昔の情念、今の恥

白木錘角

第1話

 ふらりと立ち寄った古本屋で、かつて自分が売り払った小説と再会した。それが元々私が所持していたものだと分かった理由は、その小説が私にとって非常に印象深い作品であり、そしてそれ故に覚えている傷や破れが記憶そのままの位置にあったからだ。

 と言っても、内容が秀逸だったとか人生の指針になったとかそういうわけではない。内容自体は不治の病におかされた若い女性と、彼女に一目惚れした研修医を巡る物語という非常にありきたりでチープなものだ。

 この小説を印象付けているのは、その内容ではなく時期である。当時大学生だった僕は、初めての彼女にフラれたばかりだった。こちらは生涯を共にしたいとまで思い入れていたのだが、どうやら彼女にとっての僕は人生の暇を一時共にする即席パートナーだったようだ。失意にひたること一週間、ようやく踏ん切りをつけ彼女との思い出を片付け始めた時に出てきたのがこの小説だった。小説になどとんと興味は無かったが、付き合ったばかりの頃の彼女が熱心に勧めてきたので買ってしまったのだ。結局付き合っている間にその小説について語り合う事は無かったのだが。

 なつかしい……と独り言ちる。

 たしか、最終的に研修医の努力によって彼女の病は治るのだったか。不治の病じゃなかったのか、そんなご都合主義があってたまるものか、と憤怒した勢いそのままに古本屋に売り払ったのだった。

 思えば、当時の僕は現実で彼女に袖にされた恨みつらみを小説で晴らそうとしていたのだろう。あえてこの小説を読もうとしたのも、あらすじから悲恋だと推測し、たとえ創作だろうと自分と同じような立場の人間の存在を意識する事で、悲しい現実から目を背けようとしたのかも……いや、分析するのはやめよう。自分という人間の矮小さに嫌気がさしてくる。壁に投げつけた時に生じたページのや、勢い任せに掴んだ時にわずかに破れた表紙が自分を責め立てているような気すらしてくる。

 だがそれも昔の話。今の僕は人並みに順調な生活を送れているし、こんな僕でも一緒にいたいと言ってくれた伴侶もいる。この小説を再び手元に置く事で、今の自分への戒め、そして過去の自分との決別ができるに違いにない。そんな確信を持って、僕はその小説を手に取った。


「あー……それ、買うの?」


 しかし、そんな僕の決意に水を差すような反応をしたのは、レジの青年である。この古本屋にアルバイトを雇えるほどの余裕があるとは思えないし、青年の風体はどうみてもアルバイトのそれではない。おそらく店主の縁者が嫌々手伝いに駆り出されたと言ったところだろう。


「なにか不都合があるのかい?」


「いや……それ呪いの本だから止めときな。今まで何人か買っていった奴がいるんだけどさ。みーんな数日立たないうちに返品してくれって青い顔して戻ってくるんだよ。毎晩枕元に幽霊が立つようになるって」


 幽霊? いわくありげな古書ならともかく、この小説は発刊からせいぜい十数年と言ったところだろう。それに内容からしてもそういった怪異譚とは無縁のものに思えるが……。しかもそれが真実ならこれを数か月所持していた僕が何も知らないのはおかしな話ではないか。


「嘘じゃねぇって! 全員同じ幽霊を見たって言ってんだから! すげぇ恨めしそうな顔で、どうしてだ~どうしてなんだ~ゆりえ~って何度も何度も言うらしいぜ!」


 どうにも嘘くさ……待った、ゆりえだと?


「その幽霊の風体については何か知っているのかい……?」


 僕の問いかけに青年はしばし首を傾げる。


「うーん……たしか若い男だったって言ってたな。ちょっと背は高めで、髪がぼさぼさで黒い眼鏡をかけてたって……あ、ちょうどお兄さんみたいな感じだと思うぜ」


「……」


 



 結局、件の小説は今、私の部屋の隅に置かれている。今のところ夢枕に幽霊が立つ気配は無い。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

昔の情念、今の恥 白木錘角 @subtlemea2

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ