本屋、カランとほころびて

鳥辺野九

とある古本屋のルール


 錆びついたアーケード街の隅っこに、薄っぺらい屋根天井が陽を透かす、雨宿りにもならないような外れも外れ、一軒の古本屋がある。一軒の古本屋があった。一軒の古本屋があるだろう。どうでもいい。そこは時間を無視できる古本屋だ。古本屋の名前は──。




 カラン。

 ステンドグラスがはまった木製扉を押し開けば、牛の首に括られたようなドアベルが「客が来たぞ」と音を鳴らす。そのこもった音に思わず首をすっこめる。ドアベルをひとつ睨む。少しだけびっくりしたぞ、と。


「いらっしゃい。何かお探しで?」


 今時こんなふうに客に声をかける店も珍しい。ましてやここは古本屋だ。探し物を問いかけられたところで応えようがない。


「あ、いえ。ちょっと」


 逆に萎縮してしまう。古本屋なんて、ちょっと覗いて時間を潰すぐらいしか用事はないだろう。そう思って、不躾な店主の顔でも拝んでやろうとしたら、声がしたカウンターには白い猫が座っていた。

 ぴんと背筋を伸ばし、猫背とは何ですか、と言いたげな清々しい座り姿の大きな白い猫。亀裂が入ったような琥珀色した目で僕を真っ直ぐに射抜く。


「どうぞ、手にとってご覧になって」


 猫が喋った。そう勘違いしてしまった。


「あ、はい」


 もごもごと鰹節のかけらを咀嚼するように猫が口を動かし、髭を前足で撫で付ける。まるで謎解きを問いかける大猫だ。

 でも実際に喋っているのは猫の後ろで置き物のように座っている小柄なおじいさんなのだろう。


「どうも」


 意味不明などうもを使って僕は店の奥へと分け入った。

 そう広くもない店内。照明は明るくて背の高い書架に囲まれても閉塞感はない。むしろ隠れ場所がなくて猫とおじいさんに見張られてるようで圧迫感があるくらいだ。

 本屋とは居心地の良い場所のはずだ。紙の匂いがして、書架に詰め込まれた背表紙が短い言葉で話しかけてくる。つと目を滑らせれば次から次へ意味と意図が刷り込まれた単語が流れ込んでくる。

 古本屋なら尚更だ。真っ白とは言い難い紙質は独特の古臭い香りが染みていて、確実に僕以外の人間の手で頁をめくられている。言うなればすでに紐解かれた秘密の物語。

 古本は単にサルベージされた知的資源ではない。まだ見ぬ誰かへ託す知識と歴史、ほんの少しの冒険とか愛とか、あと殺人事件とか。

 目の高さに、古い時代のミステリー作家の名前を見つけた。表向きは児童文学だろうか、古風で立派な装丁に大きな文字が背表紙に綴られている。どこかの誰かと同じく、頁をめくってみたくなった。古い本を手に取る。


「立ち読みもいい。すぐに他の物語に目移りできるからな」


 見れば、白い猫が言う。

 違うか。僕をじいっと見つめる猫に隠れるように佇む店主のおじいさんを見返した。


「ただ、読んだ本は元あった場所にしっかり戻してくださいよ。でないと」


 白い猫は太くもふもふした尻尾を振るった。


「でないと、時系列が狂っちまう」


 何の気なしに入った見知らぬ古本屋の店主が言う。おじいさんはこちらに顔も向けず、猫は口をもぐもぐと動かして、まるで彼(もしくは彼女?)がこの古本屋の主であるかのよう。


「本も時間もほころぶものですよ」


 気になる一冊の本を手にするや否やそんなことを言われたら、少しは売上に貢献しようかというささやかな気持ちも萎えてしまう。


「わかりました」


 とだけ答えておく。僕の購買意欲はもう消えた。

 白い猫はまた髭を撫で付けて僕を見つめている。僕はさらに奥の書架へと移動して、白い猫の視界から隠れようとした。

 ふと、目の前の書架に掲げられたプレートが目に飛び込んでくる。

 『2000年代人類史』と読めた。歴史書と呼ぶには少し大袈裟だけど、この時代の出来事を解説するような史書が並んでいる。


「このアーケード街の、歴史?」


 アーケード商店街組合が発行した書籍だろうか。アーケード街について書かれた本を見つけた。そうっと手に取ってみる。


「それはこの町の年表みたいなものですよ」


 驚いた。

 いつのまにか白い猫はレジカウンターから降りてこの書架の影から僕を覗いていた。おまけに僕の立ち位置はレジのおじいさんからは見えないはず。


「はいはい、そうですか」


 思わずサイドステップを踏むみたいに猫から逃げる。うっかり町の書籍を手にしたまま、レジカウンターから遠ざかる。

 目の高さに書架のプレートが見えた。2050年代と読める。書架は空っぽだ。だいたい2050年発行の未来の本なんて今の時代に存在するわけがない。見れば、2060、70、80とまだまだ空の書架が続いている。

 店の中で客を監視するように猫を放し飼いにするし、なんていい加減な古本屋なんだ。

 もう出よう。

 手に持っていた町の年表本を2050年代の空っぽの書架に置いて、ぐるりと書架を遠回りして猫をまく。

 手ぶらでレジの前を通り過ぎるのもどうにも気が引ける。だからさっき見つけた古いミステリー小説を手にして、レジの寡黙な店主に差し出した。猫はまだこっちに来ていない。


「はい、ありがとうね。またおいで」


 どこか遠くから声がする。今、目の前で店主のおじいさんが古本を紙袋に入れてくれたが、お礼を言った声は別の場所から届いたような錯覚に陥る。おじいさん、さっきから口動いていないような。


「どうも」


 カラン。

 僕は逃げるようにドアベルを鳴らして古本屋から飛び出した。

 ステンドグラスがはまった古めかしい木の扉を振り返る。最初は居心地良さそうな古本屋だと思ったのに。本のいい匂いがするお店だと思ったのに。すごい緊張感溢れる本屋さんだったな。

 もう帰ろう。

 振り向けば、歩道タイルがあちらこちら剥がれた廃墟のようなアーケード街が僕を迎えた。名前も知らない雑草がタイルを剥がして持ち上げ、錆だらけのシャッター街を覆い尽くそうと生い茂っている。

 ああ、そうか。僕は思い出す。

 町の年表本を2050年代の書架に置いてしまったっけ。

 もうこの寂れたアーケード街で営業している店はあの古本屋のみだ。人口が減って、紙の本を読む世代はいなくなり、若い世代ももう紙なんて触ったこともないんだろう。

 古本屋店主が言ってたな。


「本も時間もほころぶものですよ」


 僕はアーケード街の時間を2050年に置き忘れてきたようだ。




 錆びついたアーケード街の隅っこに、薄っぺらい屋根天井が陽を透かす、雨宿りにもならないような外れも外れ、一軒の古本屋がある。一軒の古本屋があった。一軒の古本屋があるだろう。どうでもいい。そこは時間を無視できる古本屋だ。古本屋の名前は──。

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