしょう』


『……そして悠里くんの支えになってくれるとは本当に予想外だったけどな……』


『お父さん、今の悠里にはギターが支えなのかな?』


『案外それだけじゃないかもな、男の子って奴は昔から単純なものさ。ギターヒーローを目指したら女の子にモテるんじゃないかって不純な動機で楽器を手にするのは鉄板だからな……』


『悠里が女の子にモテたいって!? いったい誰に!!』


『華鈴、嫌がると思ってかウチの女性陣はお前の居るところで禁句にしているけど、悠里くんとのことくらい俺の耳にも入っているよ』


『もうっ最悪!! 昔からお父さんのそういうところが……』


『……やっぱりウザかったか?』


 なぜ私はこれほどまで家族に気を配ってくれる父親のことがあんなに疎ましかったんだろう?


 そして悠里が立ち直る切っ掛けまで与えてくれたのに……。私はこれまでの五年間、いったい何をしていたのか。頭の中がぐるぐるとフラッシュバックのように過去の記憶が浮かんでは消える、悲しい記憶だけでなく楽しかった思い出まで……。


『ねえ、お父さん。今度は華鈴の話を聞いてくれるかな? 子供のころ連れて行ってもらった近所の遊園地の話。ちょうど今日みたいな雨だった。お父さんのお仕事は土日が休みじゃないから家族全員で出かける機会は本当に少なかったよね……』


『ああ、よく覚えているよ。華鈴と平日の夕方に遊園地で観覧車に乗ったな。お前はとてもはしゃいで、雨の観覧車で景色が悪くても大喜びだったよな』


『そうそう、観覧車が上まで行かないうちにお父さんの膝の上で爆睡しちゃったし……』


 晴天の日なら普段は遠くに望む富士山まで良く見渡せる観覧車。その日は曇天で観覧車の窓からの景観は最悪だったはずだ。だけど私の記憶の中では最高の想い出として今でも鮮やかに蘇ってくる。あれほど嫌っていた父親の煙草の匂いと一緒に……。でも今は不思議とその匂いが不快ではなくなっている自分に驚いてしまう。まるで心の中に降り注いでいた霧雨が止むように。


『……ねえ、お父さん。観覧車から降りた後のこと覚えているかな。華鈴がゲームコーナーのUFOキャッチャーで、白いわんこのぬいぐるみをおねだりしたよね』


『もちろん覚えているよ。お父さんはUFOキャッチャーが下手くそで遊園地の入場料より高い金額をつぎ込んで、やっと小さなぬいぐるみを一個だけ取れたな』


『あの白いわんこのぬいぐるみ、華鈴の宝物だったんだよ。でも新築の家に移ったときに処分しちゃった……』


 そうなんだ、自分専用の部屋が与えられたときに、子供っぽいぬいぐるみは全部処分してしまったんだ、あのわんこのぬいぐるみも一緒に。何であのころの自分は簡単に宝物を捨ててしまったのか? 捨てたのはぬいぐるみだけじゃない。胸の奥がチクリと傷んだ……。


『……華鈴、足元のグローブボックスを開けてごらん』


 過去への後悔と自分への情けなさで、ない交ぜになった感情に包まれる。父親の言葉に従ってうわの空で助手席のグローブボックスの扉を開いだ。同時に白い物体が転げ落ちてくる。慌てて掴んだ私の指先に触れる優しいもふもふした感触、この手触りは!?


『……あのときの白いわんこのぬいぐるみ!? 処分したはずなのにどうしてここにあるの!!』


 驚いて思わず父親の顔を凝視してしまう、バンザイをしたポーズの白いわんこのぬいぐるみは少しも汚れていない。直射日光に当たらずグローブボックスで保管されていた様子だった。


『……お前がいちばん大切にしていたぬいぐるみだったから、処分を頼まれた華蓮がお父さんに内緒で預けてくれたんだ』


 このぬいぐるみを華蓮お姉ちゃんが!?


『いつの間にかお父さんのお守りがわりなってしまってさ……。こんなところもお前にウザかられるよな』


『お父さん、今日、私を外に連れ出したのはお母さんと華蓮お姉ちゃんのさしがねでしょう?』


『……速攻でバレたか。別に家に帰ってもいいんだぞ。お父さんと一緒はつまらないだろうから』


『ううん。華蓮、お父さんとあの遊園地に行きたいな。そして観覧車に乗って今回は一周眠らないの』


『その後は美味しいものを食べたいんだろ』


『お父さん、合格だよ。娘の気持ちが良く分かってきたじゃん!!』


『これからもお手柔らかに頼むよ。ただでさえ我が家は女性陣が強くてお父さんは肩身が狭いんだから……』


『私は華蓮お姉ちゃんと違ってまだ中学二年生だから、すぐにお嫁に行かないから安心してよ。あっ、でも煙草を減らすのはいい心がけだよ。今日のお父さん、あんまり煙草臭くないもん。すぐに分かったよ!!』


『華鈴はそこまでお見通しか、相変わらず鼻がいいな。そうだな、お前が嫁ぐまで健康な身体でいたいからお父さん、今日から煙草を減らすのを頑張るよ』


 そう言って父親は営業スマイルではない本当の笑みを浮かべた。


 こんなふうに父と娘で笑いあえたのは本当に久しぶりだ。私は手に持った白いわんこのぬいぐるみをそっと顔に寄せてみる。


 グローブボックスという名の宝箱にしまい込んでいたぬいぐるみはとても懐かしい匂いがした。


 それは安心出来る父親存在の匂いと同じだと私はやっと気がついたんだ……。


  ──────────────────────────────────────


 ※この短編は下記連作の二作目になっております。



 それぞれ単話でもお読み頂けますが、あわせて読むと更に楽しめる内容です。


 こちらもぜひご一読ください!!


 ①【あなたの顔が嫌い、放課後の教室で君がくれた言葉】  

  https://kakuyomu.jp/works/16817330653919812881


 ②【私の大好きだった今は大嫌いなあの人の匂い……】  

   本作品


 ③【私の嫌いを見逃してくれたあの日から、つないでいたい手はあなただけ……】

  https://kakuyomu.jp/works/16817330654109865613


 ④【真夜中は短し恋せよ中二女子。あなたのやりかたで抱きしめてほしい……】

  https://kakuyomu.jp/works/16817330654178956474


 ⑤【好きな相手から必ず告白される恋のおまじないなんて私は絶対に信じたくない!!】

  https://kakuyomu.jp/works/16817330654262358123


 ⑥【ななつ数えてから初恋を終わらせよう。あの夏の日、君がくれた返事を僕は忘れない……】

  https://kakuyomu.jp/works/16817330654436169221


 ⑦最終話【私の思い描く未来予想図には、あなたがいなくていいわけがない!!】

  https://kakuyomu.jp/works/16817330654490896025

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私の大好きだった今は大嫌いなあの人の匂い……。【KAC20232】 kazuchi @kazuchi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ