第3話 Call

 紗英は周囲の人間の視線がすべて自分に集まっているように錯覚する。人ごみに紛れて隠れるように紗英は通路を進んでいく。モールの出口まで辿り着いたとき、ようやく紗英は緊張で肺の中に滞留たいりゅうしていた息をすべて吐き出した。


 同時に、今まで感じたことのない快感が全身を駆け巡った。痺れるような甘美な感覚に壁に手をついて息を荒げる。ぞくぞくするほどの悪寒と血が沸き立ちそうな熱が同時に襲ってきているような感覚だった。


 こんな感覚はきっと世界最高の大学に合格しても味わうことはできない。紗英は何度も大きく息を吐く。それでも簡単には落ち着けそうもなかった。


「大丈夫かい?」


 壁に手をついていて、後ろなんて見ていなかった。ふいに声をかけられて肩を軽く叩かれた。


 紗英の全身を走っていた熱は、氷水をかけられたように瞬間で冷え切った。本屋の店員か、警察か。そう思って振り返る。


「たしか君は三年A組の、市川さん、だったかな?」

「えっと、生徒指導の」

「よく覚えていてくれたね。市川さんみたいな優等生とは縁がないから」


 弱々しい微笑みを浮かべているのは、生徒指導教諭の白烏怜央しろうれおだった。成績も学校での素行も優秀な紗英は話したことなど一度もなかったが、白鳥しらとりとよく呼び間違えられるという話をよく聞いていたおかげでなんとか名前を思い出せた。


 名前の通りの真っ白なプラチナブロンドの髪は母親譲りのものだと聞いたことがある。同じく不健康そうに見えるほどの白い肌に柔らかな物言いで、どうして生徒指導になんて選ばれたのか疑問に思えた。


 真っ黒なストライプスーツに血のように赤いネクタイ。高い鼻にかかったリムレスのメガネが夕日を反射してあやしく光っていた。


「えっと、ちょっと気分が悪くなってしまって。もう大丈夫です」


 そう答える紗英の首筋には冷や汗が流れていた。警察と変わらないくらいに会いたくない相手だった。カバンの中を見られたとして、それが買ったものか盗んだものかなんて白烏にはわかるはずもない。そう信じて紗英は取り繕う。


「本当に大丈夫なので、私はもう帰りますから」

「それはできませんよ」


 紗英の腕を白烏が乱暴につかむ。今までのイメージとは違う。地獄の底から響くような低い声だった。


「ずいぶんと手慣れていましたね」

「何の話ですか? 私、帰ります」


「そうはいきませんよ。と言いたいところですが、あなたも卒業前に退学なんてことになってはかわいそうでしょうから」


 そう言って白烏はスーツの内ポケットから真っ白な封筒を取り出した。


「明日から学校に来ていただかなくて結構ですよ。後はこの封筒の中身に従ってください」


「それって、どういうこと!?」


 問い詰めようとする紗英の言葉を無視して、白烏は去ってしまった。


 残された紗英は息を整え、封筒を破り開ける。中からは薄赤色の紙が一枚だけ出てくる。中には令状のように簡素な指示が書かれていた。


『貴殿を三年M組への編入を命じる。M組生は二月一日にC棟多目的教室に出席すること。なお、出席のない場合は当校を退学処分とし、貴殿の秘密は公に暴露される』


 秘密、という言葉に紗英の首元は冷や汗で濡れそぼるほどだった。


「何よ、これ」


 三年生は六クラス。F組までしかない。M組なんて聞いたこともなかった。


 もらった赤紙を握り潰す。それでも破り捨てることはできなかった。


「どうせ冗談でしょ。もう学校には報告されてて。でも」


 もしも本当に二月に出席すれば秘密が守られるというなら。紗英はその一粒の砂のような可能性にでもすがりたい気持ちだった。


 親には言えない。紗英は毎日変わらず登校する振りをして図書館やネットカフェで時間を潰した。


 そして二月一日。紗英は赤紙の指示通り、C棟多目的室に向かった。三年生の教室があるC棟は受験シーズンということもあって、あまり生徒はいなかった。多目的室にも誰もいない。ドアの近くのスイッチを押しても明かりはつかなかった。


「やっぱり冗談だったのね」


 溜息が自然と漏れた。ここまで無断欠席になっているだろう。いや、もう退学処分になっているかもしれない。


「帰ろう」


 そう言ったものの、紗英はその場に崩れ落ちて立ち上がれなかった。


 目眩めまいがする。視界が歪む。頭が殴られたように痛む。


 意識が遠のいていく。立ち上がる気力は残っていなかった。そして紗英は深い深い絶望の闇の奥へと沈んでいった。

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快楽を綴じる書店~僕たちが高校を卒業できない理由~ 神坂 理樹人 @rikito_kohsaka

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