プラチナブックマーク

よなが

本編

 本を睡眠導入装置としか思っていなさそうなやつにも、好きな本ってのが存在するらしい。


「これじゃあ、閑古鳥がカッコーと鳴くどころか、めそめそ泣いちゃう寂しさじゃない?」


 桃子が鶴を折る手を止めずに言う。私にというより独り言。似た台詞を一昨日にも聞いた覚えがある。彼女はレジカウンターの内側、その狭い空間で敷物の上に正座している。そしてどこからか持ってきた小さな書き物机、木製で表面がところどころ剥げたその上でせっせと折り鶴を器用に産んでは大きな袋に入れていた。

 千羽鶴の制作。それはアルバイトではなくボランティアだという。彼女の所属しているボランティアサークルの活動の一貫。先週に、私の個人的な意見を述べたら「うちのサークル、少なくとも一・二年生の全員が同じことを思ったはずなのに、引き受けざるを得ない状況だったの」とげんなりした顔を見せた。


 一か月間限定で、母方の祖父母が営む本屋を手伝うことになった。

 私が大学に進学して、半年足らずの九月中旬である。祖父の腰痛による入院が原因にあるのだが、しかし祖母一人では業務が滞ってしかたないような繁盛ぶりかと言えば、違ったわけだ。

 自ら手伝いを申し出たのではない。「本好きだからいいでしょ」と母親に勧められれた際にはまず「しばらく閉めておけばいいじゃん」と返した。すると母は、その寂れた商店街の一角にある、やはり人の気配がまるでない古本屋に関する歴史と思い出を語ってくれた。けれどもその話は私の琴線に触れることはなかった。というのも、母方の祖父母とは近くに住むというのに、年にほんの一、二度しか会っていなかったからだ。

 現在進行形で腰を痛めている祖父というのが、なかなかの頑固者であり、私の母と父の結婚について少し納得のいかない部分があったとかで、ぎくしゃくとした関係をかれこれ二十年近く続けている。補足しておくと、母が一人で月に一度は祖母を訪ねているのを祖父は黙認しているようである。

 そんなこんなで消極的な態度の私に「あんたは薄情者だね」と母が言った、その目つきと冷ややかな微笑みこそが、以前に桃子が話していた「しぃちゃんがたまーにするレイショー」なのだと直感した。つまりは母親譲りの冷笑だったのである。ちなみに私を「しぃちゃん」と呼ぶのは親族を含めても、世界で桃子ただ一人だけだ。拒みこそしないが偶には「詩香しいか」と本名で呼んでくれてもいい気もしている今日この頃。桃子とは高校一年生からの付き合いで同じ大学に進学したので、日々、顔合わせ続けて四年目に至る。

 結局、母が金銭的報酬を提案して、私はその本屋で働くことにしたのだった。

 

「ねぇ、しぃちゃん」


 桃子が今度は明確に私へと声をかける。

 私はレジカウンターの内側でも背もたれのない丸椅子に腰かけ、カウンターに肘を突いて文庫本を読んでいた。そうすることで、いちおうは店内を見渡せる。小さな店だ。ちらりと脇を見れば桃子の横顔がうかがえる。真正面は見えない位置取りだ。


「なに」


 ひも状の栞をスッと挟み、読書を中断して応じる。


「彼氏できた?」

「なんで毎週聞くのよ。折り紙を折るふうにでも作れると思っているの?」

「できたら言ってね。約束だよ」

「はいはい。それ、もう何回目よ」

「千回目ぐらい」

「そこまでは多くないって」


 女子校だったからか、高校生のときはこんなことしきりには言わなかったのに。より正確にはお互い、友人関係を築くのが下手な種類の人間だからというのも理由だ。

 

 それはそうと今日で何日目だっけ。この子がここにいるの。必要最低限の本しか読まずに生きてきた彼女が。小中学生の頃の宿題で一番嫌いだったのは読書感想文だと話していたこやつが。

 働きはじめる前日だか前々日だかに、桃子になんとなく事情を話したら無償で手伝いにいくと言いだした。私からすると、凄まじいボランティア精神だ。悪い人に騙されないように気をつけなさいよと、その平均より十センチ近く低い彼女の頭をぽんぽんと叩くように撫でた。そのときも「そんなんじゃないから」としかめっ面された。桃子はよく笑うし、基本的に行儀もいいのだが、不満や不服というのがすぐ顔に出てしまう。「毎日、苦虫を噛み潰しているなぁ」なんて言ったときには「しぃちゃんの意地悪」と唇を尖らせていたっけ。私はけっこう桃子のそういう表情も好きなんだけれど。

 暑さの残る時季、閉店近くの夕暮れになって冷房を切った。誰も来ないし。


「……桃子こそ、どうなのよ」


 生ぬるい声が出た。

 こうやって桃子に逆に訊ねたのは、本屋で働きはじめてからはこれが最初だった。真夏に二人で図書館や美術館で涼んでいた時にもそんな話をちらほらとしては、何もなかったように振る舞っていた私だ。


「実はできたって言ったらどうする?」

「そりゃまぁ、祝ってやってもいいかもだけれど。どうなのよ」

「ふうん」

「ふうんじゃなくて」

「さっきから何読んでいるの。昨日とはまた別?」

「露骨に話題を逸らさないでよ」

「そんなに気になるんだ」


 そこで桃子が鶴を折る手を止めて、くるっとこっちを見やった。さっきから彼女の側へと体ごと向けていた私と視線がぶつかる。


「ふた昔前のベストセラー小説」


 今度は私が話題を逸らす。建前としてはむしろ桃子の話に沿ってあげた形ではある。でも本心としては、桃子に見つめられて怯んでしまったのだった。

 そりゃあ、気になるっての。桃子に彼氏ができたら、私は……。


「タイトルは知っている」


 桃子に向かって私が表紙を掲げてみせた文庫本、彼女が感想を漏らす。読んではいないということだ。


「面白い?」

「ふつう」

「ねぇ、しぃちゃん」

「なによ。もう千羽折れたの?」


 質問には答えずに、桃子が立ち上がった。あまり痺れていない様子。

 正座が得意な彼女だ。コツがあるんだろうか。小学生の間はずっと華道を習っていたのだと以前、教えてくれた。だからどうって話ではあるけれど、でも、似合うんだよね。黙っていると桃子の顔立ちの整っているのがよくわかる。その桃みたいな童顔に可愛いという印象を受けるのではなく、はっと息を呑むほど綺麗に見えるようになったのはいつからだろう。

 大学生になってメイクを覚えてからかな。「しぃちゃんにはさぁ、すっぴんなんて散々、見られているじゃん。それはわかっているんだけど、なんか気合入っちゃう」なんて、はにかんでいたのって夏頃だったか。

 桃子がすぐ傍まで近寄ってきた。私は背筋を張る。


「あのね……ずっと前から言おう、言おうと思っていたことがあって」


 本が閉じた。それを持つ手の力が不意に抜けたものだから。

 なんだって? ずっと前から言おうとしていたこと?

 私を見下ろす桃子の顔が赤い。外の夕焼けがここまで差し込むってことはないはずなのに。


「へ、へぇ。それは、えっと、いい話?」

「それをしぃちゃんが決めてくれると嬉しいな」


 そう言った桃子が微笑んだ。あ、やばい。私の顔、ぜったい桃子より赤くなってきているわ。


「――――トイレ、いってくる」

「え?」


 唖然とする桃子を置き去りにして、私は椅子から降り、トイレへと逃げ込んだ。と言っても、本屋のスペースにはない。住居スペースまで行かないとないのだ。何度か桃子にも貸してはいるが、基本的にこちらは私を含め身内の空間ということだ。そんなふうに、桃子は追いかけてこない、大丈夫、と自分に言い聞かせる。


 桃子、帰っていないよね?

 数分後、頭や顔を冷やした私はそんな自分勝手な心配をしながら、おそるおそる店内に戻る。そこには私の座っていた椅子に代わりに腰掛けている桃子がいた。私を見て立ち上がる。仁王立ち。


「あ、来た。しぃちゃん、逃げた罰として当ててね」

「当てる?」

「そう。ん、こほん。実はこう見えて私には大好きな本があるのです」

「そんな馬鹿な」


 可愛い動物の写真集なんてのは対象外だぞ。


「むっ、信じられないって顔している」

「だって、前に……」

「しぃちゃんが帰ってくる前に、その本にプラチナの栞を挟みこみました」


 桃子は得意げな顔をして、店内全体を示すように両手を広げた。予想通り、私がトイレに行っている間にも客など来ていない。今日はもう閉めようかな。

 

「プラチナの栞?」

「それを見つけて」

「いやぁ、そういうのはちょっと」

「でた。しぃちゃんのレイショー」


 桃子が閉口する。私だって。このタイミングでいきなりレクリエーションゲームめいたのを発案されても困惑してしまう。

 それとも。

 彼女にとって重要な意味を持つことなのかな。


「ヒントちょうだいよ」

「一冊でもあり百冊でもある」

「え、なにその桃子らしくない意味深なやつ」

「怒るよ?」


 眉間に皺が寄る桃子。

 私は考える。プラチナの栞ってなんだ。一冊でもあり百冊でもある?

 もしかして百物語か。ないない。怪談話は大の苦手な子だもの。高校二年の夏に、友達数名で肝試し大会があったときに、私とペアになって、それで爪が肌に食い込むぐらいしがみついてきて、痛かった。今となっては悪くない記憶。私は私で桃子の耳元で叫び声上げたからお相子だしね。……って、そんなことより。


「もしも、しぃちゃんが当てられなかったそのときは」

「そのときは?」

「ちょっと距離おこうかな」


 その呟き声には本気の色があって、胸が締め付けられた。こいつ、私の気持ちはわかっているのか。ああもうっ、逃げなきゃよかったのかな。


「わかった。当ててみせる」


 はったりだった。

 こういうの気概が大事。追加のヒントくれるかもと期待して。





 桃子が大好きだと宣言した本。その捜索を開始したほんの一分後のことだった。

 

「ん?」

 

 気づいた。

 ないのだ。カウンターの上にあったはずのあの小説が。私たちが生まれる少し前に出版されたもの。タイトルを知っていると桃子は言った。でもそのときには、何か特別な思い入れがあるふうな口ぶりはしていなかったはずだ。

 

 特別な思い入れ、か。


 私は探す。木の葉を隠すなら森の中とは言うが、本棚にあの本をわざわざ隠すだろうか。私はカウンターの内側へと入る。見当たらない。

 もしやと思って、まだ口が結ばれていない袋、大量の折鶴が入ったそれを漁った。


「あった」

 

 あまりにあっけなく見つかって、無感動な声が出た。

 そのとき、突然、桃子が私に後ろから抱き着いてきた。


「桃子!?」

「ねぇ、しぃちゃん。まさかそこにその本があるのがわかったくせして、その意味を理解していないってことないよね?」


 背中越しの香り。弱いけれど。ぎゅっとしてくるものだから。幻覚かもしれないけえど、でも、これは桃子の香りだ。優しくて、大好きな匂い。


「これって。折り紙、だよね」


 私が本の頁をめくると、中に銀色の折り紙が畳んで挟んであった。


「うん」

「プラチナじゃない」

「そう」

「でも、ひょっとしたらそれ以上の価値なのかな」


 私はひとまず本を手近なところに置く。

 そして、するりと桃子を振りほどくと、半回転して真正面から抱きしめた。ちっちゃい。香りが強まった。現実として、実感として在る香りだ。


「ひゃっ」

「なんて声あげているの、桃子」

「そ、それよりもプラチナ以上の価値って?」

「あー、だから、あれでしょ」

「あれってなに」

「桃子はさ、私が読んでいる本が好きなんでしょ。ようは私が読んでいるから好きなんでしょ。突き詰めると、本を読む私がってことでいいんだよね……?」


 高校一年生のときからずっと。本を読む私がいて。そばに桃子がいて。退屈そうにしていたらかまって。でも、案外、そのままでも楽しんでいる顔もしていて。そんな空間があって。その時々で私が読んできた一冊。これまで積み上げてきた百冊。


「違うって言ったらどうする?」

「嘘つきって冷ややかに返してから、その生意気な口を塞ぐ」


 もぞもぞっと、胸元の桃子があえて隙間を作って、私たちは見つめ合う。今、この子が目を閉じたのなら私は、したいことをするしかない。

 などと思っているところに、桃子の唇が動き、空気を震わせる。熱く。


「好き」

「えっ」

「しぃちゃん、大好き」

「あっ、そのっ、えっと、私も……」

「しぃちゃんも私を好きでいてくれるなら、目を閉じて?」


 そんなわけで私が目を閉じる。

 ここから先は私と桃子だけの物語。栞だって挟めない。

 


 ほら、早くページを閉じて。

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