ぬいぐるみトライアングル

lager

ぬいぐるみ

「ねえクミちゃん、ちょっと食べてきてよ」

「はい?」


 安物のちゃぶ台を挟んで晩酌をする友人に、私は自分でもアホなことを言ってるなと思いつつ提案してみた。

 景虎の一升瓶はそろそろ底に届きそうで、クミちゃんの頬も赤く染まっている。和風な美人の酔い顔は、はっきり言ってエロい。


「何をです?」

「マー君を」

「ぶっ飛ばしますよ」


 私の真下の部屋に下宿している学生くんは、このおんぼろアパート『くわがた荘』の人気者だ。真面目で慎み深く、適度にノリがよくて、実にからかいがいがある。それまで、しけた面のリーマンと汗臭いジジイとド級のシスコンと本の妖怪しかいなかったこのアパートの中で、私にとっての心の清涼剤だ。


「だったらこんなおばさんに襲わせないでくださいよ」

「ネタがないのよー」


 私の仕事は官能小説作家だ。

 昔馴染みの作家仲間が名義を変えて一般小説を書いたりラノベを書いたりエロゲのシナリオライターを兼業したりしている中で、頑なに官能小説一本で生計を立てている。別に意地とかプライドとかではない。他に書けるものがないのだ。

 今は次回作に向けた準備期間中で、次の打ち合わせに持っていくプロットのネタを練っているところである。


「じゃあナオ君とマオちゃんに取材するとか」

「あれはエロじゃないわ。グロよ」

「確かに」


 というか、取材するまでもなくあの兄妹のイチャイチャっぷりなら毎日のように見せつけられている。

 今日だって――。


『これ、デート中にクレーンゲームに熱中してしまって、勢いで取ってしまったんですけど。ウチには置く場所がないので、よかったらどうぞ』


 そういって、マオちゃんは私に50センチ程はあろうかというサイズのぬいぐるみを押し付けてきたのである。それは、初めて見るような、どこかで見たことがあるような、なんとも不思議な外見をしていた。


 まず角が二本生えている。

 口元は嘴のような形をしていて、頭にはエリマキトカゲみたいなトサカがついている。

 体は寸胴で、淡い緑色。四つ足で、尻尾は短い。

 何かのゲームのキャラクターだろうか。


『ねえ、マオちゃん。これなんて名前? 怪獣かなにか?』

『さあ……?』

 

 きょとんと可愛らしく首を傾げられても、私も困る。

 しかし、その後ろで『え……?』と驚いたような声を出したのは、兄のナオ君だった。


『トリケラトプスですよ。シズクさん』

『トリ、なんて? 何かのキャラクター?』

『ええっと、キャラクターっていうか、恐竜なんですけど』

『流石お兄様! 物知りなんですね!』

『……ねえナオ。ホントに知らない? トリケラトプス』

『私が知っているのはお兄様のことだけです』

『そうだね、ごめんよ、マオ』

『いいんです、お兄様。ではシズクさん。そういうことですので』


 そういうことってなんだよ。

 私がトリケラなんちゃらを持て余しているうちに、兄妹はがっしりと腕を組み合って二人の愛の巣へと引きこもってしまった。

 本当に、部屋が隣でなくてよかったと心から思う。


「それがあれですか?」

「そう。あれ」


 結局仕方なしに受け取ってはしまったものの、どうにも置き場所に困り、取りあえず背の低い本棚の上に飾っているのである。マドンナ文庫の背表紙の上に鎮座する恐竜のぬいぐるみ。ううん。シュルレアリズム。


 ただ、このぬいぐるみに関して、私は一つ腑に落ちないことがあるのだ。

 その後しばらくして、マー君が帰ってきたことが分かった私は、下に降りて試しに聞いてみたのである。これが何の生き物かわかるか、と。

 そうしたら――。


『え。トリケラトプスですよね? いやなんで知ってるのって……普通知ってるでしょ。ええ? 知らないんですか? え? 本気で言ってます?』


 まるでこちらが非常識であるかのような反応をされたのだ。

 納得がいかない私が女友達三人に写真を送って聞いてみると、全員が『知らない』との返答だった。ううん。この差は一体なんなのか。


「ねえ、クミちゃんは知ってた、トリケラトプス?」

「んん~。名前は聞いたことあるような。多分あれです、私、兄がいたんで」

「なんでお兄さんがいると知ってるのよ」

「男の子って恐竜とか好きじゃないですか」

「そうなの?」


 確かに言われてみれば、知っていると答えたのは二人とも男で、知らないと答えたのは全員女だ。


「シズクさん。そういうところじゃないですか?」

「なにがよ」

「だから、シズクさん。官能小説作家なのに男に詳しくないじゃないですか」

「はあ!?!?」


 なんばいいよっと!?

 こん小娘が!!

 恐竜の名前ば一つ知らんでそげん言われなあかんと!?


「だから~。なんでもかんでも人の知識に頼ってないで、自分で実体験積みに行けばいいんですよ」

「あ。あ~。そういうこと言うんだ。へぇえそうなんだ。あ~あ。ヘラっちゃおっかなぁ~。唐突にヘラっちゃおっかな~」

「うわぁめんどくさ~」

「家賃も滞納しちゃおっかな~」

「それは許しませ~ん」


 その後も女二人の酒盛りは続き、私はプロット案を練ることもなく寝オチしてしまったのだが、クミちゃんのセリフは地味に私のハートを傷つけていた。

 男に詳しくない。

 やっぱりそうなのだろうか。

 別に男性経験がないわけじゃない。

 そりゃモテるタイプではなかったけれど、お付き合いをした男性だっていないわけじゃない。


 まあ、何も言わずに自分が書いた官能小説を彼氏の部屋に置き、彼がそれを読んだのを確認した上で『実はそれ書いたの私でーす』とサプライズをしたところ翌日に別れを切り出されたのだが。一体なにがいけなかったのか、いまだに答えは見つかっていない。

 あの野郎。しっかり使ったくせに。


 ただ、ここのところ執筆に行き詰まることが多くなってきたのも事実だ。

 なんというか、昔は思いつくまま、いくらでも小説が書けた。自分の理想と妄想と欲望を全て紙の上にぶつけて、飽きることなく書き続けることができた。

 しかし、プロの作家になって、きちんとした編集を受けて、人と相談して小説を書くうち、何かが自分の中で変わっていったのを感じた。


 伏線だとか、章立てだとか、流行りだとか、コンプライアンスだとか、レーベルカラーだとか、ただ官能シーンを書く、それだけのために気にしなければいけないことがどんどん増えていった。

 自分の中で、何かが目減りしていくような気がしていたのだ。

 それが尽きたとき、自分の手は、もうどんな小説も書くことができなくなるような気がして、恐ろしかった。


「経験、かぁ」


 だからといって、今から婚活パーティ始めるのもなぁ。

 あれは戦争だ。生半可な気持ちで臨んだところで、戦死ならぬ爆死をするだけである。

 どうにも気分がくさくさした私は、運動不足解消も兼ねて散歩に行くことにした。


 ショッピングモールの中には、休日の昼間ということもあって人がごった返していた。

 カップル、友達、夫婦、おひとり様、親子、その全員が一人一人違った人生を歩んでいて、それでいて全員がどこにでもいそうな顔をしている。

 彼らに叫びたい。あなたたち全員、両親がエロいことして生まれてきたんですよ、と。


 梶井基次郎の檸檬より下らない妄想に浸ってぶらぶらと歩いていると、ふとファンシー雑貨の店の前で足が止まった。

 ぬいぐるみがカゴ売りされていたのである。

 なんとなく手に取って見れば、ちょうど昨日譲り受けたトリケラトプスと同じくらいのサイズだった。ただ、全体的にそれよりはシュっとしたフォルムをしている。頭も小さいし、尻尾も長い。四つ足なのは同じだが、背中に何枚も菱形の板のような突起がついていて、それこそ怪獣のようだった。


 これも何かの恐竜なのだろうか。

 色は薄いオレンジ色で、タグを見てみれば、小さくステゴサウルスと書かれている。恐らくはこれがこの生き物の名前なんだろう。

 私は自分でもよく分からない衝動に駆られ、気づけばこのぬいぐるみをレジに持ち込んでいた。


 家に帰りトリケラトプスの横に並べて置いてみれば、淡い色合いの緑とオレンジでバランスがいい。

 両者のフォルムの違いも対照的で見栄えとしては上出来だった。

 なんだか良い買い物をしたような気がして俄かに機嫌がよくなった私は、年甲斐もなくぬいぐるみに話しかけていた。


「ねえ、君たちはどこから来たの?」

「白亜紀の岩塩層からさ」

「まあ、塩漬けになってたの」

「背中のヒレ、食べてみる?」

「やめろよ。僕以外のやつに食べさせるなんて」

「なに言ってるの。あなたとの関係はもう終わったでしょ。その角でいつも私をいじめて」

「勝手に終わらせないでくれ。僕には君がいなくちゃいけないんだ」


 ああ、喪女もここに極まれり。誰かに聞かれたら恥ずか死に間違いなしの声が私の喉から迸り、奇妙なキャラクターと化した二頭の恐竜の語らいが始まった。


 そして、それが私の記憶の扉を開いた。


『だからね。ちいちゃんはお母さんで、ひいちゃんはお父さんの昔のコイビトでね、私はお父さんに片思いしてるミボウジンなの』

『シズクちゃんのおままごとメンドクさいよ~』


 遥か昔。まさにお人形遊びをしていた幼い日の自分。

 ぬいぐるみに設定を与え、ストーリを仕立てて友達に役を強制しては嫌がられていた。

 そうだった。

 そうだ。私は昔から、自分の道を行く子供だった。

 人に避けられ、疎まれても、自分が好きなものを追い求める人間だった。

 思えば、自分でお話を考えるという行為の原点は、あの日のお人形遊びにあったのではないだろうか。


 つぶらな瞳が二対、私を見つめていた。


「ねえ。私、まだ小説書けるかな」

「書いてみればいいんじゃない」

「だよね」


 ネタなんて要らない。経験なんて必要ない。そうだ。全ての物語は私の中にある。

 自分の中に、泉が湧いてくるのを感じた。


 パソコンを立ち上げ、執筆アプリを立ち上げる。

 物語の設定を書き散らし、キャラクターの設定を書き散らし、シチュエーションを書き散らし、プロットを作っていく。時折我慢できずに文章も書き連ねていく。

 どんどん文字数が増えていく。

 理想が形になり、妄想が暴れだし、欲望が溢れていく。もっと自由に。もっと私らしく。

 打鍵する指の動きさえもどかしく、情動が先走る。


 そうだ。


 こんな楽しいこと、やめられるわけがないじゃないか。

 いつまでだって、私は小説を書く。

 書き続けてみせる。


 夜が更けていった。



 そして、週が明け。

 山のように膨れ上がった何種類ものプロット案と草稿を持ち、意気揚々と編集担当に手渡した私は、久方ぶりの手応えを感じていた。さあて、今回はどのプロットが通るかな。アレにしようか。コレにしようか。

 私の様子が常と違うことを察したのか、緊張した面持ちで書類の束をめくる担当さんは、一通りに目を通すと、居住まいを正して私に告げた。


「シズクさん」

「はい」

「全部ボツです」


 …………クソが!!!!!!!



 その後、提出したプロットは伏線や章立てや流行りやコンプライアンスやレーベルカラーを全て勘案されて作り直され、苦心惨憺たる執筆を経て、無事に脱稿へと漕ぎつけることができた。

 

 まあ。生きてくってこういうことよ。

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