月に向かってさようなら

飯田太朗

月に向かってさようなら

 家賃が安いからという理由と、それなりに便利だろうという理由で、ターミナル駅から一駅だけ離れた各駅停車しか停まらない駅が、私の最寄駅だった。二十分くらい歩けばターミナル駅にだって散歩がてら行ける。

 もともと栄えていた土地に新しく駅を作ったのだろう。ターミナル駅周辺は商業施設が数店並んで賑わいを見せていたが、私の住む一駅先の辺りも、古くからの八百屋や果物屋、肉屋なんかでそれなりに便利だった。スーパーよりも安く、スーパーでは買えないような品を手に入れることができた。

 私が料理にハマったのも、そんな環境が影響しているのかもしれない。

 手の込んだものを作る機会が増えた。理由の一つはさっきも言ったように目新しい品を手に入れられるようになったこと。そしてもう一つの理由は……。

「今度いつ帰ってくる?」

 遠方に赴任している恋人の貴昭たかあきのためだった。お互い、仕事の立場や責任も上がってくる歳。結婚するのにちょうどいい年齢だった。貴昭の方がどうかさておき、私は彼との未来を考えていた。料理のことは、そんな未来への予習のつもりだった。

 遠く離れていると、コミュニケーションの手段も必然電話やチャットに限られる。

 毎日、ではないけど、週に一度は電話していた。他愛もない話しかしなかったけど、楽しかった。貴昭との電話は日曜の夜の憂鬱さを蹴り飛ばしてくれた。

 ただ、やはりどうしても、彼に会いたかった。

 会いたい欲が、あんな幻覚を見せたのだとしたら、私はきっと精神病の類なのかもしれない。

 最寄駅の近くにある、個人経営の本屋さん。

 私は仕事の帰り、たまにそこへ立ち寄ることがあった。ターミナル駅に行けば本屋は二軒、大きなものがあるのだが、そこよりもこの小さな本屋の方が私は好きだった。理由は、そう……。

「いらっしゃい」

 ドアを開けると、声をかけてくれる人。

 月告堂。その本屋の名前はそうだった。駅の西口、寂れた商店街の入り口にある。私の行きつけ。そしてそこの、店主が……。

 貴昭に、似ているのである。

「今夜もどうも」

 個人経営だからこその、客との距離感を売りにしているのか。

 私の来店が三度目になった頃、不意に店主が「いつもありがとうございます」とカウンターの向こうから声をかけてくれたのだ。目鼻がスッと通った外国人みたいな顔。にこやかな、甘い表情。三回訪れるまで気づきもしなかったが、声をかけられて私は驚いた。表情、背格好、髪型、顔、さらに声までも……貴昭にそっくりだったから。

「あ……どうも」

 頭を下げる。内心、ドキドキしていた。

 いや、あまりに長いこと会っていないから、幻覚を見たのかもしれない。

 一部しか似てないものを、全部が似てると捉えてしまったのかもしれない。

 でもそう、勘違いしたくなるくらいに……。

 貴昭にそっくりだった。カウンターの向こうで本を読むその目つきまで、完璧に、そっくりだった。

 本屋に通う日が増えた。私が店のドアをくぐる度、店主は挨拶をしてくれた。たまに、来客対応中で挨拶ができなかった時は、私は少し落ち込んだ。そうして入った店で棚を眺めて、気持ちが落ち着くまで呼吸をした後、私は帰るのだった。店主と接するために本を買えばいいのだと気づいたのは、店に行った回数が二桁になった頃のことだった。

 小説を読むのは好きだった。だから、文芸コーナーによく足を運んでいた。不思議なもので、見たこともないタイトルの本がいくつもあった。世の中にはいろんな本があるのだなと、この店に来る度に勉強になった。

 十回目の訪店を記念したその日、私はそんな見たこともない本たちの中から一冊選んで買うことにした。タイトルは、『月に向かってさようなら』。

 高鳴る胸を抑えながらレジカウンターへ向かった。店主さんは私が近づくと息を穏やかにして、それから「いい本は見つかりましたか?」と訊いてきた。私は平然を装って頷いた。店主は笑った。

「いつ来ても何も買わずに帰るから、お気に召すものがないのか心配していました」

 それから、私が持っていった本を手に取り、また微笑んだ。

「『月に向かってさようなら』。この作者がこの作品を書く時によく聴いていた曲があるんですよ」

 すると店主は、カウンターの向こうにある端末をちょちょいと弄った。古めかしい内装の割に、設備は新しいのかもしれない。

 流れてきたのは切なさそうな曲調の洋楽だった。何と言っているか、ちょっと聴いただけでは分からなかったが、しかし「talking to the moon」と言っているのは拾えた。「talking to the moon」。『月に向かってさようなら』。

「おしゃれでしょ」

 店主は笑った。

「ブルーノ・マーズ『Talking To the Moon』です。よかったら読む時、聴いてみてください」

「はい……」

 私はレジを通した本を抱いて頷いた。店主が貴昭そっくりの声で告げた。

「またどうぞ」

 それから、この店で本を買う度に、私は店主と話すようになった。


 *


 貴昭が一日早くこっちに帰っていたことを知ったのは、梅雨のジメジメしている時期、それも霧雨の降る夜のことだった。私が聞いている限りでは貴昭は明日、土曜日の昼に私の家に来てくれることになっていた。

 私の職場は貴昭の地元の近くにあった。貴昭の地元は、私の職場のある街の隣の駅。私の家とターミナル駅のような関係性の場所。

 その日、私は傘を忘れて、職場近くのコンビニでビニール傘を買った。ただそのコンビニが、職場から駅に向かう道とは反対方向で、こっちに向かうなら、と歩いて帰ることにした。職場から家までは、Googleマップが言うには徒歩約四十分。長いが、運動だと思えば。それにしとしと降る雨の中帰るのは気持ちを落ち着かせるのに向いている気がした。

 多分、普通の傘だったら、貴昭が向こうから来たことになんて気づかなかっただろう。でもビニール傘だった。向こうが見える。

 貴昭が大昔通っていた中学校のある辺り、私が人影を見つけてひょいと顔を上げるとそこに貴昭がいた。隣には、知らない女性。

「えっ」

 声が出た。それは向こうも同じだった。

 男の目が、私と隣の女性とを行き来する。

「誰?」

 女性が訊ねた。男は……貴昭は笑った。

「しょ、紹介するよ」

 咄嗟に出た言葉にしては上出来だと思う。

「俺の彼女」

「彼女?」

 女性が怪訝な顔をした。男性が、私の隣に来る。

「い、いやだなぁ水月みづき。こんなところまで来てくれたなら一言……」

 しかし、男が言い切るのより先に、私の手が出た。私は男の……貴昭の顔をはたいていた。その場に立ち尽くしていた女性が、何だか嬉しそうな顔をした。

「あなたには何て言ってたか知らないけど、そいつ、今日こっちに帰ってきたそうですよ」

 女性が告げ口するように、笑う。

「私には独りだって言ってましたけど」

「え……いやお前」

「お前なんて呼ばれる立場じゃないんですけど」

「いつから?」

 私が短く訊くと、女性が、

「去年同窓会して。その時からです」

 と告げた。勝ち誇ったような、いや、私にどこか同情するような顔だった。

「じゃ、彼女さんと仲良く」

 女性が立ち去る。貴昭は何か言いたそうに口を開いたが、やがてすぐ、私への対処を優先すべきだと気づいたのか、

「水月、仕事帰りか?」と訊いてきた。私は黙って彼の隣を離れた。

「水月、水月」

「ついて来ないで」

「水月」

「警察呼ぶよ」

 自分でもよくこんなに冷静に対処できたな、と思う。

 ただ、貴昭から少しでも遠くに行きたくて、私はひたすら足を動かした。貴昭は私の警察通告に驚いたのか、途中からついて来なくなった。家に帰ると、私は湿った体のままベッドに倒れ込んで、泣いた。


 *


 月告堂に行こうと思ったのは、ひとしきり泣いて部屋の本棚を何とはなしに眺めていた時だった。

『月に向かってさようなら』があった。私が月告堂で初めて買った本。そういえば、「月告堂」って名前も「Talking To the Moon」みたいだな、と、泣いて痺れた頭で思った。

 それから私は、傘もささずに家を出て、駅前へ向かった。霧雨。傘をささない人も少なからずいるであろう天気だった。

 だが月告堂に着く頃には、私は前髪が顔に張り付くくらい濡れていた。メイクも落ちて……いや、メイクはベッドで泣いた頃にもう落ちていたか。とにかくひどい有様で、個人経営の書店に来ていた。店主は「いらっしゃい」とつぶやいてから、私を見て、何故か微笑んだ。

「どうしましたか」

 包み込むような笑顔。

 よく見ると、彼は全然貴昭になんて似ていなかった。目鼻立ちの通ったすっきりした顔なのは事実だが、貴昭らしさを感じたのはそこくらいで、その他のパーツはそんなに……と、今更になって感じた。あまりに都合のいい目だと自分でも思ったが、でもそう見えた。気のせいかも、しれないが。

 私は鼻を鳴らした。それから、乱暴な足取りで文芸コーナーに行くと『月に向かってさようなら』をつかんですぐに「これお願いします」とレジに突きつけた。店主が静かに告げた。

「前も買っていらっしゃいましたね」

 私は何も答えない。

「気に入っていただけたなら嬉しいです」

 そうして私は二冊目の『月に向かってさようなら』を買った。家に帰ると、それは意味もなく私の本棚に置かれた。私はベッドの脇にうずくまると、また泣いた。ただ、さっきと違うのは、自分の意味の分からない行動が、ちょっぴり可笑しかったということだ。


 *


 泣き疲れて眠ったのはいつのことだろう。

 目を覚ましたのはもうとっくに土曜日になった夜中の三時のことだった。ベッドの横にうずくまって泣いていたから、身体中が固まっていて関節を動かすだけで悲鳴を上げた。何か食べなきゃ。酸欠気味の頭でそう思った。

 家にあるもので何かを作る気にはならなかった。せめて楽を、手抜きをしたい。

 ボロボロの顔に、マスクをつける。隈も肌荒れもひどいものだったが、部屋着のパーカーを羽織ってフードを被ると誤魔化せる気がした。近くのコンビニまで行こう。おにぎりでも買おう。そう思って、まだ続く霧雨の中を歩いた。おにぎりを二個、それからペットボトルのコーヒーを買って、アパートの階段を上った、その時だった。

 私の隣室の、ドアが開いた。

 思えばこのアパートに越してきてから丸一年、隣室の人とは挨拶もしたことがなかった。だからこの遭遇は初めての挨拶――どうせ会釈程度だろうが――だった。

 でもこんな、こんな失恋直後の格好を見られるくらいなら、死んじゃいたい。

 そう思って、すぐさま部屋に引き篭もろうとした。だがドアを閉める段になって、私はチラッとお隣を見た。そして硬直した。

 まず、貴昭がいると思った。続いて追いついた思考はこの人は貴昭ではないというものだった。しかし本能はすぐに「この人は知っている人だ」と告げた。そしてようやく思い至った。

「げ、月告堂の……」

 するとお隣さんは、笑った。

「やっと気づきましたか」


 *


 コーヒーを買いに行くところだったから。

 店主さんは私のビニール袋を見て朗らかに笑った。おすすめありますか? と訊かれて、私は咄嗟に「BOSSに新作が出たみたいです」と返した。今にして思えば随分色気のない回答だったが、しかし違う意味での色気は出た。

「あの、お邪魔じゃなかったら……」

 本来、顔見知り程度の人にこんなことを言うのは、よくないだろう。

 しかし私の胸の中の何かが、密かにこの男性を欲した。誰かに慰めてもらいたい。そしてその相手は、できればある程度知り合っている人がいい。脳内に導き出されたその考えに適合するのが、目の前の彼だった。私は告げた。

「コーヒー、一緒に飲みませんか」

 私の提案に店主さんは驚いたような顔をしたが、すぐに、

「いいですよ」

 と笑った。

「少し、待ってて」

 店主さんはそう残して部屋に戻った。それから紙コップを二つと、タオルを持って戻ってきた。それらが示す意味を考えると、私は少し悲しくなった。でも微笑んだ。

 そういうわけで、私と店主さんは二人並んでアパートの階段をさらに上った。


 *


 屋上に続く階段は、人気ひとけが少ない。

 私たち二人の間に何故その認識があったのか、今となっては分からない。

 でも私たちはその階段で二人並んで座って、コーヒーを飲んでいた。手には店主さんが部屋から持ってきた紙コップがあった。並々注いで、手渡した。店主はまた笑った。

「たっぷりですね」

 私は恥ずかしくなって頷く。

「ええ」

 暗闇を切り裂く明かりが私たちを包んでいた。私は口を開いた。

「彼氏に浮気されて」

 端的なまとめ。自分で言ってて、何だか笑えてきた。

「それは」

 店主さんがため息をついた。

「傷つきますね」

 今度は急に泣けてきた。私は酸っぱくなった鼻を両手で押さえる代わりに、ぎゅっと息を止めた。

「俺なら……」

 店主さんの声が頭上から聞こえる。階段の厚い壁に反響したそれは、私の体を低く揺らした。店主さんは続けた。

「そんなことはしない」

 たったそれだけ。人として、当たり前のことが……。

 私の心を揺さぶった。止まっていた呼吸が震えながら動き出した。気づけば、泣いていた。そんな私の頭に、ふわっと何かがかかった。

「濡れてる」

 どきりとした。

「拭いて」

 タオルだった。さっき、彼が部屋に取りに行った。

 乱暴に、頭を拭いた。

 だが頬の横まで垂れた髪の先までは拭えなかった。

 体のどこかが濡れている。

 私はタオルを被ったまま、店主さんの肩に頭をぶつけた。それから告げた。

「忘れさせてください」

 こんな物言いじゃ、鈍感な男という生き物には伝わらないか。

 そんな、男性に対する不思議な諦めが私の口を動かした。いいんだ、もう。どうせこんな私だ。ゴミ箱にでも捨てる気持ちで、言い切ってしまえば……。

「抱い……」

 と、言いかけた私の口を、店主さんの顔が覆った。柔らかい感触には後で気づいた。

「俺の部屋、行きますか?」


 *


「たっぷりですね」

 私は恥ずかしくなって頷く。

「ええ」

 肌を、重ねながら。

 彼の言葉が優しく鼓膜をくすぐる。甘い声。甘い笑顔。甘い、吐息。

「いつから知ってましたか」

 彼の腕にしがみつきながら、私は訊ねた。彼は答えた。

「ずっと前から」

 ああ、と声が出る。

「ゴミ捨ての時とか、何度か顔を合わせてるんですよ」

 全然気づかなかった。

「俺の叔父の店なんです、あそこ」

 彼が私の頭上でつぶやく。

「相続して。住居スペースはあるんですけど、俺はこのアパートが好きで」

「どうしてですか」

 私が訊くと彼は笑った。

「さぁ……お隣さんが美人だから?」

 馬鹿馬鹿しい冗談だったが、笑顔になれた。そうして心から、溢れてきた。

「ああ……」

 どうしよう。

 私は彼の名前も知らない。

 心の距離感だってまだ敬語。

 なのに、こんな。

 どうして、こんな。

 再び唇が重ねられると、私はもう何もかもがどうでもよくなった。彼も何かが壊れたようで、夢中になって私に縋りついてきた。

 それから、外の雨も忘れるくらいに、私たちは愛し合って……。

 ふと、彼の上で、呼吸を整えるために体を止めた時。

 窓の外に――山の端に、消えそうな月が見えた。

 終わりの月。最後の月。

「さようなら……」

 そう、言えた。彼も私の目を追って外を見た。それこら上体を起こして私を抱いた。頭が、撫でられる。

「よく言えました」

 それから彼は枕元にある端末を弄った。部屋を改造しているのだろうか。どこかにつけられたスピーカーから音楽が流れた。

 ブルーノ・マーズ。

「Talking To the Moon」

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月に向かってさようなら 飯田太朗 @taroIda

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