コノシロ――水属性系男子・魚水海里の事件簿Ⅰ――
水涸 木犀
コノシロ [theme1:本屋]
今日も俺は、バー「グータートラウン」の扉を押した。カウンターの奥でグラスを拭いていた細身の男がにっと口角を上げて、一番奥のカウンター席を手で示す。促されるがまま上着を脱いで腰を下ろすと、グラスを置いた彼がこちらに近づいてきた。
「メニューはいつもと同じでよろしいでしょうか?」
「ああそれで」
俺が頷くと、男は軽やかな足取りでカウンターの奥――厨房に繋がっているらしい――に一声かけて自分はアルコールの調合に入る。
「はい、ジントニック。本日の日替わり丼はもう少し待っててな」
「了解」
突然タメ語になった男に動じることもなく俺は右手を挙げて応え、グラス拭きを再開する彼をぼんやりと見やった。
俺はバーの常連だ。店の定休日である木曜日を除いて、毎日通っている。バーといいつつ料理ができるバイトが入ったとかで、「本日の日替わり丼」というフードメニューも提供しているところが気に入っている。ここに来さえすれば、男一人暮らしの寂しいコンビニ飯とは無縁でいられる。おまけに味もまずまず、値段もお手頃とくれば来ないほうがおかしい。
バーテンダーは中学から大学までずっと一緒だった悪友、
変わった能力なんて俺にはない。ごく普通のアラサー社会人だ。料理もできなければ家事もぎりぎり人の尊厳を保つ生活ができるレベルの最低限。さらに頭も悪いときた。今の会社はよくぞ俺を拾ってくれたものだと思う。そんなことを考えていると、奥からボウル皿が出てきた。
「お待たせ。本日の日替わり丼・豚の角煮丼です」
「うまそうだな」
思わず感想が漏れる。艶やかに光る豚の角煮は見るからによく煮込まれていて、味が染みこんでいそうだ。早速箸をつける。
「いただきます」
俺が角煮をひとかけ口に含んだと同時に、バーの扉が開いた。茶色い地味なコートを羽織り、髪を肩ぐらいの高さに切りそろえた女性が店内に入ってくる。
「いらっしゃいませ。お好きな席をご利用ください」
「はい」
女性はさっと店内を見渡して――カウンター席が六席とテーブル席が三席しかない狭い店だ――、俺から一つ席を空けた隣に腰を下ろした。
「メニュー表でございます」
塩見に差し出されたメニュー表を見て、女性の顔がほころぶ。
「表の看板に、日替わり丼が食べられるって出ていたので来ちゃいました。ウーロン茶と、日替わり丼で」
「かしこまりました」
バーに来て酒を頼まないのか、と訝しむ。入ってきた時に見た印象だと成人年齢は超えていそうだが、下戸なのだろうか。そんなことを考えながらぼんやり彼女のほうを眺めていると、目が合った。
「あれ、どこかでお会いしましたっけ? ……もしかして、駅前の篠田書店によくいらっしゃってます?」
女性の突然の問いかけに、俺は一瞬頭がフリーズした。篠田書店とは俺が仕事終わりや休日、暇つぶしによく立ち寄る書店だからだ。しかし目の前の女性に見覚えはない。
「あ、わたし、篠田書店でアルバイトしているんです。土日のシフトで入ってるんですけど、熱心に本をみていらっしゃる方がいるなぁと思って。いつもありがとうございます」
「いえ……あまり売上に貢献してないので、すみません」
実際の所、本屋で立ち読みをすることは多いが購入することはほとんどない。バツが悪くて軽く頭を下げると、女性は苦笑して首を横に振る。しまった。また会話の芽を摘んでしまった。
俺は苦手なことが多いが、コミュニケーション能力も低い。とにかく人と会話が続かない。しかし今回に関しては塩見の店の客だ。これ以上話すこともないだろうと思い、無言で豚の角煮丼を口に運ぶ。
塩見と女性――
「最近、認知症気味の祖父がいつも同じ言葉を言うんです」
「認知症ですと、同じ言葉を繰り返すと言いますからね。で、なんと?」
問いかける塩見に、辺見さんは少し間を開けて答える。
「“フユの魚が食べたい”と……」
「フユの魚?」
「はい。私の祖母の名前がフユコだったので、彼女が捌く魚が食べたいんじゃないかって母は言っているんですけど。でも祖母は他界しているので、それは実現できないんです。でも最近は毎日のように同じ言葉を口にするので、気になっていて。母はわたしに対して、『円は本屋さんで働いているんだから、何かヒントになりそうな本を探してきてちょうだい』と言ってくるんです。でも、手がかりが祖母だとすると、書店の本を眺めていても答えが見つからなくて……」
「それ、もっと単純な話なんじゃないんですか」
気づいた時には、俺の口は勝手に動いていた。塩見と辺見さんがそろってこちらを向く。
「あ、勝手に話聞いてすみません……でもフユの魚のフユって、普通に考えたら春夏秋冬の冬じゃないんですか。冬の魚。冬が旬の魚って可能性もありますけど、そのいいかただと俺にはコノシロかなって気がします」
「コノシロ? ってコハダの大きい奴だっけか」
さすが飲食関係者は詳しい。塩見の問いかけに頷きながら、俺は横目でちらりと辺見さんのほうを見る。
「魚へんに冬と書いてコノシロと読みます。冬に獲れる魚なので、そのまんまですけど。可能性はあると思います」
塩見と俺が喋っている間に、辺見さんはスマートフォンでコノシロを調べていたらしい。画面を見て頷いている。
「確かに、父はイワシとかアジとか、光り物の魚が好きでした。コノシロのことを言っていたのかもしれません。母と相談して、入手できないか調べてみます」
「はい」
「さすが海里。魚へん漢字マスターだな」
「それしか知らないけどな」
俺が肩をすくめると、辺見さんが興味深そうに俺たちのことを交互に見る。
「お二人、仲良しなんですか?」
「まあ、中学時代からの腐れ縁ですね。こいつは勉強はからきし駄目なのに、魚へん漢字だけは昔から妙に詳しくて。こいつ、魚の水で
塩見の返事に、俺はますます肩を縮こまらせた。
「役に立ったかどうかは、わかりませんが……」
「いいえ。わたしたち家族だけでは、発想が縮こまってしまっていたので。今日は夕飯を外食にするためにこのお店に来ましたが。いろんな意味で来てよかったです。ご飯も美味しかったですし」
「ぜひ、またお越しください。お父様の件、結果がわかったら差支えのない範囲で、教えてもらえると嬉しいです」
「はい、わかりました! また来ますね」
辺見さんは豚の角煮丼をきれいに平らげ、ウーロン茶もしっかり飲み干して席を立つ。彼女の姿が扉の外へと消えるのを目で追いかけていたら、塩見のからかうような声が飛んできた。
「海里、いいことしたんじゃないのか?」
「わからないよ。もし違ったら、余計なお節介だし」
「それはどうかな。海里のおかげで彼女は発想が広がったって言ってただろ。そういう意味で役に立ったんじゃないのか」
「役に、立った……」
おうむ返しに呟く俺に、塩見はいい笑顔を向けてくる。
「ほら、ポジティブポジティブ。初めて話した他人に対してできることなんて限られている。その中でお前は最善を尽くした。少なくとも俺はそう思うぞ」
「そう、か……」
塩見はそう言ってくれるが、もし彼女が失敗したことを考えると、何となく書店には行きづらいなと思うのだった。
・・・
とはいえ、行動範囲の狭い俺の休日の過ごし方など限られている。狭くて隙間風が吹き付ける自室にいるよりは、暖房の効いた店内にいた方が暖かいし、暖房代の節約にもなる。そう自分に言い聞かせて、駅前の篠田書店へと足を向けた。
自動ドアが開くと同時に、手前にいたオレンジ色の制服を身に付けた女性が振り返る。ばっちりと目が合った。
「あ、魚水さん、でしたっけ? いらっしゃいませ! お待ちしていました」
お待ちしていましたということは、結果報告をするためにわざわざ俺を探して待ち受けていたということか。思わず顔がこわばるが、制服姿の女性……辺見さんはにこやかにほほえむ。
「先日のバーでは、お世話になりました。祖父が探していた魚、コノシロで合っていたみたいです。たまたまスーパーで売っていたのを買っていったら喜んでくれて。あんなに喜んだ祖父を見たのは久しぶりです。母も祖父が光り物好きだったってこと、魚水さんの話をする前まで忘れていたみたいで。これからは定期的に回転ずしに行こうっていう話も出ています」
「それは、よかったです」
感情の持って行き場に困った俺の言葉は、少々ぶっきらぼうになった。辺見さんはそんな俺の様子を気にした様子も見せずに頭を下げる。
「本当に、魚水さんのおかげです。ありがとうございました」
「いいですよ、頭なんて下げなくて……他の店員さんもびっくりするでしょうから」
行きつけの書店で目立つことはしたくない。俺は慌てて手を振り、彼女の頭を上げさせた。辺見さんははにかんだように笑う。
「書店でもあのバーでも、お会いできることを楽しみにしています。では本日も、ごゆっくりお過ごしください」
目立ちたくないという俺の意向を汲んでくれたのか、辺見さんは小さく手を振ってその場を離れていった。俺はひとつ深呼吸をしてから、いつもの習慣である店内巡回に入る。
ろくに話したことのない年下の女の子にお礼を言われて、俺の心は浮足立っていた。しかし悪い気分ではない。ふわふわと雲を渡るような感覚を味わいながら、その日の午後は過ぎていったのだった。
コノシロ――水属性系男子・魚水海里の事件簿Ⅰ―― 水涸 木犀 @yuno_05
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