四之書 化生の舞

 白鷗神社のある山は綺麗な円錐形をしていて、周りの山脈からは離れて独立して見える。約二千年に渡る厳しい禁則の掟は、それ自体がご神木であるような数千年の樹齢の大木が蔓延る異界を形成している。山頂付近には巨大な磐坐が林立する異様なものだが、それを知るのは野試合に出た者だけだ。中腹に滝があり、そこから清流が流れる。春日野健司は隣町で電車から降りると、獣道を選んで山奥に入った。山奥と言っても日本の山林は殆ど人の手が入って植樹されている。だから、少し鍛えればその山中を行き来するのは難しいものではない。春日野はある程度山奥に入ると、大木を探す。目当ての大木を見つけると、するすると登って、太い枝に寝転がる。すぐに眠りに落ちたが、半時程すると人の声がしたので、半覚醒の状態で薄目を開けた。肉体はまだ眠っており微動だにしない。

「いたか?」

「いや、見あたらない。確かにこちらへ来たのだが……」

 春日野は緩慢な動作で顔を下を向ける。日本刀を持った男が二人騒いでいる。少し離れて長槍を手にした壮年の男が静かに佇んでいる。髪が長く腰まであり、眼光は鷹の様だ。

(―――ほう。出来るな。あの得物と外見。槍術の長瀬水樹か……)

「―――声を上げるな。禁足地に入ればどの道出会う。先へ行くぞ」

「長瀬さん、大した自信だが、春日野と柳生の鬼百合は倒せる時に倒すに超したことはない。たとえ三人掛かりでも」

 長瀬はあからさまな軽愚の目で二人を見る。

「ならば貴公らは捜索を続けるが良い。私はその二人とは正面からやり合うつもりでいる。貴公らとは、たまたま山中で出会ったに過ぎぬ」

 枯れ枝や落ち葉が堆く積もった上を、まるで体重が無いかのように長瀬は歩む。春日野は長瀬が足袋しか履いていないのに感心したが、そこで興味を失い再び深い眠りに落ちた。慌てて長瀬を追う騒がしい足音は雑音とさえ意識されなかった。


 つるべ落としと言う言葉があるが、深山の森の夜は何時だってつるべ落としだ。陽の色に僅かに朱が混じれば、山で生計を立てる者でも早々に下山する。山の夜はまるで視界が効かないコールタールのような闇だ。独自の質量を持つ闇は畏怖を駆り立て人の世界ではなくなる。夜陰がつるべ落としなら、夜の山の冷気も唐突だ。一気に冷え込む。その冷気は人里のそれと異なり、質量のある冷気だ。ずっしりと重くのしかかかる。

 大木の上の太い枝に横たわっていた春日野の肉体が、密度の増した闇の冷気に覚醒する。春日野の横たわる枝はそれ自体、人一人が横になっても、まだ余裕のある代物だが、当然、人が寝るような形に伸びている訳ではない。そのような場所で熟睡するには、それなりの修練が必要だ。熟睡しても枝から落ちぬよう無意識にバランスを整える技が要る。

 忍者が跳梁跋扈していた時代なら、自営も兼ねてそういう技も必要だった。また、それが出来なければ剣の修行に全国を行脚するのは不可能であったし、その域に達した達人でなければ生き残ることは不可能だった。現代ではそんな術は必要無い。剣の修練の中で春日野が自然に身につけたものである。

 肉体が目覚めると共に春日野の精神も目覚めた。目を開けると満月が青く輝いている。

(新月ならば良かったな……)

 春日野は漠然とそう思う。自分の手先も見えぬ闇でも春日野は自在に動ける。戦うならそういう闇が望ましかった。春日野は寝そべったまま、全身の重心を僅かにずらす。春日野の肉体は自然に落下する。五メートル程の落下の間に春日野は猫の様にくるりと回ると足から着地した。首をこきこき鳴らしながら、春日野は舗装された道を歩むように白鷗神社のある神山を目指す。春日野の足下には枯れ枝や枯れ葉が堆く積もっているが、足音はしない。ちなみに春日野は裸足だ。その足の皮は修練で靴底の様に厚くなっている。いったん稜線を下り、再び登りの斜面が出ればそこは白鷗神社の聖域である。春日野の足なら半時もかからない。聖域の森はこれまでの道程とは一変する。少なくとも二千年以上人手が入らぬ原生林だ。足下には人の胴体程の太さの根が縦横無尽に覆っていて、夜で無くても普通の人間には進めるものではない。寿命が尽きて倒れた大木がいきなり転がっていたりする。あちこちに巨岩も顔を出している。それら全てが深い緑の苔に覆われているので、普通に進めば足が滑る。聖域に入ったとたん、春日野の動きは激変していた。原生林だから月明かりも届かぬ闇だと言うのに、春日野は地形を把握しているように天狗の様に飛んで進む。その速さは尋常で無い。まるでスプリンターである。

 唐突に春日野は苔むした巨岩の上で立ち止まった。

 大量の血と贓物の生臭い臭いが風に漂っている。

 春日野はその方向に飛んだ。岩から転げ落ちた骸と大木に背を預けた骸が転がっている。長瀬に置き去りにされかけた例の二人であった。二人とも抜刀していない。いや、岩から落ちた骸の側には小刀が転がっている。小刀の鞘は骸の腰にある。春日野はうつぶせの骸を足で仰向けにした。腹を真一文字に切り裂かれ、贓物がはみ出している。首の動脈もばっさりと斬られて、未だ血を吹いている。岩の上から血痕が続いている。もう一つの骸は岩の下の巨木にある。こちらは刀の柄に手をかけているが、抜刀にいない。心臓を深く一突きされて絶命している。長瀬の槍によるものは明らかだ。

(愚かな輩だ……)

 そもそも、この野試合に群れると言う発想を抱いた段階で死は決定されていた。そして長瀬のような化生と行動を共にするのが決定的な過ちだった。長瀬はこの二人が随行した段階で、最初の得物に決めていたはずだ。春日野は状況を見渡し、瞑目する。二つの骸に興味はない。長瀬の立ち会いを読んだのだ。

 すぐに分かった。

 まず、岩の上で一人が足を滑らせたのだ、長瀬は確実に殺れる機を得た。自然に足を滑らせた男の脇差しを抜き取り、腹を切り裂き返す手で首を斬ったのだ。もう一人は慌てて間合いを取ろうと岩から飛び降りた。おそらく夜目が利いていなかったのだろう。巨木に背中をぶつけた。その瞬間、岩から矢のように長瀬の槍が心臓を射貫いたのだ。およそ一分も要していまい。

 何の感慨も無く、長瀬は即座にその場を去ったはずだが、足跡が無い。そこで春日野は思い至る。長瀬は木の上の春日野に気づいていたのだと。あの歩法なら、足音は立たない。長瀬は春日野に届くか届かないかの足音をわざと響かせ、挑みかけたのだ。

(―――よろしい。受けて立とう)

 足跡は無くとも血の臭いは残る。しかも春日野は血の臭いの個人差を感知出来る。この神山のそこかしこで血潮の吹き出る立ち会いが行われているのだろうが、春日野はそれに迷うことなく長瀬を追える。これ程の遣い手に挑発されては、昨年の勝者として応じない訳にはいかない。長瀬も立ち会いに適した場所で待っている筈だ。春日野は再び天狗の様に血の香を追って跳躍した。

 およそ半時。春日野は長瀬を追った。その半時の間に六名の参加者と遭遇したが、全員頭蓋を砕いた。只の一撃で。春日野の持つ棒は枇杷で出来ている。重く頑丈で、枇杷の木刀で打たれると、三年後には骨が腐ると言われている。並の刀剣なら軽く受け止める代物で現代では作られていない。そんなもので顔を突かれたら、人相の判別も出来なくなる。

 もっとも、春日野は六名の手練れと遭遇していながら、天狗の様な跳躍を只の一度も止めていない。骸になった者には春日野の姿を見ることが出来なかった者もいる。一陣の風が通り過ぎたら絶命していたと言う状況だ。中には太刀を抜き一閃を放った者もいるが、春日野の意識には彼らと対峙した記憶すらない。彼は無念無想で駆けた。技は無意識に出ている。春日野の肉体が対峙の記憶を宿しているが、今、神山を駆ける春日野の精神は肉体を離れ、明鏡止水の状態にある。故に対峙の記憶は後に肉体から引き出して認識したものだ。

 ―――?

 春日野は僅かに跳躍のスピードを緩めた。血の香が薄れている。そして別の無数の血の香が感じられた。

 一瞬、遅れて春日野は耳朶に響く滝の音を認識した。清々しく凛とした冷たさを感じさせる清流の香りが鼻孔を満たす。このために血の香を追う感覚に僅かな狂いが生じたのだ。

 春日野は背を伸ばして立ち、瞑目して感覚を研ぎ澄ます。

 血の臭いは十メートル程下の清流の辺りから漂っていた。

(見誤ったか……)

 清流は崖下にあると言えた。ほぼ垂直の崖は流石に下りる訳にいかない。春日野の体術なら下りられないことはないが、立ち会うには地の利がなさ過ぎる。

 と、強烈な血の臭いが眼下から立ち上った。春日野の嗅覚でも何人分の血潮なのか判別が出来ない。少なくとも一瞬前に五人は切り伏せている。血の湯気が立ち上っている。川辺に現れたのは小柄な黒い人影だった。黒の皮のライダースーツ、黒の皮の手袋、だがブーツはライダー用ではない。工事現場で使われる底に鉄板を仕込んだものだ。身体のラインが若い女性であることを誇示している。

 ―――鳴神あさぎ!

 春日野は息を飲んだ。あさぎは頭から大量の血潮を浴びている。それは湯気を立てていた。あさぎの身体から発散される血の香はもう個々の判別がつかない。ライダースーツも血が染み込んでニカワのように乾いており、動きづらそうだった。

 あさぎは川辺の五メートル手前で立ち止まり瞑目する。気を探っているのだ。あさぎは血糊を洗い流したいらしい。だが、油断は無い。こうして気を探っている。春日野はあさぎの出で立ちに感嘆と驚愕を覚えた。驚愕はあさぎが無手であることにある。得物を落とす様な娘ではない。だとすれば、あさぎは端から無手でこの神山に入ったのだ。相手の得物も知れぬこの野試合では有効な手だ。ただし相当な自分の力量への自信が無いと出来るものではない。そして、あさぎの出で立ちは野試合では実に効率的と言えた。動きの自由度もある。革手袋は血糊に染まっても得物を落とす確立が低くなる。そして鉄板仕込みの工事用ブーツはそれ自体が強力な武器になる。あさぎは野試合への推挙を聞いたその晩に姿を消している。命をやり取りする立ち会いを熟知しているとしか言えない。達人は試合相手の普段の所作を垣間見るだけで、その動きを察する。あさぎは本能からそれを避けたのだ。中学を卒業したばかりの少女に出来ることではない。

 川辺の白砂は月の光を反射して青白く輝いている。当然、あさぎの姿も月明かりに露わになっている。悪鬼羅刹のように血を浴びながら、あさぎの表情には緊張が無い。ほのかに微笑んでいる。春日野はその表情に戦慄を覚えた。殺気も緊張もない自然な少女の愛くるしい表情は、白昼に龍を見るほどの脅威があった。

 あさぎは意を決したらしい。ブーツと手袋を脱ぎ捨て、ライダースーツのチャックを下ろす。ライダースーツの下にあさぎは下着も着けていなかった。

 幼さを残す白い裸体が月光に照らし出される。鍛え抜かれた身体はそれだけで芸術品を思わせた。少女へと変貌したその裸体は神々しくさえあった。清流へ向かう際、あさぎはふっと唇を笑みの形に歪めた。春日野はその笑みに背筋が凍り付いた。果たして清流の側の茂みに長瀬水樹が槍を構え、今まさに襲いかからんと身構えていた。あさぎの異様さに気圧されているのか? 気息が乱れている。あさぎはそれに気づいて笑ったのだ。その上で全裸をさらし、水浴みをしようとしている。得物も無い状態で、一糸纏わぬ芸術品のような姿を敢えて晒している。

 春日野は喉が渇き、痛みすら覚えた。それでも心中で叫んでいた。

(長瀬! 退け! 読まれている。殺されるぞ!)

 一糸纏わず水浴みをする少女に、長槍を手にした鬼神の様な遣い手が敗北する道理は皆無だ。だが、春日野の本能が長瀬の凄絶な死を知らしめている。

 清流の中央であさぎが背を向け、髪にこびりついた血潮を洗い流し、その水気を払った瞬間、長瀬が跳躍した。

『縮地』

 武道の奥義。一瞬で間合いを詰める神業を長瀬は使った。その槍の速度、音速と言っても過言ではない。あさぎの背中から心臓を射貫く一撃は春日野にも殆ど見えなかった。だから、長瀬の動きが止まった時の光景は悪夢と言えた。

 長瀬は清流に顔を突っ込み土下座するような姿勢で止まっている。その真横に微笑んだあさぎが立っている。水に濡れた恥毛が月光に輝いていたのが印象的だった。

 あさぎは自然体で立ち、長瀬を見つめている。両手はだらんと下げている。しかし、長瀬は肩胛骨と肩胛骨の間から槍の柄を生やしていた。穂先は口中から出て、深く水底に刺さっている。長瀬の口から大量の血が噴出し、身体があり得ない痙攣に蠢いていた。

 鳴神あさぎは何の感情も無いガラス玉のような目で長瀬水樹が事切れるのを見つめていた。長瀬水樹だったものが只の肉塊となった時、あさぎは月を仰ぎ見た。まるで魂が天へ帰るのを見送るような動きであった。

(―――ヤバイ!)

 春日野は思わず鳴神あさぎの視線より逃げて、大木の後ろに隠れる。今、気づかれたら殺られる。本能的にそう思ったのだ。気息を殺しピクリとも動かなくなる。

 暫しの間の後、崖下の清流からは、あさぎが水浴びをする音が響き始めた。

(何と言う娘か……)

 春日野はそう思わざるを得ない。あさぎは自ら殺めた骸の横で平然と水浴びを再開したのだ。春日野でも骸の側に長居したいと思わない。骸に対し畏怖と嫌悪を抱くのは人間として当たり前の性である。あさぎにはその感性が無い。月光の下、自ら殺した骸の側に全裸で立ち、水浴びをする少女。春日野は頭に浮かんだその光景に戦慄した。どんな地獄絵図なのだと歯軋りする。あさぎは衣服も洗い、ゆったりとした歩みで川辺から消えた。あさぎの気配が完全に失せても、しばらくは春日野は動かなかった。半時程して、漸く崖下を覗く。槍に貫かれた長瀬水樹の骸が蒼い月光に照らされている。あさぎは槍を持ち去らなかった。無手のまま立ち去った。読めない。まるで底が読めない。白鴎神社の野試合に参加するような者は人の域を超えた猛者ばかりだ。そこに絶対の強者はいない……筈であった。春日野のような一度勝者として名を馳せた者は普通二度と参加しない。それこそ宝くじに当たるような幸運で生き残った命である。無駄に捨てる馬鹿はいない。

 が、鳴神あさぎは違う。あさぎは生死など微塵も気にしていない。絶対的強者と言う自覚は無いだろうが、負けるという考えがない。いや、こうやって人の器で鳴神あさぎを考えれば、自ずとあさぎに飲まれる。あれは人外の化生だ。無念無想で対峙し、これまでの修練が自然に発動するに任せる。それしか手は無い。春日野は漸く立ち上がり、真っ直ぐに社に向かった。


 境内へ通じる石畳の階段の最上段に春日野は座った。試合放棄と言われても仕方が無い態度だったが、背に腹は変えれない。払暁は真っ直ぐに石畳の階段から現れた。石畳の階段は白く輝きまるで陽へ至る道に見える。朝の鳥の囀りが耳に痛い。と、唐突に鳥の囀りが止んだかと思うと、一成に空へと飛び去った。空が黒く染まる。が、春日野は微動だにしない。真下に視線をやり、すっと肩に添えた棒を軽く握った。

 鳥たちの羽音が遠くに消える。すると最初からそこに居たかのように、五メートル下の石畳の階段に自然体で立つ小さな黒い人影がぽつねんと在った。それは春日野が見えていないかのように、ゆっくり階段を上って来る。三メートル程手前でそれは立ち止まり、顔を上げた。ひまわりの花を思わす笑顔を浮かべていた。

「あら? 春日野のおじさまではありませんか? お久しぶりです」

 ぺこりとお辞儀をする。

「ああ。久しい。久しぶりだね。良く私だと分かったものだ。面変わりしたのだがな」

「あら? 貴方は昔のままですよ?」

 あさぎは少女の声で笑う。だが、幼い少女の身体のラインをはっきりと示すライダースーツは真新しい血の臭いを漂わせていた。

「昔から進歩が無いと言われた気がするね」

 血臭を無視して春日野は苦笑いする。あさぎはそれには答えず、ただニコニコと微笑んでいる。先程から身体は微動だにしていない。ただ自然に立っている。気負いも警戒も無い隙だらけの姿勢。それ故に打ち込めない。自然体だからどのような攻撃にも対応出来る。たとえ銃で撃っても弾丸すら避けるだろう。

「立ち話もなんだ。ここに座りなさい」

 春日野は微笑んで自分の横の石を叩く。あさぎは一瞬、目を丸くする。そして、クスクスと笑うと楽しげな少女の足取りで階段を登り、ちょこんと春日野の横に座ると無邪気で朗らかな笑顔で春日野を見上げる。その健やかな自然と香り立つ少女の色香に春日野は僅かにたじろいだ。あさぎには殺気のかけらも無い。側に座られると、ライダースーツが鮮血を吸っていることが分かるのに、僅か一瞬前には人を殺めていたと言うのに、そんなことは些事とすら思っていないのだろうか? あさぎは旧知との再会を喜ぶ少女以外の何者でも無い顔で笑みを含んだ視線で春日野を真っ直ぐ見つめる。

 その視線が面映ゆく、春日野は尋ねる。

「どうした? わたしの顔に何かついているのかい?」

 すると、あさぎはクスクスと笑った。

「ごめんなさい。春日野さんも変わったんだなと思い直しました」

「―――どう変わったのかな?」

 あさぎの答えに期待を込めて尋ねる。あさぎはじっと春日野を見つめた。

「ロリコンになりました」

 そう答えると、あさぎはケラケラと笑い足をばたつかせる。それは酷いと春日野は抗議した。

「だって、思春期の娘を良いお歳なのに、真横に座らせるなんてロリコンじゃないと出来ませんよ」

 それに乗るわたしもわたしですけれど、あさぎはそう答えて笑いを噛み殺す。それでも身体が笑いに小刻みに震えている。

 これはこれで、あさぎに飲まれているのかもしれないと春日野は思い単刀直入に訊いた。

「何人殺したんだ?」

 あさぎは目を丸くして笑いを飲み込み春日野を見つめる。そして拗ねたようにそっぽを向く。

「嫌な人。折角、楽しいお話をしていたのに。そう無粋だと女性にもてませんよ」

 こまっしゃくれた事を言う。春日野は苦笑するしかない。確かにここ五年は女性とまともに話もしていないと素直に答えるとあさぎは又、笑う。だが、春日野は食らいつく。

「―――で、何人殺したんだ?」

 あさぎは今度は無表情になり瞑目する。その横顔を良く見ると睫毛が長くカールしている。肌も白く、思った以上に整った顔立ちをしている。五年もすれば人目を引く美女になると春日野は思った。

 しばし無言で瞑目していたあさぎだったが、ふっと目を開け遠くを見る目つきで答えた。

「一人も殺していないわね。自ら屠った記憶は無いもの……。死体はいっぱい見たけれど、あれは自分から死んだ人たちだもの」

 それが、あさぎの正直な答であることは春日野には分かった。そして屠らねばならないと決意した。神であれ、悪魔であれ、人でない者は人の世に居てはならない。

「―――そうかい。君も変わったね。柳生の免許皆伝は伊達じゃないんだ。なにより、見違えるほどに綺麗になった」

 惚れるよ―――そう春日野が囁くと「やだー」とあさぎは嬌声を上げ、朱に染まった頬を抑えて、足をばたつかせる。その瞬間、春日野はあさぎのこめかみに渾身の突きを放っていた。あさぎは嬌声を上げたままだ。だが、身体が背から仰け反る様に傾く、春日野は背筋が凍り付いた。これだけの近距離で突きを外されたのだ。勢い棒は虚空へ伸び、春日野はあさぎに組かかる姿勢になる。あさぎはひょいと右手の平で棒を押す。軌道が外にずれて春日野は階段を踏み外しそうになる。ほぼ同時にあさぎは左手の平を逆手にして棒の先端を握る。それだけの動作がほぼ一瞬。てこの原理で春日野身体は自らの力で宙に浮く。

(落ちる!)

 そう思った時には春日野の手に棒は無かった。あっと春日野は口を開けた。力を使うことなく棒を奪ったあさぎが、その棒を振りかざして跳躍していた。春日野を見据える眼に感情は一切無い。底なしの暗闇の様な眼はサメのようだ。春日野は後頭部から落下した。その直後、開いた口蓋に棒が突き刺さる不快感。その感覚を最後に春日野の意識は闇に落ちた。口から入った棒が後頭部を突き破ると言うおぞましい姿になった春日野を、あさぎはまだ棒を突き刺した姿勢のまま見据えていた。断末魔の痙攣が始まると、棒を離し、振り返りもせず境内へと登る。白く整った顔には何の感慨も伺えなかった。境内では宮司を先頭に神社の関係者が、恭しく土下座してあさぎを迎えた。


 翌朝、あさぎは払暁前に自宅のベッドで目覚めた。日課のランニングを済ませると、朝餉の支度に入った。台所の気配に起きてきた八千代は驚愕の声を上げた。

「あさぎ! 貴女いつ帰って来たの?」

「うん? 昨夜遅く。ただいま。お母さん」

「ただいまって……、貴女、怪我は無いの?」

「無い。無い。お母さん。身体触らないで。支度が出来ない」

 そこに寝間着姿の威三郎が駆け込んで来る。

「あさぎ! 無事か?」

「もう、なによ? 二人とも? 紛争地へ行った傭兵じゃないんだから。ただの神社参りだから。無事に決まっているでしょう?」

 いや、紛争地へ行くより遙かに危険だろうと威三郎は思ったが、あれの参加者は堅く口を閉ざすものだ。威三郎は質問を変えた。

「春日野君には会えたかい?」

 あさぎはその質問にエプロン姿で首を傾げた。

「春日野? 誰? その人。そんな人、もう居ないよ」

 その答えに威三郎は慄然とした。足下に地獄の蓋が開いた様な恐怖に打ち震えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る