神田川

斑鳩陽菜

第一話

「まったく……」

 俺は椅子にどかっと腰を下ろし、机に片肘で頬杖をついた。

 ここは東京都・神田。俺の亡くなった爺さまが始めた古書店だ。神田の古書店といえば神田古書店街に多くあるが、俺がいるこの店はその古書店街から外れ、さらに裏手にある。

 人気がない上に客も滅多に来ない。開店早々、閑古鳥が鳴くお粗末な店で俺は半眼で不貞腐れている。

 そもそもこの店は、亡くなった爺さまから親父が引き継いだ店だ。その時、お前は店のことなど気にせず好きなことをしろ――とか言っていたが、そのクソ親父今朝なんと言ったと思う? 町内会のくじ引きでハワイ旅行が当たったから行ってくるわ♪だ。それも当選したのが一週間前だぞ? そのときにいえばいいものを、出立日が今日とわかった親父は慌てることもなくさらりと言ってのけた。

 おいおい、ちょっと待て。店はどうする?

 ま、客など冷やかし程度にふらっと一人来るか来ないかの店だ。少しばかり休んでも、問題ないとは思うが。それなら俺だって「そうか、なら行ってこいよ」とすんなりと送り出せたさ。たが親父は、俺の頭にとんでもない爆弾を落として行きやがった。

「ああ、そのことなんだが、店番頼むわ」

 ――はい?

 クソ親父め、俺が呆気にとられているのをいいことに、ワイキキビーチからの夕陽がどうのとか、ダイヤモンドヘッドからの眺めはいいだの、親父の頭の中に流れているBGMはうちの店で流れいる『神田川』ではなく、ハワイアンかも知れない。

 いやいや、親父よ。お前は店のことなど気にせず好きにしろっていわなかったか?

「あのなぁ……、親父」

「じゃ、よろしく。土産にキーホルダーでも買ってくるわ」

 俺がやっと立ち直って文句を言おうとするも、親父は迎えに来た町内会長と出ていってしまった。

 土産にキーホルダー? いらんわ、そんなモン。昔から親父は土産というとキーホルダーを買ってくるが、大抵わけがわからないマスコットがついていたりする。

 薄暗い店内に、古書特有の臭い。BGMは『神田川』。

 知っているか? 『神田川』。昭和四十八年、南こうせつとかぐや姫というグループが歌ったフォークソングだそうだ。

 親父が青春時代によく聞いていたらしく、歌詞の真似をして近所の銭湯によく行っていたそうだ。


 ♪あなたはもう忘れたかしら。赤い手拭いマフラーにして♪


「もっとぱっとしたBGMを流せばいいものを」

 大手本屋は流行の曲を流すというのに。

 いかんぞ。あまりにも暇すぎて眠くなってきやがった。

 すると、客が入ってきた。

 どう見てもこの場にそぐわない感じの、いかにも都会! って感じの女性だ。ん? 説明になっていない? 悪いな。俺はボキャブラリーが乏しいことは自覚している。

 うちの本屋、置いてあるものはかび臭い歴史書や図鑑、何が書いてあるか理解不能な怪しげな本だ。親父曰く何冊か小説はあるらしいが、それがどこにあるかわからないときた。

 よくもまぁ今まで潰れずにいられたもんだ。

「あの……」

「え……」

 寝落ち寸前の俺に、彼女が話しかけてきた。

「なにか、お探しですか?」

 俺はできる限りの笑顔をつくった。営業スマイルなど俺は知らない。

「あの……、お好きなんですか?」

「え……?」

 俺はゆっくりと手元に視線を下ろした。それは俺が乱雑に積まれた本やら雑誌から適当に手にしたもので、改めて確認すれば妙に色っぽい女が水着姿でウィンクをしていた。

 何せ眠かった俺は、それが何の本かなど見えていなかった。

 お陰で眠気は飛んだが、とても気まずい状態にある。

「あ、こ、これは、俺のじゃなくて……」

 クソ親父め。こんなのを置いておくなよ。恥ずかしいだろうが。

 俺の反応に、女性は口元に拳を当てて笑っている。

「神田川、お好きなのかと……?」

「え、ああ、親父……いや、父が好きなんですよ」

 彼女はどう見ても俺と年は変わらなそうに見える。平成生まれなら、神田川はリアルには聞いてはいないだろう。父親か母親に聞いたのだろうか。

「この近くに銭湯があったのを知ってますか?」

「ええ。一年前に閉店して、今はビルが建つとかで更地になっています」

「私も通ったことがあります。でも久しぶりに行ったらなくなっていて……」

 悲しげな彼女の表情に、俺はどうしていいか困った。俺は恋愛経験はなく、自慢できないが彼女ゼロ、記録更新中である。

 しかし待てよ。それならどうしてここに来たんだ?


 ♪二人で行った 横丁の風呂屋。一緒に出ようねって 言ったのに♪


『神田川』の歌が流れる店内、彼女は語り出した。

  俺も行っていたその銭湯は、この店から少し行った場所にあった。近くには神田川が流れている。

「一年前の冬、父と行ったんです。でも父は長風呂で……」

「俺の父も長風呂ですよ。一緒に行くといつも待たされる」

 さすがに野郎二人では、『神田川』の歌詞のようにはならない。


 ♪いつも私が待たされた。洗い髪が芯まで冷えて♪


「あの――、これ……」

 そういって彼女が、紙袋から出したのは手編みの赤いマフラーだ。

 俺はそれに心当たりがあった。昔お袋が編んでくれたマフラーと良く似ていた。そういえばあのマフラー、今はどこにあったっけ?

「あ……」

 俺の漏らした声に、彼女が頬を赤くした。

 一年前、そう一年前だ。その日は朝から冷えて、夕方には雪になった。それなのに親父はクソ寒い中を銭湯に行こうと言う。俺は炬燵から出たくはなかったが、帰りに屋台のラーメンをご馳走してやると言われた。食い物につられた俺は雪の中、親父と銭湯に向かったのだった。

 さすがにその日は長風呂の親父を待っていられず、俺は帰ろうと銭湯を出た。そこで、一人立っている女性がいた。まさに『神田川』の主人公のように。

 あのとき俺はお節介にも、そんな彼女に首に巻いてあったマフラーを渡してその場を去った。

 再会は偶然だったようだ。

 彼女は俺が渡したマフラーを返そうにも、俺の名前も住んでいるところも知らない。暫くして彼女は神田から家族と引っ越ししたらしい。

 そして一年後、父親からある古書店の話を聞いたそうだ。

 東京・神田の古書店。有名な古書店街から大きく外れた裏通りにある小さなその古書店には、『神田川』だけが流れるという。

 そこに行けば、マフラーの持ち主に会えるかも知れない。彼女はそう思ったそうだ。

 もし親父がこの日に旅行に行かず、俺が出かけるなりしていたらこの再会はなかったかも知れない。

「ありがとう」

「あ、いや……」

 これはひょっとすると、春到来か?

 俺は厚かましくもそんな期待を抱いて、へらっと笑った。彼女も笑う。

 朝は人に店番を押しつけてウキウキと旅行に向かうクソ親父と思っていたが、今になってみると店番も捨てたもんではないと思う。

 そんな俺の横で電話が鳴る。

 今時珍しい黒電話の音は、心臓に悪い。何度かプッシュホンに変えろと言ったが聞きやしない。出てみれば、その親父だった。

『歯ブラシが見当たらないんだ。知らないか?』

 せっかくいい雰囲気になりかけていたものを、親父の呑気そうな声にぶち壊された。

 やっぱりこの親父は――

「知るか! くだらないことでかけてくるなっ。クソ親父」

 ガチャ切りすると、後ろで彼女が笑っていた。

「ははは……」

 もう笑うしかない。だが――。

 東京・神田の裏通り――、薄暗く、かび臭が漂い、閑古鳥がなく古書店だが、訪れた小さな奇跡に俺は感謝した。 


(終)

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神田川 斑鳩陽菜 @ikaruga2019

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