参之書 極意

 あさぎの帰還から、瞬く間に八年の歳月が流れた。八千代は目を細めて美しく成長した娘を見つめる。

 朝の食卓。威三郎と八千代、あさぎがテーブルを囲んでいる。あさぎはテレビを見ながらコロコロと笑い、良く喋る。遙日はここ一ヶ月この食卓には不在でいる。婚約者の日本画家の個展が近い為、泊まり込みで手伝いをしているのだ。中学の頃から放浪癖がある奇妙な娘に遙日は育ってしまった。威三郎としては厳しく叱りつけたいのだが、底の見えない透き通った目で見据えられると何も言えなくなるのだ。過去を思えば無理も無い。代わりと言うのもなんだが、あさぎは柳生から戻ってからは家事を一切請け負っている。あさぎは陽の出前には起床し、ランニングと素振りを欠かさない。そして朝餉の支度を終えたところに八千代は目覚める。当初は八千代も頑張って早起きをしたが、とても続くものでは無かった。あさぎはそんな八千代に朗らかに笑いかけて言った。

「いいのよ。お母さん。今まで心配かけたのだもの。わたしにやらせてよ。娘からの恩返し。受け取って頂戴」

 八千代はその言葉に感涙した。一つ間違えば父殺しに至ることをしたとは言え、威三郎と八千代はあさぎを放逐したに等しい。恨まれて当然なのに、あさぎは心配をかけたから親孝行をすると本心から言う。親としてこれほどの喜びは無い。あさぎは料理の腕も板前が勤まるほどのものだった。柳生ではこんなことばかり教えられたとあさぎは笑う。剣を握ったのは最初と最後の日だけだと言う。

 あさぎが嘘をつく理由はどこにも無い。

 しかし、八千代も威三郎もそのことには首を傾げざる得ない。


 あさぎが帰還した時、柳生の里親は蒼白な震える顔色で、一つの巻物と筒に入った書状を二本、威三郎に掲げ捧げる仕草で渡した。渡し終えると早々にリムジンで去って行った。威三郎はそれをいったん神棚に置くと、次々と運び入れられるとんでも無い代物の応対に八千代と共に忙殺されたのだ。どう見ても国宝クラスの漆塗りの衣装箪笥や刀箪笥が運び込まれる。数百年は経過しているであろうそれらの品は色褪せることもなく、くたびれもない。漆は何重で塗られているのか想像も出来ない。その中身も二人の度肝を抜いた。衣装は恐らく柳生歴代の姫君の残したものだ。現代の技術ではもう作れないそれらの品は、どれほどの価値があるのか想像すら適わない。

 威三郎に解るのは刀箪笥の中身くらいだ。

 三段の棚の一番上を検めると紫の絹袋に入れられた一振りがまず目に飛び込んだ。威三郎も八千代も息を飲んだ。袋越しでもご神体のような清廉な気が感じられた。威三郎は魅入られて、知らずにその袋を解いた。黒塗りの鞘に真珠貝で獅子の文様がある。鍔には所々、金銀で唐草文様が彫り込まれ、まるで新品の様に輝きを放っているが、それは毎日誰かが手入れをしていたからであることは見て取れる。新作の日本刀にありがちな浮ついた所がない。やや細身のその刀の造作は計算しつくされた様に調和して、一種の神気がある。刀箪笥には他にも只ならぬ気を放つ物ばかりが収められていたが、その中でもこの一本は格が違った。柄に純金の菊の紋が刻まれているのを見た時は、威三郎は血の気が失せる思いがした。

 荷物の運び込みを一時、中断してもらい、威三郎は仏間に入り、八千代に一枚の和紙を持って来させ、和紙を半分に折り、口にくわえると、ゆっくりと抜刀した。仏間の一番後ろで八千代は正座して、緊張の面持ちでじっと見つめて来る。

 一寸程抜いたところで、威三郎は危うく口に咥えた和紙を落としそうになった。純度の高い玉鋼を名工が鍛えることで生まれる奇跡の様な黒光りが、刀身を龍がうねるような美しさで覆っている。波紋は乱れ玉文様で芸術品の域にある。プラチナのような輝きは決して派手ではない。細い刀身から立ち上がる気は、最早、日本刀とは言えない。それ自体が神の化身であるかのような神々しさがあった。

 後ろに正座で控えていた八千代が「―――ひっ」と息を飲み姿勢を崩したのを、威三郎は察した。自身も身の内が震える動揺を必死で抑えた。あさぎが柳生に行ってから厳しい修練を己に課していなければ、無様に刀を落としていたかもしれない。威三郎は呼吸を忘れ、静かに畏怖と畏敬を持って刀を鞘に収め、仏壇の前に置くと大きく息を吸った。

 ―――菊一文字。

 平安末期の古刀の中でも、最も完成され気品を放つことから天皇より菊の一字を冠することを許された国宝の中でも最上級の位置に在る名刀中の名刀である。切れ味も日本刀の中で最高級と言われるが、これを手にして血に染めるような者は、それを持つ資格は無い。


 威三郎は身体の芯が冷えて震える思いであった。

 威三郎は、あさぎが柳生に引き取られてから、伝手を頼り週に一度天然理心流を学んで来た。最初は竹刀剣道とはあまりに異質な剣筋に度肝を抜かれた。まず剣の握りが違う。竹刀剣道の様に手首を使う握りではない。力の限りに柄を握りしめ、一振りに渾身の力を籠める。竹刀剣道で教えられる様に切っ先三寸で斬るのではない。剣の腹で力業で相手を斬り伏せるのだ。荒々しさも並ではない。立ち会いの間合いが近いから、技が決まらなかった時は合い並ぶ形になる。だから相手を蹴り倒して間合いを作り、倒れた相手を叩きのめすは当たり前だ。こんな真似を竹刀剣道でやれば、剣道界から放逐されてしまう。

 そう言う太刀筋だから、竹刀剣道の基本として学ぶ、小手・面・胴の三連続技などは神業に思える。一振りに全力を籠めるから、連続技は出ないし、大抵は二振りもすれば雌雄が決する。二振りでも平然と避けられる達人が居なければ、三連続技など出せない。

 が、沖田と言えば三段突きで有名だ。天然理心流の太刀筋からすれば不可能な太刀捌きである。正に神業だが、それを繰り出せる相手が居なければそんな技は体得出来ない。当時の試衛館に蟄居し、新撰組結成時に各隊の隊長を務めた者達は、沖田の神業に応えることが出来た化け物が揃っていたのだろう。

 威三郎は剣を鞘に収めて、太く息をついた。

 柳生の使いは、あさぎが三段突きを修得している。そう言った。

 が、あさぎは柳生で剣を握ることを許されたのは、初日と柳生を去る僅か前の二回だけだと明言している。嘘をつく娘ではない。では、誰を相手にあさぎは三段突きを体得したと言うのだ? そう考えた時、威三郎は背筋が総毛立つのを覚えた。そして柳生は菊一文字の担い手に相応しいとあさぎを認めたことになる。


 引っ越し業者が去り、一段落ついたところで、威三郎は気づいた。肝心のあさぎがいない。妹の遙日の姿もない。喩えようのない焦燥感が威三郎を襲った。

「おい! あさぎと遙日はどこだ?」

 妻の八千代は小首を傾げる。

「あさぎなら、道場を見てくると半時前に出て行きましたよ。遙日は最初から姿を見てません。なぜか怯えていたようだから、部屋に籠もっているのじゃないかしら?」

 威三郎は一瞬で全身に水を被ったように、冷たい汗をかいた。

 あの姉妹は尋常の者ではないのだ。

 威三郎は全力で道場へ駆けた。

 予感は的中していた。人外と表現して過言でない姉妹は道場で対峙していた。ただ、剣を取って対峙していたのではない。あさぎは上座で正座で瞑目している。遙日は結跏趺坐で下座でやはり瞑目している。

 それだけだ。

 それだけなのに、道場の空気は突然氷河期が来たかの様に冷えて、身じろぎを許さない厳しい気で満ちていた。

 威三郎はその気に飲まれ、言葉を一瞬失った。が、親としての本能が娘の命の危機を教えた。威三郎は甲高い声で叫んでいた。

「遙日! 引け!」

 その声に応じたのは、遙日ではなく、あさぎだった。あさぎは威三郎が母屋を飛び出した時から父に気づいていたのだろう。

「あら? お父さん? どうしたの?」

 邪気の無い明るい笑顔を浮かべ、すっと気を引く。とたんに道場は春の陽気に包まれた。その瞬間、遙日はどうと倒れた。声にならない悲鳴を上げて、威三郎は遙日を抱き上げる。なぜか死んだと思ったが、遙日の豊かな胸は微かに上下している。失神していたのだ。

 あさぎはそんな二人を見つめて「あら? はるちゃん。いたんだ?」そう言った。まるで動じていない。何をした? 威三郎はそう問い詰めたかったが、一切の邪気も殺気も無く微笑むあさぎに言いしれぬ恐怖を覚え、喉が痛む程に乾くのみだった。あさぎは微笑んだまま近づいて来る。威三郎は地獄の徒卒が自分を引き連れに来る様に感じ、脱糞しかねない恐怖に身じろぎが出来なかった。あさぎは威三郎の腕から軽々と遙日の身体を抜き取ると喝を入れた。小さく身じろぎして遙日は目を開ける。あさぎは慈愛に満ちた顔で言った。

「悪戯は良くないよ。遙日」

 遙日はバネ仕掛けの人形の様に飛び下がり、あさぎに対して平伏した。

「申し訳ありません!」

 凜とした声でそう言った。あさぎはやや皮肉が混じった笑顔で応じると、無言で妹と父を残して道場を去った。その姿が完全に消えても、遙日は平服の姿勢を崩さず、威三郎は恐怖をぬぐえずにいた。


「何をされた?」威三郎の問いに遙日は首を振るばかりだった。「お姉さんの瞑想に割って入っただけです」。威三郎はその言葉を信じた。同時にあさぎが瞑想するだけで、常人なら命を失いかねない気が放たれることを悟った。

 天然理心流では気位で相手の戦意を奪い、据え物斬りにするのが一つの境地だ。威三郎が師事する師範はその境地に近いところにいる。だが、その論理で行くとあさぎはただ瞑目するだけで、剣技を交わすまでも無く、対峙する相手の精神を凍て殺してしまう境地にいる。相当の実力者でもあさぎと対峙した瞬間、肝を抜かれてその場にへたり込むだろう。

 あさぎと剣を交わせる相手がいるのか? 威三郎はあらゆる流派の鬼神のような使い手を思い浮かべた。

 ―――いない。皆無だ。

 威三郎は全身が小刻みに震えた。恩師・宮崎春雪は「二天様(宮本武蔵)ほどの方で無ければ、あさぎを指導出来ない」と言った。数百年に一度現れるか否かの希代の天才にして、羅刹そのものの化身のような存在でなければ、あさぎの指導は無理と言ったのだ。  この現代にそんな存在はいない。剣道はスポーツ化している。武蔵のように一勝負一勝負に命を賭ける剣術を教える流派は無い。

 あさぎを預かった柳生は、場合によれば、生涯を終えるまで、あさぎを幽閉することもあり得ると言った。それは並み居る剣豪が集う柳生でも、あさぎを教え導く存在が居なかったことを意味する。事実、あさぎは柳生に赴いたその夜と、柳生を発つ前に、師範代ではなく柳生の宗家の前で形を披露しただけだと言う。

 では、あさぎは何から最早神仏に近い気を体得したのか? 柳生はなぜ、あさぎの幽閉を解き、帰したのか?

 威三郎は母屋に戻ると、神棚に置いた柳生の書面を畏怖と御神託を待つ気分でゆっくりと広げた。威三郎の頭は真っ白になった。

 一つは鳴神あさぎへの柳生流の免許皆伝書であった。しかも師範代によるものでは無い。柳生の現当主直筆によるものだ。日本剣道史上、齢十五歳で免許皆伝を得た者は居ない。しかも屈強な若者ではなく、一見すると花のような少女である。その異例さもさることながら、柳生の当主直筆の免許皆伝書は、師範代のそれとは意味合いが違う。師範代ですら知らぬ奥義が柳生流にはあると言う。当主直筆の免許皆伝書。それはあさぎが柳生流そのものを引き継いだことを意味する。事実上、柳生の当主そのものになったに等しい。このような免許皆伝書は、当主から次代の当主に相応しい親族に受け継げられて来た。柳生の血を受けていない、あさぎがそれを得たと言うのは天地が引っ繰りかえるほどの出来事で、柳生の剣の頂点に立ち、その責務を負うことを意味する。おそらく柳生では相当の騒動になっただろう。

 もう一通の書面を開いた時、威三郎は畏怖に打ち震えた。白鷗神社の野試合に柳生を代表して出よと当主の文字で記されていたのだ。

 白鷗神社の野試合。

 古流を学ぶ武闘家の間では著名である。毎年、その野試合の勝者の名は古流を学ぶ者の間に武神の化身として流布する。しかし、その試合の内容は誰も知らない。古くは鎌倉時代まで遡る試合だが、出場者は試合の内容の口外を堅く禁じられている為、概要を知る者は皆無と言える。誰もが出場出来るものでもない。どうやって知るのか? 白鷗神社の神主から数多の古流より『天才』と称されるような傑物が僅かに選ばれる。白鷗神社はN県の山深くにぽつねんと存在する大きな社だ。延喜式にも記されている古式ゆかしい神社である。山の頂上に近い丘に建立されている。その山そのものがご神体で禁足地だ。神社へ至る石畳の長大な階段以外へそれることは許されていない。階段を登るだけで、山登りに長けた者でも息を切らす。お社にたどり着いた参拝者は、その荘厳な朱塗りの社に息を飲む。このような場所にどうやって建立したのか理解出来ない立派な社で、日本武尊を祀る。本殿は国宝である。武道の守護がご利益である。

 この神社の野試合は、指定された日の十二時までに本殿の記帳所におかれた特別のお札に名を記した者が勝者とされる。勝者以外は姿を現さない。歴代勝者の名が記されたお札は本殿内に飾られているが、特別に許された者以外は見ることが出来ない。近在の者が野試合の日には早朝から本殿の前に集まりその勝者を記録している。勝者は剣豪とは限らない。無名の流派の空手家が勝者であったこともある。得物にはこだわらない異種格闘技なのだ。当然、真剣も許される。選ばれた勇者がどこでどのような戦いをしたのかは分からない。勝者以外は衆目に姿を現さないからだ。敗者の中には、遂に姿を現さず行方不明扱いされた者もいる。ある者は禁足地の川辺で頭部を石榴のように無残に割られた骸として発見されたりする。事実上、勝者以外は無事に山を下りたことがない。そういう試合である。

 柳生流は毎度招請を受けているらしいが、歴史上それに応じたのは柳生十兵衛のみとされている。柳生ほどの名だたる古流でも勝者となる者として白鷗神社へ送れたのは十兵衛しかいなかったのだ。柳生十兵衛以来、漸く柳生が送り出したのが、鳴神あさぎと言うことになる。

 威三郎が蒼白になるのは当然だ。ただ一人の勝者にならねば生きて帰ることがない試合に、柳生は娘を送り出せと言って来たのだ。威三郎は妻にあさぎを呼びに行かせた。書斎にピンクのジャージ姿で現れたあさぎは、免許皆伝書にも白鷗神社の野試合の参加についても、まるで他人事のように表情も変えずに聞いた。威三郎が「白鷗神社の野試合がどんなものか分かって居るのか?」と問いただすと、ふっと笑って頷いた。それで威三郎はあさぎが化け物のまま帰って来たと悟った。

「試合は何時ですか?」あさぎは飯時を聞くような気軽さで尋ねた。

「明後日だ」威三郎がそう答えると、「承りました」あさぎはそう答えて、威三郎に礼をすると部屋を出て行った。言葉をかけたかったが、威三郎はあさぎの体から滲む闘気に気圧されて身動きも出来なかった。その夜、家人も気づかぬ内にあさぎは鳴神の家から姿を消した。遙日の携帯に「明明後日の昼に帰るから心配しないでね」と言うメールが残っていた。


 あさぎの不在に翌朝、家人が気づき鳴神家の空気が乱れた頃、鳴神家のインターホンを鳴らす者がいた。客人とは思えない。来訪するには常識外れの時間である。その者の異様な気にいち早く気づいたのは遙日だった。双眸を青白く輝かせ、魔と対した退魔師の顔つきで玄関を睨み据えて、インターホンに答えた。

「―――どちら様でしょう?」

 その声は氷のように冷たく澄んでいた。低い男の声が微かにインターホンから、威三郎の耳にも届いた。それは野生の猛獣が低く唸るのと同質の響きだった。遙日は氷の表情で父・威三郎を見据えた。

「―――春日野さんよ。お父さん」

 春日野健司。かって鳴神道場で剣を奮い、宮崎春雪没後、その唯一の後継者と言われながら、日本剣道界から退き、鹿島一刀流に戻った男だ。

 威三郎は玄関を開けた。門前に立つ背の高い男は、正に荒野に生きる猛獣を思わせた。手入れもしていない髪は、無造作に短刀で切っているのだろう。乱れに任せて肩口まである。臭わないから、水をかぶる位はしているのだろう。作務衣に身の丈よりやや長い、使い込んだ黒光りする棒を立てるように持っている。作務衣もついさっき山籠もりから下りてきましたと言わんばかりに綻び、汚れが染みとなり全体に滲んでいるが、洗濯はしているだろう。浮浪者のような臭いはしない。筋肉が二回りは大きく体を包んでいるが、自然に引き締まっているので、見た目は以前、道場に通っていた頃と変わりなく見える。が、全身から野獣の精気を放ち、半眼の眼から漏れる視線は人を射殺す鋭さがあり、威三郎はそれが、かっての春日野とは一瞬分からなかった。声も喉が潰されたのか、低くかすれたものに変わっており別人のものだ。遙日がインターホン越しに春日野と判断したのは不思議としか言えない。

「―――春日野君なのか?」確認せずにはいられない威三郎の問いに即答せず、春日野はゆっくりと鳴神家の中を眺め回すと言った。

「あさぎさんを迎えに来たのですが、一足遅かったようですな」

「あさぎは夜の内に姿を消した。迎えに来たとは、どういう意味かね?」

 春日野はそこで相好を崩した。

「―――流石だ。野試合と言うものを心得ている」

 険しくなった威三郎の顔に獅子が口を開けるように笑いかけると、春日野は言った。

「私は去年の白鷗神社の野試合の勝者です」

 鳴神夫婦は春日野を家に招き入れようとしたが、春日野は玄関口から向こうへは頑として行かない。仕方なく玄関口で茶を出すと、春日野は器を手にして、まず香りを嗅ぎ、幸せそうな表情になる。そして僅かに口に茶を含むと「ああ、甘露だ」と嬉しげに言った。「安物ですよ」八千代が言うと、「この一年、泥水を啜って生きてきたもので……」と春日野は応じた。山を下りたばかりの熊のようなのは見立て間違いではないらしい。

「今年も、私は野試合に招致されています。あさぎさんも柳生の看板を背負って出られると聞きましたので、先達を努めようと思いましたが、一枚上手でした。姿を見られないようにされるとはね。立ち会いを心得ておられる」

「あさぎが出るとどこから聞いたのかな?」

「人の口に戸は立てられません。ましてや柳生の鬼百合、柳生の鬼神と言われたあさぎさんだ。柳生十兵衛以上の傑物との噂はもう古流では広まっています―――」

 そう言うと、春日野はすっと目を細めた。

「どうやら、化生の輩が来ていますな」

「三匹。でも子鬼だわ」

 意味の分からぬ春日野の台詞に即座に応じたのは遙日だった。

「剣を捨てたとは思えないね。遙日ちゃん」

「別に心胆を練るのを止めた訳じゃないわ」

 年上の者への礼を欠いた言葉に、威三郎は含み笑いをする。

「あさぎさんは、今回の参加者全員が最大目標にしています。まぁ、立ち会いになるのは私を含めて片手もいないでしょうが……」

「どういう意味かね?」

「今、ここを伺っているような輩では、出会った瞬間に絶命していると言うことです」

 威三郎はその言葉の示す凄絶さにしばし口をつぐむ。遙日だけが氷の表情を崩さず春日野を睨み据えている。睨みながら言う。

「春日野さん。事前に慰問に来たおつもり? 思い上がりも良いところよ。貴方は鬼になったようだけど、姉は武神の域にいる。せめて楽に逝けるようお祈り申し上げますわ」

「―――そうかい?」

 春日野は立ち上がっていた。

「立ち会いに無敵はないよ。野試合に招かれるのは生来の才能と強運を持った輩だ。地の利、天の利、時の利、それが一瞬の勝敗を分けるのだよ。昨年、僕はそれを身に浸みて知っている」

「姉は貴方たちの枠で計らない方が良いと忠告してあげるわ。天の利、地の利、時の利。姉はそれすら我が物として扱える。考えて見ると良いわ。姉は柳生で何者を相手にその心胆を練ったのか。山谷に籠もった貴方なら人知を超えた体験が分かるでしょう? 姉と貴方たちでは相手にした者の格が違うのよ。さようなら。春日野さん。良い後生を祈ってあげる」

 威三郎と八千代は娘のあまりの暴言に度肝を抜かれた。遙日はやや毒舌の傾向はあったが、本来、寡黙で他人を傷つける言葉は避ける娘であった。それが、あろうことか死の宣告をしたのだ。それも姉のあさぎに殺されると断言したのだ。身内が人を殺すなどと普通は言えない。受け入れられないのが普通だ。だが、遙日は姉が死をもたらすと胸を張り宣言した。

 春日野は暫し黙した。それは遙日の言葉を額面通りに受け取った沈黙だった。春日野は静かに立ち上がると、鳴神夫妻に黙礼した。

「お世話になりました」低い猛獣の声で言う。そして遙日に目を向ける。「君は剣を捨てて正解だったね。でなければ姉妹で命のやり取りをしただろう」

 遙日は氷のように冷たい声を崩さない。

「剣は手段よ。道を究めようとする者は必ず立ち会う。姉さんは私を相手にもしなかった。ただ、瞑目するだけで、気を放った私を無意識に組み伏せ気息を奪った。あさぎ姉さんはそれすら意識していなかった。姉さんが纏う気が自然にそう動く。それが貴方の相手です」

 春日野は答えなかった。黙礼すると鳴神家を出た。慌てて後を八千代が追ったが、そのときには春日野の姿は影も形も無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る