ノーカット版(24.02)

 カチャカチャとプラスチックの触れ合う音が部屋に響いている。


「じゅーっじゅーっ、もうすぐかんせいです、しょうしょうおまちください」

 一心不乱にオモチャのフライパンをかき混ぜていた男の子が動きを止め、中身を器用に平皿に盛り付けた。両手でそれを持って、ニコニコしながらテーブルに運ぶ。


「どーぞー! いためものです」

「ありがとう。わあ~おいしそうだな~!」

 待機していた母親も教育番組のお姉さんみたいな笑顔と声色で応えて、さっそく料理に手を伸ばした。

「ぱくぱくぱく。うーん、お~いしい~!」

「スプーンどうぞ!」

「あ、そうだよね。ぱくぱく、お~いしい~! ごちそうさまー!」


 大袈裟なリアクションに、男の子は満足げに皿をさげた。と思ったら、また似たような皿を持ってきて「どうぞー」と言う。

「まだあちいよお!」

「アチッ! ぱくぱく、おいしいな~」

 しかし、急に男の子が真顔になる。

「フーフーってするんだよ」

「そっか。ふーっふーっ、アチチチ。おいしい~」

 途端にくしゃりと笑顔が咲く。

「おかわりもありまーす!」

 ウキウキと、先ほどさげた皿と入れかえて、男の子はまた母親に期待の表情を向けた。

「ありがとう。ぱくぱく、あーもうお腹いっぱいだなー。ごちそうさま」

 でも、男の子はもっとお客さんに食べさせたい。まだ満腹の設定ではない。

「まだまだおかわりありまーす!」

 皿がまた入れかえられる。

「ぱくぱく、ごちそうさま」

 また皿が出てくる。

「おめしあがりくださーい!」

「ぱくぱく…………ハァ」

 母親の口からため息が漏れた。


 我が子は可愛い。やることも、言うことも。だけど、それと理想の関わりが出来るのとは別だ。


 延々と繰り返されるごっこ遊びは苦手で、一緒に楽しむ、ということがどうしてもできない。

 大人には一度で充分なことも、子どもはしつこいくらいに繰り返して、何度でも楽しむ。


 疲れていても、それに付き合ってやらなければ。

 とは思うけれど、無理だ。ものの数分でうんざりし、気づけば生返事しながらスマホに視線を注いでいる。

 やがて、察した我が子は文句も言わずに、ひとりで静かに遊び始める。


 これではいけない。

 そうは思っても、日々削り取られていくばかりの心では頑張れない。人は余裕がある時しか他人に合わせられない。


 退屈を感じながらオーバーなリアクションをするのも、相づちを考えるのも疲れる。しかも、そのただでさえ苦行なやり取りに、終わりが見えないのがつらい。


 やがて、子どもに「あそぼ」と言われただけでげんなりしてしまう自分がいた。



 母親は、我慢のできない自分に「失格」の烙印を押す。

 優先させるべきは子どもなのに、逆に子どもに我慢をさせている。

 そんな自己嫌悪がさらに気力を消耗させ、ますます子どもと向き合えなくなる。休みたくなる。

 独りの時間を渇望してしまう。




□□□




「ちょっとここで待っててね」

 そう言って母親はつかつかと歩き去り、本棚を曲がったところで視界からいなくなってしまった。

 母親の消えた角を、小さな男の子はじっと見つめ続けた。しかしやがて、ゆっくりと自分の置き去られた場所へと視線を移す。


 平積みされた色とりどりの絵本。本棚にもまるで展示会みたいに表紙が並び、楽しげなパネルの装飾が施されている。

 本屋の児童書コーナーだ。


 少し離れたところには円形のソファーが置いてあって、親子が何組か座っていた。

 一冊の絵本を肩を寄せあって覗き込んでいる親子。父親とその膝の上でふにゃんとしている乳児。混じり合う読み聞かせの柔らかな声。


 ソファの方をチラチラ見ながら、男の子は本棚に沿って歩いて、くるりと裏側へ入った。

 これでもうソファは見えない。



 視界に飛び込んできた知育玩具コーナーに、男の子はパッと吸い寄せられた。貸切状態のそこで、並べられたオモチャを片っ端からいじっていく。

 夢中で横へ横へとずれて、最後にカラフルなピースをつまみ上げた。何をするものなのか分からなくて、とりあえず積んでみる。積木にしては歪なそれを全部積むことが出来て、男の子の口の端が少しだけ上向いた。

 でも、綻んだ口元はすぐに結ばれ、男の子は積み上げたピースをそっと崩した。



 ふと気配を感じて、振り向く。見れば、男の子の後ろにはいつの間にか女の子がいた。男の子よりも少し年上らしきその子は、背表紙がいっぱいに詰まった本棚から一冊引き出しては戻し……を繰り返している。


「なにしてるの?」

 思ったままに男の子が問うと、女の子が手を止めた。

「絵本をえらんでるんだよ」

 女の子は明るく笑った。

「ねえ、いっしょに探そう。君も絵本買ってもらいなよ」

 でも男の子は表情を曇らせる。

「かってもらったこと、ない」

「えーっ! あのね、『買って』って言えばいいんだよ」

「でも、じぶんでえほんよめない……」

「かんたんだよ。ママやパパに『読んで』って言えばいいんだよ」

「……そっかぁ!」

 男の子の顔がパアッと輝いた。



□□□



 男の子と別れた母親は、その後、文房具コーナーに向かった。

 独りの時間に、ホッと息をつく。


 小さい子どもをひとりにするなんて危ない。


 そう頭ではわかっているものの、限界だった。

 児童書コーナーなら絵本もオモチャもあるから。よその親子の目もあるから。と都合のいい考えに縋ってしまった。

 大丈夫なわけがない。迷惑な客、迷惑な親、失格な母親だ。



 商品を選ぶ間、子どもから離れられたことに安堵する一方、不安と失望で全身がヒリヒリとした。

 会計を済ませる頃には、束の間の安堵は独りでいられなくなる落胆で塗り潰され、膨れ上がった焦りだけが残った。



 駆けるようにして児童書コーナーへ向かう。ひとりでソファに腰かけている我が子を認めたところで、歩調がゆるんだ。


「お待たせ」

 立ち止まり、手に持ったままだった財布と文房具をやっと仕舞おうとする。その時、男の子が何かを差し出した。絵本だ。


「ママ、これかって」


 母親はバッグに向かわせていた手をピタリと止め、男の子をまじまじと見つめた。男の子の表情は真剣そのもので、可哀想なくらいに強ばっている。


 瞬間、生じた奔流に胸が張り裂けそうになった。


 いつもいつも。

 寂しい思いをさせて、ごめんなさい……!


 罪と悲嘆に呑まれかけ、しかし、必死で藻掻いて手を伸ばす。


 寂しさを押し殺して駄々のひとつもこねなかったこの子が、「買って」と言った。

 親がスマホをいじっても、文句も言わずに諦めていたこの子が、今、勇気を出して甘えようとしてくれている。

 自分の気持ちをぶつけてくれている。


 これに応えずして、いつ自分は母親になれるというのか。疲れ果てた自分を立て直せるというのか。



 母親は一瞬泣きそうな顔になって、でも、グッと微笑みを作った。


「そうね」


 男の子がスキップし、母親の手に自分の手を滑り込ませる。

 母子はお互いに、その手をギュッと握った。




□□□




「ママ、えほんよんで」


 今日も男の子はせがむ。

「後で――」

「イヤ。いまがいい!」

「……わかった。じゃあ、一回読もうね」

「うんっ!」


 ソファに座った母親が、隣をポンポンと手で示す。でも男の子はそこを乗りこえて、母親の膝に座った。


「頭で絵本が見えないよ!」

「だって、ここがいいんだもん」

「しょうがないなぁ」


 男の子は母親にふにゃんと背中を預けた。

 一冊の絵本を一緒に覗き込む。



 自分だけの特等席で、大好きな温もりに包まれながら、自分だけのために語ってくれる声に耳を傾ける。



 自分よりも少し高い体温と、日に日にしっかりしていく重みを感じながら、この子のためだけに物語を読み聞かせる。



 二人の心を、絵本が繋ぐ。



「――おしまい」

「もういっかい!」

「だ~め。一回だけのお約束でしょ?」

 唇を尖らせて、男の子は母親を見上げる。

「じゃあ、ママもおしごといっかいね。いっかいやったら、こんどはおままごとしよう」

 ギクッとした母親は、苦笑いで頷いた。

「わかった。約束ね」

「やったー!」

 膝から滑りおりた男の子は両手を振り上げて、何度も何度も家の中を飛び跳ねた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

TSUNAGU きみどり @kimid0r1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ