五之書 静謐
―――八年か……。
朝餉の支度をするあさぎの姿を見ながら八千代は感慨にふける。あさぎの帰宅からの八年間、それはまさに栄光への道のりそのものだった。あさぎの後ろ姿を眺めていると自然に『栄光への架け橋』と言うポピュラーソングを八千代はハミングしていた。
桜花女子大学付属高校へ進学したあさぎは、入学受付のその日に剣道部顧問の教師と校長・教頭に待ち受けられていた。柳生からの声がかかっていたのである。日本剣道連盟の段位は持っていないあさぎであったが、最年少、しかも女子の身で柳生の免許皆伝を得ていることが伝わっていた。平身低頭で剣道部への入部を依頼する教師達にあさぎは明るい笑顔を返し、頭を下げて了承した。
上級生の剣道部員はとてつもない大型新人の入部を知らされていた。が、校長らがいそいそと連れてきた少女は小柄で大きな目の愛くるしい美少女で、声も透き通ったものだった。剣で鍛えた者独特の声ではない。彼女らに軽愚の色が見えたのも止む得ない。朗らかな笑みで「これからよろしくお願いします」と頭を下げたあさぎだが、その軽愚を見抜かぬ筈もない。道場を後にしたあさぎは入部条件に部員全員との総掛かり試合を希望した。桜花女子大学付属高校剣道部は創立以来七十年の歴史があり、華族や士族の腕に覚えのある娘達が凌ぎを削った所から始まっている。創立当初より全国レベルの水準の高さで名を馳せ、未だ地に墜ちていない。今は日本全国から推薦枠で入部する部員が半数。部員総数は七十名余り。盆・正月も休むことなく苛烈な稽古を続ける。新入部員の殆どは夏には血の小便を出して昏倒するような所だ。それを乗り切った七十名余と総当たりと言うのはらち外である。が、顧問は受けた。柳生の免許皆伝がそのらち外を遙かに凌ぐものであると心得ていた。が、いざ試合が始まると、その顧問ですら顔色を無くした。あさぎの剣筋は竹刀剣道とはまるで違った。正に叩き斬ると言う言葉が相応しい壮絶な打撃をする。古流にありがちな太刀筋だが、普通は竹刀剣道の迅速な業の前には田舎臭いもので、試合ではものにならない。が、あさぎの太刀は洗練されていた。なにより大振りであるに関わらず、竹刀剣道の技並みに早い。あさぎの打突は面、小手、突きに限られていたが、殆どの部員が一撃を受けると立てなくなった。面や突きを喰らうと気絶する。小手を取られると竹刀が握れなくなる。なにより不気味なのは竹刀が擦れ合う音すらしないのだ。あさぎは試合開始と同時に中段の構えの見本のような姿で音もなく間合いを詰める。それだけで異様な恐怖に殆どの部員が飛ぶように引く。叱咤の声に、前に出ようとする。その瞬間に技を取られているのだ。
日本剣道連盟の下で行われる竹刀剣道は北進一刀流に極めて近い。互いに剣先を小刻みに動かし、剣を摺り合わせながら打ち合う。初撃で一本決まる事は少ないから、鍔迫り合いとなり、互いに気息を計りながら離れる時も技を出し合う。手数が非常に多くなる。だが、その技の早さは一般人の動体視力を遙かに超える。大技である遠間からの面の一撃が0.3秒(成人男子)である。技の応酬ともなれば、互いに勢いよくすれ違ったとしか見えない。が、剣の達人とも言える審判員は、一般人には同時の打突にしか見えない技の優劣を見極める。0.1秒あるかないかの技の差を正確に捉える。超スローカメラでも差が分からない世界だ。
あさぎの剣は竹刀剣道の常識を凌駕していた。竹刀剣道の癖で剣先を摺り合わせようとした時には、僅かな切っ先のズレに生じる間を、それこそ目にも止まらぬ速度で飛び込み切り倒す。相手はあさぎがいきなり消えたように感じる。感じた時には意識を持って行かれるような衝撃に見舞われる。
僅か七、八分の間に部員の七割が一撃で昏倒すると言う異様な光景に意識のある者は戦慄と恐怖を覚えた。しかし残る部員は全校代表の座を争う猛者だ。あさぎに普通の剣で対応出来ぬことを悟り、スタイルを変えて来た。大抵は大柄でそこらの男よりも筋力がある強者だ。ある者は上段で圧倒しようと試み、ある者は最初から突き一本に賭けているのが分かる構えであさぎに望んだ。結果、強い者ほど悲惨な結末を迎えた。雷撃のごとき突きで望んだ主将は突き返し突きと言う、伝説の技で喉を破られ、道場の羽目板に突き飛ばされた。突きのクロスカウンターだと思って貰えば良い。彼女は大喀血して一ヶ月の入院を余儀なくされた。他のレギュラーメンバーも同様である。防具を着けた竹刀の撃ち合いで、手首にヒビを入れられるとは普通思わない。上段からの面を飛翔してかわし、脳天に金属棒を打ち込めれるような衝撃で、痙攣して意識を失う者もいた。試合開始から僅か十五分後には、自力で立てる部員は居らず、校内に救急車のサイレンが轟く事態となり学校関係者はおののいた。
あさぎはショックのあまり立ち尽くす顧問に言った。にこやかに笑っていた。
「先生。心配しないで下さい。本気出すのはもうしません。普通の竹刀剣道も出来ますから」
その年の王竜旗大会には、あさぎは自ら望んで先鋒で出た。王竜旗大会史上初の四十人抜きで、桜花高校を優勝に導いた。何のことは無い。あさぎ一人が戦い、自校の次鋒以下に順番を渡さなかったのだ。オール一本勝ち。竹刀の打ち合う音は無く、あさぎの化鳥のような掛け声と、その激しい打突の音のみがすると言う異様な試合だった。極一部の剣道関係者の間では、すでに恐れを持って知られていた『鳴神あさぎ』の名は畏怖の代名詞の様に全国に知れた。剣道関係の雑誌は一面トップで、全国新聞もスポーツ欄に写真入りで報じた。一見アイドルのような愛くるしいあさぎの笑顔が売れると思ったのだろう。その時、あさぎを大々的に報じた『剣道日本』と言う雑誌は半年後には数十万年の高値でオークションで落札された。インターハイ女子剣道優勝。全日本女子剣道大会優勝。高校一年生で剣道界にデビューしたあさぎは段位を持っていなかったこともあり、メディアからの注目が集まった。試合中の凄まじさとはかけ離れた、面を取った時の華やかな笑顔は全国規模で映像が流れると同時に、剣道を志す幼い少女を虜にし、剣道などまるで知らない軟弱な少年・青年達の心も奪った。彼らは剣を知らぬが故に『音無しの剣』『無敵の美少女剣士』と言うマスコミの煽り文句に釣られて心を奪われた。その成人男子にも見られない凄まじい突きは彼らの間で『牙突』と呼ばれ、鳴神の家の前には常にカメラを持つオタクな人々が集まり、威三郎が怒号を持って追い払う日々になった。
皮肉なことだが、こういうことを最も嫌う妹の遙日も彼らオタクの目に止まり、話題になった。それこそ息を飲む様な美少女である。人を近づかせない独特のオーラは逆に畏敬を呼び、オタクの世界では『妹君』『姫神』と言えば遙日を指す代名詞となった。
鳴神道場にはひっきりなしに入門希望者が押し寄せ、また、あさぎの凄まじさを知った古武道の達人も立ち会いを申し入れるようになった。半ばノイローゼになりかけた鳴神夫妻であったが、それは一年もせず解決された。皮肉なことに原因となったあさぎの人脈が物を言ったのだ。あさぎは柳生で高貴な来客があれば必ず接待をしていた。茶席では主人として振る舞い、その見事さは著名で、相当な愛顧を受けていたのだ。この国で貴人と呼ばれる人々はその気になれば、大臣の首を変えることすら造作もない。鳴神家は制服警官ではない公安関係者が二十四時間監視に付き、カメラを持つようなオタクは有無を言わさず一晩臭い飯を食う羽目になった。根性は無くても情報伝達は異様に早いオタク達はあっと言う間に見かけなくなった。また、あさぎと遙日の登下校もどこからともなく現れる黒い高級国産車が請け負った。運転手はいつも同じだが、登校の経路は順次変えていた。
道場の入門は審査制にするこで凌いだが、問題は月に一人は現れるあさぎとの立ち会いを所望する輩であった。これは、あさぎが解決した。彼らにあさぎはまず、柳生へ行くよう申しつけた。柳生が立ち会うべしと言えば、柳生で試合うとしたのである。柳生からそのような連絡が来たことはこの八年間ついぞない。天下の柳生は伊達ではなかった。
威三郎は何も言わなかったが、あさぎが柳生でも御しかねた化生である事がさらに重く威三郎をおののかせたのだった。
爾来、威三郎はあさぎの目をまともに見れない状態に陥るのだが、八千代にはそう言うことは分からない。あさぎが公式、非公式を問わず、只の一本も与えず常勝を誇り続けていることを誇りにしている。非公式の試合では全日本を三度征した警視庁の誇りと呼ばれた男ですら、突きの一撃で病院送りにしている。ただ、この試合でのあさぎの突きは沖田総司にしか出来ないと言われた三段突きで、敗れた男が逆に賞賛されたと聞いている。八千代も剣を嗜んだ身であるが、三段突きなど想像すら出来ない。ただ、そんな神業を引き出せると言うのは確かに賛辞に値するのだろうとは思う。
あさぎは常勝のまま、難関とされる地元の国立大学へ進み、心理学を専攻して教員免許を修得した。無論、大学でも剣道部に在籍しながら学問に励み、優秀な成績を収め、ゼミの教授からは大学院へ進むよう言われたのを断って教員の道を選んだ。あさぎが教員免許を取った時には、どこで聞きつけたのか、日本全国の剣道の強豪校から誘いが殺到したが、あさぎは家を出たくないと言い張り、地元の文武両道で有名な高校への就職を決めている。本来の教員の給与とは別に剣道部顧問の報酬も提示されたが、それは本給を大きく上回り、流石のあさぎも戸惑いを隠せなかった。それは年頃の娘らしい愛くるしい戸惑いで、八千代は思わず抱きしめたくなる衝動を必死に抑えたものだった。
思えば、家を出たくないと言うあさぎの意志は、幼少期に家を追われた反動かもしれなかった。そう思うと八千代はあさぎがずっとこの家に居れば良いのにと思ってしまう。高校教師に収まった鳴神あさぎを惜しむ声は多く聞いている。あさぎは今や日本剣道連盟の看板そのもので、日本はおろか外国にもその名は知られる。高貴な名門の家中に呼ばれ、剣技や茶道の腕を振るうことも少なくない。あさぎは謝礼を頑として受け付けないので、お礼の品として届けられる物は目を見張るものがある。その一つを売るだけで、生涯喰うに困らないような品だ。流石に今は慣れたが、最初の頃は迂闊に触ることすら恐ろしかった自分を思い出し八千代はクスリ笑う。そう言う娘だ。婿養子を取ることに無理があるとは思わない。残念ながら、あさぎを神の様に崇拝する男は多数いるが、対等な関係を結ぼうと言う者はいない。それは、高校・大学時代のあさぎの友人も同様で、皆、敬称であさぎを呼び半ば畏怖すら感じさせる。その意味ではあさぎは今も孤独なのかもしれない。
孤独と言えば、あさぎの神業とも言える三段突きが実戦で披露されたのはこの時限りである。
あさぎの三段突きを受けた相手はそれを境に公式戦から身を引いた。
『孤独の女王』
何とも寂しげな呼称があさぎに定着したのは、この試合以降である。同時にあさぎも滅多に試合に応じなくなった。武を誇る神社の奉納試合や、名家の招きで形や居合い斬りを披露することが増えた。
白鴎神社からは三回招きに応じ、その三回目に『天下無双』と刻まれた文字通り純金製の金看板を授けられ、以後の参加を固辞された。武道の水脈が枯渇すると各流派からの進言があったと言う。あさぎは「重い」と言う理由でその看板を受け取らず帰った。
あさぎが出る公式試合は日本大会のみになったが、その剣風は一変した。それまで、あさぎの出る試合には救急車が待機したものだが、その必要がなくなった。あさぎの持ち味であった閃光のような打突が消えた。常人並みになった。それでも打突の激しさは凄まじかったが、今までのように一撃で相手が立てなくなることは無くなった。鳴神あさぎは漸く手加減を覚えたのだ。しかし、明かな手加減で試合に臨んでもなお無敵。未だ、鳴神あさぎから一本取る者はいない。それ故の呼称であった。面を外している時は常に在ったひまわりのような笑顔は道場から消えた。あさぎは後身の育成に心血を注ぐようになったが、その稽古は苛烈を極めた。それでも、あさぎに憧れる剣士は後を絶たず、稽古で気を失っても「参った」の一言を言う者はいなかった。
柳生流は実戦剣道の中でも洗練されたものである。それでも試合では弱かったのだが、鳴神あさぎは実戦剣道こそ極めれば竹刀剣道が及ばぬ事を立証した。これは日本剣道連盟にも大きな波紋を与え、早さだけの重みの無い打突では一本と見なさなくなった。が、それも鳴神あさぎが全国大会に義理で出るように変わってからの話だ。それでも前人未踏の八連覇である。噂でしかないが、八千代はあさぎが全日本剣道連盟の幹部を前に引退を懇願したと聞いている。あさぎは無念だろうと思う。残念だろうと思う。こんな形で剣の世界に孤独を感じた者は古今問わずいないと言えた。
残念と言えば、遙日である。
遙日は中学の頃からその美貌で町内に知れ渡る程だったが、年頃になるにつれ、八千代ですらおののきを覚える女神のような美貌を持つに至った。姉のあさぎとは会話を普通に交わしているようだが、両親とは徐々に口を利かなくなった。加えて、高校生の頃から放浪癖が出た。女子高生の不良の放浪癖とは趣が違う。八千代には良く分からない山深くの霊地などへふらりと出かけ、一夜明けて帰る様な奇癖が出た。叱るよう威三郎に願ったが、威三郎は遙日には異様に甘い。一応、どこへ行ったか尋ねはするが、そこにどんな神がおわすかを聞いただけで喜色を浮かべて「良く帰った」などと言うのである。あさぎには真逆で、娘らしく良く喋るあさぎには生返事しかしない。あさぎが家の道場に出る日は道場にも行かず書斎でごろごろしている始末である。
あさぎは剣さえ握らなければ、明るい普通の娘だが、なまじ不敗伝説を打ち立てたばかりの孤独がある。それは本人が望んだものではないだろう。遙日はその人離れした美貌で崇拝に近い対応を受けている。美しくなればなるほど口数が減り、神秘性を帯びて同性の友人も声を賭け辛い。一人、深山に入るような奇行は増えていった。まるで自ら孤独を選んでいるようだと八千代は思う。威三郎が遙日ばかりを構うからか? 八千代は正直、あさぎの方が可愛い。少なくともあさぎが言わねば、遙日は台所に近づきもしないのだ。
八千代にすれば、女としての魅力はあさぎにあると思う。確かに美貌は遙日が上だが、それは人の域を離れてしまっている。あさぎは高校生の頃は剣道界のアイドル扱いされた程に愛くるしかった。成人してからは落ち着きが加わり、一本筋が通った美人になったと八千代は思っている。少なくとも若い時の自分など足下にも及ばない。
が、およそ愛想と言うものを無くした遙日には男が出来た。あさぎには男の気配すら無いと言うのに。
随分、年上の男であったが渋く落ち着いた男前で、新進の日本画家であると言う。遙日と付き合うに当たり、威三郎と八千代に挨拶に来る辺りは好感が持てた。が、指定の日時は姉のあさぎが全日本大会へ赴いている日であった。八千代は女の勘で、遙日があさぎを避けたものと思った。威三郎は文句こそ言わなかったが始終不機嫌で、遙かに若い男と比べても大人気ない態度に終始した。
今、遙日はその日本画家の家に泊まり込みである。個展の準備を手伝っている。その旨は事前に遙日が両親に説明した上での話だから咎めるに能わない。が、遙日が決めたことを覆すことは八千代は勿論、威三郎にも出来ないことを遙日は承知している。
ずるい。
遙日のことを八千代はそう思う。その所為もあってか、朝餉の支度に励むあさぎの背中が輝いて見える。すると、ひまわりの様な笑顔であさぎが振り返った。
「出来たよ。母さん」
いつもの合図で、八千代はあさぎと共に配膳を済ませて、書斎に籠もる威三郎を呼びに行く。
朝餉の間、居間のTVを点けて眺めながら食事をするようにあさぎは変わった。柳生から帰ったばかりの頃は、食事中にTVを点けたりはしなかったが、ここ最近随分とくだけた様子だ。TVのニュースを話題にたわいも無い話をしてはコロコロと笑う。八千代も釣られて笑うが、遙日がいないと威三郎は仏頂面を隠しもしない。あさぎが話しかけても生返事である。 あさぎは健啖家だ。食事の量は多い。まぁ、運動量と仕事内容を考えれば、あれぐらい食べないと倒れるだろう。激務だと言うのに、未だに陽の出前に起きて走り込みは欠かさない。その体力と精神力は凄いものだとあさぎは思う。
両親より早く食事を済ませると、あさぎは手を会わせると自分の食器を流しに運ぶ。昔は洗い物まであさぎがしていたが、大学生になってからは八千代が言い出して、遙日と共に洗い物をするようになった。まぁ、その遙日は今は居ない訳だが。
あさぎは伸びをしながら、のんびりと階段を上ろうとする。ふと違和感を八千代は覚えた。いつもはもう少し、きびきびと動く娘だ。
「あさぎ、今日はお仕事は?」
「ああ。創立記念日だから休みだよ。久々にのんびり出来るわ」
そう答えてひらひらと手を振るとあさぎは自室に戻った。
休みだから遊ぶと言う発想もお誘いもあさぎには無いらしい。
まぁ、休みの日にはどこかの名家からの迎えの車がやってくるような娘だ。およそプライベートの時間は無い。住む世界も感覚も違うのだろうと八千代は思う。
そう言えば―――と八千代は思い出す。遙日が天野と言う男を連れてきた翌日。当然のように全日本を征して帰って来たあさぎに、八千代は秘め事を話すような仕草で遙日の一件をあさぎに告げたのだ。
「へぇ。はるちゃん。やるじゃん」
あさぎは素直に祝福らしき言葉を言った。
あさぎは顔がとにかく広い。驚く程に広い。だから八千代は尋ねた。
「天野忠臣って言う日本画家の人だけど知っている?」
荷物も玄関口に置いて、あさぎはあごに指を当てて宙を見る。
「天野……天野忠臣……ああ! 成る程。あの男ならはるちゃんから惚れ込むわ」
「会ったことがあるの?」
「すれ違ったことはあるかも? でも、絵は知っているよ。ああ言う絵は普通は描けないわね。天才とは言わないけど、奇才よ。一部の好事家ではもてはやされつつあるわ。はるちゃんとはお似合いだよ」
「ちゃんとした人なのかねぇ。画家なんて食べていけるのかしら?」
「絵を見る限り、筋を通す人だと思うわよ。食べる心配はないんじゃないかな? 一流で名が残るかもって聞いたから。少し病弱と聞いたけど、そう言う所もはるちゃんの保護欲を駆り立てるんじゃない?」
あさぎはそう言うと、あははと笑い、威三郎へ優勝の報告へ行ったのだった。
なぜ、そんなことを思い出したのかと思っていると、威三郎が箸を置き、八千代を見ていた。
「あ、お茶ですか?」と尋ねると、威三郎は顎で頷く。旧態然とした男だなと思いながら、八千代は茶を注いでやる。威三郎は茶で喉を潤すと、珍しく言いよどんだ口調で言った。
「八千代。後であさぎに、遙日の様子を見てくるよう言ってくれ。一度、帰れとも伝えてくれ」
そう言うと、威三郎は仏頂面のまま、八千代を見ずに箸を動かせた。
(―――呆れた)
八千代はそう思う。
あさぎは今の今まで目の前にいたのだ。自分で言えば良いのにと八千代は思う。まぁ、県警の師範代もあさぎに奪われそうだと言う。日本剣道界の女神のように崇められるあさぎには、威三郎としては古い剣道家としての沽券があるのだろう。素直に祝うには威三郎の過去の名誉が邪魔をする。夫に哀れを覚えると同時に老いを見た気が八千代はした。
しかし、折角の休みに他県まであさぎに行かせるのはどうかと思う。無論、あさぎは頼めば拒まない。そこは遙日と対照的だ。そして遙日はあさぎにだけは逆らえないのだ。その遙日を連れ戻して来いとあさぎに言うのは、あまりにあさぎを軽んじている。あさぎが哀れだと八千代は思う。威三郎も承知してなお、言わずにいれないので八千代に言を預けたのだろう。八千代は深いため息をついた。
威三郎は無言で朝餉を食べ終わると、おざなりに手を会わせ、無言で書斎に戻る。食器は置いたままだ。普段は何とも思わないが、流石に今日は、食器くらい片付けろと八千代は思った。
食器を洗い終えた八千代は重い気持ちで、あさぎの部屋に向かうべく階段を上りかけて、ぞっとする思いで足を止めた。階段の上に巨大な龍が居て、それが八千代を睨んだ感じがしたのだ。
無論、龍など居ない。
往年の勘が八千代に戻っていた。龍はいない。が、まるで階上が氷室であるかのように、身が縮み、動きが止まるような冷気が階上から下りて来ている。何度か全日本大会に出た八千代にはそれが分かる。剣気だ。超一流の達人がそれを放つ。闘気でも怒気でもない。自身その者が抜き身の日本刀の一部になるまで鍛え上げた者のみが放つ気が剣気だ。相手を据え物にして只斬る。それは無念無想とは違う独自の境地である。無機質で、その気に前では自ら刃の下に首を差し出しかねない気だ。故宮崎春雪はその気を放てた。八千代も宮崎春雪以外にはその気を放つ人物を知らない。そして春雪とて、常に剣気を纏っていなかった。が、この圧倒的な質量の剣気は何だ? 八千代は震え上がる。同じ剣気でも宮崎春雪が放つ物とは桁違いである。もう一段階段を上がれば、その澄んだ巨大な氷塊のごとき剣気に包まれる。そうなれば、自分は息も出来ずに卒倒するだろうと八千代は思った。
今、上にいるのは愛娘のあさぎだけだ。
(これが、あさぎ?)
息を飲む驚きで八千代は思う。その気は強大で剣気を超えて神気に近い。道理で無敵だ。人で相手が出来る筈も無い。
が、何にせよ、これでは上に上がれない。試しに八千代は娘の名を呼んでみた。と、巨大な氷塊のような気がすうと潮が引くように消えた。
「なに? 母さん?」
明るい娘の声が帰って来る。やはり、あさぎなのかと八千代は愕然とした。
「今、いいかしら? なにかしてるの?」
「うん? いいよ。別に」
階下から呼びかける母に不思議そうな声であさぎは答える。
八千代は恐る恐る階段を上がった。ちなみに、あさぎが帰ってからは鳴神家は収入が鰻登りで数年前に大きな武家屋敷のような家に建て直している。あさぎの部屋は南東の端で十二畳の畳部屋である。その部屋の前で八千代は息を飲んだ。先程の様に触れれば死ぬような剣気は無い。それでも入るのを躊躇う剣気は漏れている。あさぎの部屋から。
「入って良いかしら?」恐ろしくて声をかけずにいられない。
「娘に何、遠慮してんのよぉー」
くだけた娘の声が答える。が、剣気は消えない。
ままよと襖を開けた八千代は「―――ひっ!」と声にならぬ悲鳴を上げて腰を抜かした。
あさぎはスェットスーツであぐらを組んで、八千代に背を向けている。つまり窓に向かってあぐらを組み、無造作に抜いた菊一文字を左手で掲げ、その刃紋を陽光に翳して見ていたのだ。が、八千代には部屋に入った瞬間、その切っ先が喉元に伸びた様に思えたのだ。
「あれ? ごめん。驚かした?」
てへへと笑い、あさぎは刀身を鞘に収めた。八千代は心底ほっとした。漸く口がきけるようになった。
「で、なあに? 母さん?」
あさぎは剣を手前に置くと、胡座の姿勢は崩さず、上半身のスクラッチをしながら尋ねる。八千代は口籠もりながら言った。
「あの、あさぎ。折角の休みに悪いのだけどね―――」
威三郎の言を告げると、あさぎは嘆息して言う。
「はるちゃんだって、遊びに行っているんじゃないのに……。父さんも歳なのね。行くわ。私も天野さんには会いたいからね」
―――でも。
あさぎは言葉を繋ぐ。
「天野さんが困るようなら、連れ帰るのは無理よ。もう、嫁に出した様なものなのだから……」
「そんな話は認めてないわ」
八千代が憮然と答えると、あさぎは苦笑して頭を掻く。
「母さん、高校卒業した者同士が一緒になると言えば、反対なんか出来ないわよ。ああ、わたしも男欲しいな~」
くだけた口調で本音を漏らしたあさぎに、八千代は何とも言い難い気持ちになる。男が出来れば、あさぎも家を出る気なのかと思うとやり切れない。
あさぎは手前に置いた菊一文字をぽんと叩く。
「この刀の手入れしたら出かけるわ。彩宮の和菓子で良いよね? お土産?」
「あんな高級店―――大体、あそこは予約した分しか作らないお店でしょう?」
「表向きはね。わたしの顔なら、お土産程度揃えてくれるわ。それにね母さん、日本画の世界はどんな大物が来るのか分からないのよ。何時でも一流品でお持てなし出来ないと大成しないのよ」
それは分かる。身に浸みて知っている。希にあさぎに来客が鳴神の家に来ることがあるが、尋常な身分の方では無い。あさぎは振り袖で出迎え、茶を点ててもてなすが、茶道具は昔の公家が柳生家に献上した代物で、博物館クラスである。茶碗も一個で豪邸が建つ様な代物をあさぎは平然と使うし、相手も価値を理解し褒めるが、平然と使う様な人物だ。 柳生が何故、あさぎにこう言う品を譲ったのかは、あさぎの将来を見越していたからだろう。故にあさぎに来客がある時は威三郎も八千代も生きた心地がしない。遙日は身分や年功序列を気にかける娘では無い。乞われて同席しても対等に振る舞う。そう言う遙日の態度に毎度肝を冷やす八千代と威三郎だが、なぜか遙日の振る舞いはそう言う貴人には高く評価され、愛されるのだから世の中は分からない。
「すまないけれど、お願いするわね」
八千代はあさぎの背中にお辞儀して立とうとする。あさぎは黙って頷き、又、菊一文字を抜いた。八千代はそれにビクリと身体を強ばらせる。退室しようとした所に、何気ない口調で刀を見つめたあさぎが言う。
「ああ、母さん―――」
「な、なに?」
八千代は身構えてしまった。その気配にあさぎが苦笑するのが分かる。
「わたしはさ。この家の娘だよ。それ以上でも以下でもない。だから、母さん―――」
八千代は息を飲む。
「せめて母さんだけは娘として見てね。でないと―――」
その先の言葉はあさぎは飲み込み言わなかった。八千代はあさぎの抱える孤独のあまりの大きさを見た気がした。だから、背筋を伸ばし、凜と言い放った。
「馬鹿言うんじゃない。貴女は生まれる前からわたしの娘よ。だから―――」
そこで八千代は茶目っ気を出せた。
「男が出来ても簡単に手放さないわよ。覚悟しない」
あさぎはカラカラと笑った。
「そいつは参った。早く相手を見つけないとね。親子喧嘩も出来ないや」
八千代も笑うと「そうよ。早くしなさいよ」と答え、部屋を出た。あさぎは遂に振り返らなかった。
階段を下りながら、八千代はかって自分があさぎがひまわりの様だと自慢したのを思い出した。それを遙日が否定した。あさぎは花に喩えるなら曼珠沙華なのだと言ったのを思い返した。
遙日の真意は分からない。だが、今のあさぎは確かに曼珠沙華かもしれないと八千代は思った。その美しい鮮烈な朱色の花は人をして魅了せずにはいられない。しかし、近づき愛でたり折るような真似が出来ない。この世に在りながら、異界の美を示す孤高が曼珠沙華にはある。
あさぎは何時、男を連れて来るだろう?
八千代は祈るようにその時を期待した。
(了)
曼珠沙華 桐生 慎 @hakubi7
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