或る本屋

ナツメ

或る本屋

 気がつくと本屋の軒先に立っていた。磨りガラスの嵌った戸の向こうから薄っすらとサラサーテのツィゴイネルワイゼンが聴こえている。

 戸を引くと、ガララ、と思ったより大きな音がした。

「御免下さい」

 そう声をかけて一歩中に入る。中々の壮観であった。本屋なのだから当然ではあるが、壁一面、天井に着くまで本がぎっしりと詰まっている。少し肥った人なら通れないのではないかと思うほど通路は狭く、その道を形造るものもまた、本の詰まった書架である。

 立ち並ぶ背表紙を眺めながら奥へと進む。どうも、出版社や作者の順で並んではいないらしい。かと言って全くの無作為ランダムという訳でもなさそうだ。この並びを組んだ人物の意志のようなものを感じる。歩みを進めるに連れてヴァイオリンの音色が近くなる。

「いらっしゃい」

 音楽の一瞬の空白に、突然に声がした。私は虚を衝かれ、振り向きざまに平積みになっていた本を一冊落としてしまった。

「ああ、すみません。大切な商品を」

「いいのよ、適当に戻しておいて」

 拾い上げた時、何故かひどく懐かしいような心地がした。可笑しな話だ。まやかしの郷愁を振り払って本を元に戻し、顔を上げる。

 帳場には、深緑の銘仙を着た顔の白い女性が坐っていた。この店の店主だろうか。

 肘をついて明後日を見ているその首筋に、結い上げた髪がほつれて一筋二筋落ちている。三十路はとうに越していそうだが、ぶすりとした無表情が却って婀娜っぽい。

「お兄さん、本がお好きなの」

 店主はこちらも見ずにそう言った。

「ええ、まあ」

 曖昧に答えるとじろり、と店主の瞳が動いた。このひとは随分目が大きい、と正面から見つめられて初めて気付いた。心の中まで見透かされているようで居心地が悪い。

「本にはその人の考えや人生が刻み込まれているようで、面白いじゃないですか」

 何かを誤魔化すかのように口からでまかせを言ったが、強ち間違ってもいないだろう。店主はふん、と嘲るように鼻を鳴らした。

 レコードの針が飛んだ。



 気がつくと本屋の軒先に立っていた。磨りガラスの嵌った戸の向こうから薄っすらとヴァイオリンの軽快な音色が聴こえている。

 戸を引くと、ガララ、と思ったより大きな音がした。

「御免下さい」

 そう声をかけて一歩中に入る。中々の壮観であった。本屋なのだから当然ではあるが、壁一面、天井に着くまで本がぎっしりと詰まっている。少し肥った人なら通れないのではないかと思うほど通路は狭く、その道を形造るものもまた、本の詰まった書架である。

「いらっしゃい」

 唐突に声がして、私はびくりと体を跳ねさせてしまった。その拍子に平積みになっていた本が一冊床に落ちる。

「ああ、すみません。大切な商品を」

 拾い上げた時、何故かひどく懐かしいような心地がした。既視感デジャ・ヴュというものだろうか。濃紺の布張りの表紙。私はこの本を知っている気がする。かつて持っていただろうか?

「お兄さん、本がお好きね」

 声に目を上げると、帳場に深緑の銘仙を着た女性が坐っていた。肘をついてこちらを見下ろしている。白い顔に紅い唇、瞳の大きな女性である。

「ええ、まあ」

 答えながら立ち上がり、本を元の通りに戻した。

「あたしが言うのも可笑しな話ですけど」

 女性は無表情で言う。

「本ってなんだか恐ろしいわ」

 彼女はこの店の店主ではないのだろうか。本屋が本を怖がるだなんて、奇妙な話だ。

「そうですか? 本にはその人の考えや人生が刻み込まれているようで、面白いじゃないですか」

 なんの気なくそう言うと、彼女はふん、と呆れたように鼻を鳴らした。

「だからよ。書いた人間の思い、情念、生きた時間……それがたったこれぽちに」――と言いながら帳場に無造作に置かれていた本を彼女は摘み上げた――「圧縮されて棚に押し込められている」

 彼女の大きな目がぐるりと店内を見渡す。つられて辺りを見ると、成程、空間を埋め尽くす本たちから悲鳴染みた声が聞こえるようだった。

 ――知ってくれ、理解わかってくれ。

 そんな声だ。

 その中に、私の声が紛れているような気がした。

「色んな人間のそんな自己主張が渦巻いていると思うと、本屋なんて悍ましいところよ」

「じゃあなぜ本屋を?」

「姉が好きなのよ。あたしは店番」

 レコードの針が飛んだ。



 気がつくと本屋の軒先に立っていた。磨りガラスの嵌った戸の向こうからは物音一つしない。休業中だろうか。

 戸を引くと、ガララ、と思ったより大きな音がした。

「御免下さい」

 そう声をかけて一歩中に入る。中々の壮観であった。本屋なのだから当然ではあるが、壁一面、天井に着くまで本がぎっしりと詰まっている。少し肥った人なら通れないのではないかと思うほど通路は狭く、その道を形造るものもまた、本の詰まった書架である。

「また来たの」

 不意に耳元で声がして、私は思わず一歩後退あとじさった。背中が書架にぶつかり、転んだ私の上にバラバラと本が落ちてくる。

 瞑った目を開くと、深緑の銘仙を着た顔の白い女性が私を見下ろしている。

「そうやって何度も何度も執拗しつこく現れるほどの執着がこびりついているんだから、矢っ張り本なんて碌なもんじゃないわよ」

 何を言っているのか私にはさっぱりわからない。呆然として見上げていると、彼女が一冊の本を差し出してきた。

 濃紺の布張りの表紙。そこに刻まれた名前は、紛れもなく私のものであった。

「もうとっくに死んでるくせに」




 気がつくと本屋の軒先に立っていた。

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