心の港
悠井すみれ
第1話
「この店、やっぱ暗いですね。もう少し照明を明るくしてもらえますか?」
「これでも一段階明るくしたんですけど。やり過ぎると、本が傷むので……」
ブックカフェ
「明るいほうが読みやすいじゃないですか。お客さんも入りやすいですし。売り上げも良くなるんじゃないですかね」
数百店舗が集うショッピングモールの一角に、Hafenは入居している。広く取られた通路に、眩しいほどの照明。それを遮るように本棚に囲まれた空間は、ともすれば怪しげに見られてしまうのだろうか。確かに入りやすい雰囲気ではないかもしれないが、矢部も譲れない。
「席は間接照明だから良いんですよ。全体を照らしちゃうと、本が──」
「せっかくお洒落なコンセプトなんですから、まずは入ってもらわないと。書店なら別のフロアにもある訳で」
矢部の言い訳など、相手は初めから聞く気はなかったようだ。地域住民の憩いの場であるモールに、薄暗い店の存在など許さない、とでも言いたげな有無を言わせぬ口調だった。
太陽の光をたっぷりと取り込む開放的な吹き抜け、あちこちに置かれた観葉植物。入居している店舗も、化粧品、雑貨、服、スウィーツと、華やかなブランドが揃っている。そんな中でHafenに期待されている役割は、ショッピングの合間の休憩場所といったところだろうか。大体のお客さんは、見栄えの良いドリンクやパフェやおしゃべりに夢中で。高い棚を埋める本はインテリアに過ぎなくて──本とコーヒーを同時に楽しめる空間。静かで落ち着くひと時を提供したい、だなんて。彼の夢は求められていないのだ。
マネージャーを見送った矢部がカウンターの中に戻ると、アルバイトの千夏が耳に口を寄せて来た。
「ね、店長。あのおじさんまた来てる」
千夏が目で示した先には、「常連」の男性が座って本を広げていた。マネージャーには見えない、本棚の陰の奥まった席に。人目を憚るように身体を縮めているのは、実際、隠れているのだろうと思う。なぜなら──
「ひと言言ってくれません? ちょっと怖いです。いつも同じ服──ネットカフェ代わりにされてますよ」
千夏はその男性を「常連」とは思っていないし、彼の認識としてもそうなのだろう。本のページを繰る男性の手元にあるのは、ホットコーヒーのカップがひとつだけ。毎週金曜日、午後に訪れてはコーヒー一杯で数時間粘る客は、まあ上客とは呼べない。四十代くらいと思しきその男性が、いつも同じ着古した服を着ているのも。男性本人のやつれたというか荒んだ風情も、千夏の推測に説得力を与えてしまう。つまり、その男性は家か仕事かその両方がなくて、空調の効いた場所で時間を潰しているのではないか、という。
「この店、売上良くないんでしょ? 立ち読みみたいなもんじゃないですか」
「分かった、分かったから」
不安と苛立ちによってか、千夏の声は少々大きい。彼女の言い分に頷いたというよりは彼女を黙らせるために、矢部は店の奥に足を向けた。
「すみません、ちょっと──」
「あ、ああ、すみません。すぐ出ます」
矢部が声をかけると、男性は気の毒になるほどの慌てようで本を閉じ、立ち上がろうとした。それを、相手と同じくらいの慌ただしさで宥めて、矢部は笑顔を浮かべる。同時に差し出すのは、ミルフィーユが乗った皿だ。
「いえ、いつも来てもらってるので、サービスです。召し上がってください」
「……どうも」
矢部のぎこちない笑みとミルフィーユを、男性は何度も見比べた。信じられない、というような表情で。それでも矢部が引こうとしなかった──それどころか向かいに座ったからだろう、彼はやがておずおずと添えられたフォークを持ち、クリームを挟んだクレープ生地を切り取って口に運んだ。
「美味しいですね」
「実は業務用ですが。メインは本屋のつもり、なんですけどね……」
矢部の自虐は、男性をまた恐縮させてしまったようだった。かちゃ、と音を立ててフォークを置くと、彼は周囲の本棚をぐるりと見渡した。
「本も売ってるんですよね、ここ。すみません。いつも読むだけで……」
男性の目が、並んだ背表紙の題名や著者名を確かに追っているのを見て取って、矢部の胸は密かに熱くなった。単に「映える」背景としてではなくて、この人は一冊一冊の本を見てくれている。そう思えたからだ。
「いえ、大事に読んでいただいてるのが分かりますから」
ミルフィーユを口にする前に、男性は読んでいた洋雑誌をちゃんと閉じて離れたところに置いていた。汚さないようにという配慮だ。間近に見れば、彼の顔は日に焼けて、顎には髭がぽつぽつと目立っている。それでも手指は綺麗だった。この店に来る前に、しっかりと手を洗ってくれているのだ。
「この店の名前──Hafenって、ドイツ語で『港』という意味なんです。世間の荒波から逃れた休憩所というか、羽を休める場所になってほしいなって。その、気持ちの意味でも」
店の者に顔を覚えられるなんて気まずいものだ。まして、いきなり店名の由来だの店主の思いだのを語られては居たたまれないだろう。不審者丸出しなのは百も承知で、それでも矢部は舌を止めることができなかった。
「本を──この空間を楽しんでいただけて嬉しいんです。本当に。だからお気になさらないで、また来ていただけると良いです」
下手な営業スマイルを懸命にキープしながら、脳裏に過ぎる苦い光景を幾つも呑み込みながら、矢部は言い切った。
ドリンクや食べ物をこぼされた本。折れてしまった本。買い取りを申し出る人はごく一部で、閉店後に本棚に押し込まれた汚損本を見つけて泣きたくなるのも珍しくない。フードコートとは違う静かな雰囲気を好んでくれる客もいるし、書籍よりも飲食物の売り上げのほうが遥かに上ではあるけれど。矢部としては、この店はあくまでも本屋なのだ。だから──本を丁寧に扱い、彼が選んで置いている本を読んでくれるこの男性は、矢部にとっては誰が何と言おうと「常連」だった。それを、伝えたかったのだ。
「……変なことを言ってすみません。ただ、御礼が言いたくて」
「いえ、こちらこそ……いつも長居しちゃって」
もごもごと答えてから、男性は気まずそうに三口ほどで呑み込むようにミルフィーユを平らげた。すぐにでも席を立ちたかったのかもしれないが、手をつけた以上残せないと思ったのだろう。紙ナプキンで素早く手を拭うと、彼は慌ただしく立ち上がった。
「ごちそうさまでした。本も……綺麗だったり面白かったりで。図書館にもないのばかりだから、つい」
「誉め言葉です。いつでも、幾らでも来ていただいて良いんです」
矢部の心からの言葉が届いたかどうかは、分からない。男性は軽く会釈すると、千夏が待つレジで会計を済ませて店を去った。千夏が矢部に向けた小さな笑みは、はっきり言ってくれたんですね、とでも言っているようだった。
あの「常連」の客はまた来てくれるのか。あるいは、千夏が望んだであろうように、足を遠ざけてしまうのか。落ち着かない一週間の後に迎えた、次の金曜日。その日はひとりで店番をしていた矢部は、Hafenには非常に珍しいことに、本を携えてレジに立った客の姿を見て、目を瞠った。
「いらっしゃいませ──えっと、いつもの、コーヒーですよね?」
いつものくたびれた服装と疲れたような面持ちで佇んでいたのは、あの男性だった。一週間分の悩みをどう処理すべきか分からないまま、慌ただしく厨房に向かおうとする矢部に、けれど彼は苦笑して手と首を振った。矢部の早とちりを止めてくれたらしい。
「今日は、これをいただきに来ただけなんです」
男性が差し出したのは、文庫サイズの画集だった。印象派の絵をフルカラーで収めたものだった。彼が好んで印象派の画集を眺めていたこと、ずっと様子を見ていた矢部も気付いている。木漏れ日を透かした光が水面に踊り、色の重なりが花の瑞々しさも香りも描く──そんな滲むような世界を、きっとこの人は求めているのだ。
「ゆっくりしていただいて良いのに……」
書籍のバーコードをレジに読ませる電子音は、飲食物の会計の時とはまるで違って聞こえる。ただの味気ないピッという音ではなくて、軽やかなメロディでもついているかのような。自分が選んだ本が、また別の人に選んでもらえることへの祝福の鐘の音なのかもしれない。嬉しさと名残惜しさを半分ずつ感じながら矢部が文庫本を手渡すと、男性は小さく肩を竦めた。
「今週は収入があったので……。ここ、ハローワークも入ってるでしょう。それで、来た時には寄らせてもらってたんです」
言われて初めて、矢部はモールには役所の窓口も設置されていることを思い出す。同時に、男性がどうして毎週金曜日に姿を見せるのかの謎も解けた気がした。求人情報が更新されるのが週に一度で、定期的に窓口を訪ねる必要があるのではないだろうか。
「収入というと……その、良い報せが……?」
「いや、とりあえず日雇いですけどね。この歳だとなかなか……でも、お返しがしたかったので」
男性はまた苦笑を浮かべて矢部の胸に後悔の痛みを感じさせた。苦況にあることを、よく知らない相手に漏らしたくはないだろうに。接客業に就いている癖に、矢部は悲しくなるほど不器用だった。顔に浮かんでしまったらしい気まずさや同情を、男性に読み取らせてしまうほどに。
「すみません。いかにもな無職のおっさんが居座っていたら気持ち悪いですよね。だから、たまには、ということで」
「そんなことは」
矢部の小さな呟きなど聞こえないかのように、男性は目を細めてHafenの本棚の列を見渡した。背表紙だけを見せて棚に収まった本、その一冊一冊が内に抱えた情景や物語をも見渡してくれていると分かる、遠くを見る眼差しで。
「週に一度のご褒美のつもり、というか。ここ、外と時間が切り離されたみたいで落ち着くんです。先のことや嫌なこと──ここにいる間は、忘れられ、てっ……」
「あの、えっと」
男性の目に光るものを見つけて、矢部は狼狽えた。大の男が泣くところなんて、そうそう間近に見るものではない。
「──すみません。本当に。普通に……こういう雑談が、すごく久し振りで」
「……待ってください!」
男性にとっても不意のことだったのだろう、慌てて目元を抑えて去ろうとするのを、でも、矢部は必死に引き止めた。レジのカウンターから飛び出して、男性の袖を掴む。ぶつけた腿がじんじんするのを感じながら、彼をいつもの席に導く。
「ちょっと、そこにいてください!」
強引に座らせて、一方的に言い渡してから、矢部は大急ぎでカウンターに取って返し、グラスふたつに、アイスコーヒーを満たしておしぼりも添えて、席に戻った。
「ここなら外から見えませんから。少し落ち着いてからのほうが──」
「そんな……どうして、ここまで? 餌付けでもしたつもりですか」
眉を寄せた男性の、少し尖った視線が矢部に刺さる。声にも表情にも、戸惑いだけでなく怒りがはっきり滲んでいる。施しめいた勝手な好意は願い下げだろうと、矢部にも分かる。先日と同じ、余計なことだ。
「久しぶりって仰いましたよね。僕にとっても、そうだったんです」
それでも、吐き出さずにはいられなかった。男性が、きっと思わず心を揺らしてしまったように。今や矢部の視界も歪み始めていた。
「この店、売り上げが悪くて……本棚のせいで見通しが悪いからだなんて言われて……カフェ一本のほうが良いんじゃないかって、モールの人から」
マネージャーの、爽やかな笑顔が矢部の目蓋に蘇る。メニューや導線についての、真摯なアドバイスをしてやっているつもりなのだろう。彼が目指す空間を踏み躙っているなんて知らないで。──いや、知った上でも無視されて当然だ。儲からない店は淘汰されて当然だと、他人事なら矢部だってそう思っていただろう。
「本も、一生懸命選んでるんです。でも、手に取ってくれない人も多くて。儲からないのは、分かってたし、僕のせいなんですけど! でも、今のこの店を好きでいてくれる人がいるなら、頑張ろう……頑張れる、って──」
「……色々あるんですね」
男性がぽつりと漏らした言葉は、相槌というには突き放す響きがあった。ほかに言いようがないから仕方なく言った、というていどの。それはそうだ。休職中の彼には、矢部の悩みなんて贅沢でしかないのだろうから。
「すみません。押し付けるつもりじゃなくて……いや、そうなってしまうんですが──」
「頑張りますよ。そうとしか言えないじゃないですか」
「はい……」
男性は、おしぼりを取って乱暴に目に当てた。目元を拭う以上に、表情を見られたくないからだと察せるから、矢部も目を伏せる。というか、恥ずかしくて顔を上げられない。たった一度話しただけの他人に、ただの客に、聞かれもしないのに心の裡を吐き出してしまうなんて。
「仕事が決まらなくて……焦るし怖いし、自分が何でもない存在だと思ってしまうんですよね。僕は家族もいないので……。でも、見ていてもらえるっていうのは嬉しいものなんですねえ」
だから、男性の声の調子が変わったのに気付いても、彼がどんな表情をしているのか、確かめる勇気はなかなか持てなかった。憤りが消えて、穏やかな声で──微笑む気配もする気がする、けれど。勝手な期待で耳が塞がっているだけではないかと思えて。
「頑張ります。もっと堂々と通えるように。良いお店にも、頑張って欲しいですからね」
でも、恐る恐る目を上げると、優しく励ます微笑みが迎えてくれた。何かを吹っ切ったかのように。それを見て、矢部の心もふっと軽くなる。心からの声が、口をついてこぼれ出る。
「……はい!」
それから、何かが大きく変わったということはない。Hafenは相変わらず少し暗く少し入りづらく、本棚に手を伸ばす人も相変わらず少ない。マネージャーの苦言は続くし、売り上げも決して良くはない。ただ、押しも押されもせぬ常連は、確実にひとり、いる。千夏でも、営業スマイルではあるけれども愛想よく接する客が。あの男性は、求職活動が成功した後も変わらずHafenに足を運んでくれている。仕事を始めたら始めたで、心を休めることが必要なのだろう。立ち入った話はもうしなくても、目線で交わす挨拶や微笑みで何となく分かる。この店は、彼の港になれているはずだ。
だから矢部も、この店で頑張ろうと思えるのだ。
心の港 悠井すみれ @Veilchen
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