今日も本屋は空を行く

管野月子

流れ流れて

 今日は風の流れがいい。この風は、新しい出会いを届けてくれるような気がする。

 顔を洗い窓の外に視線を向けて、僕は眩しい日差しに瞳を細めた。

 窓から見える景色は、とろけたクリームのような白い雲と果なく続く青い空。そう、この世界に地上は無い。あるのはどこまでも続く雲海だ。遥か昔には存在したらしい〝大地〟を失い、人々は大小さまざまな飛空艇で暮らしている。

 大きなものはそれこそ、森や巨大な貯水槽を備えるほどに。


 そんなまだ見ぬ船との出会いに想像を膨らませていると、鮮やかなオレンジ色の猫が、したりと洗面台の上に飛び乗った。


「よぅ、タネル、寝坊だな。やっと起きたか」

「……アスラン、いつもの時間と変わらないよ」


 鼻先からお腹の辺りまでが白い、背に淡い縞模様が浮かぶアスランは、虎を祖先に持つという。

 虎は本でしか見たことが無いが、ずいぶん大きさや顔つきが違うように思う。けれど彼のことを「猫」と呼ぶと怒るんだ。まぁ、猫もアスラン以外は本でしか知らないんだけれどね。

 彼は大地が無くなった遥か昔に、空で生きやすいよう体を小さくしたのだという。


「オレの腹が減っている。だから寝坊だ。それに大きな船が近づいている匂いがする。今日は客が来るぜ。準備を急げ」

「はいはい……今、用意するよ」


 もう一度顔を拭きながら、鏡の向こうを見つめる。

 黒髪に紫の瞳。真っすぐの眉。目鼻立ちはハッキリしている方だと先代の副船長、イフサンに言われた。出会った当時、四十八だと言っていたイフサンは確かに、インクが滲んだような眉と焦げ茶の瞳で、彫りの深い顔立ちではなかった。

 洗面所を出て居間の方に向かう。

 先日ひっくり返った本が、まだあちこちに散らばっている。次の嵐が来る前に片づけきれるだろうか……。


 この飛空艇エキンは、空を行く本屋だ。いつの時代からあるのか数え切れないほどの本を乗せて、果てしない空を旅している。船長は代々受け継がれ、今は僕がここのあるじ……いや、副船長だ。船長は猫のアスランらしい。

 僕はある嵐の過ぎた夜明けに拾われた。空を漂っていた小舟に一人で乗っていたらしい。らしいというのは、イフサンに拾われるより前の記憶が無いからだ。


 はくはくと猫まんまを食べるアスランを眺め、僕の記憶はどこにあるのだろうと思う。この船に積まれた膨大な本の中に、その手がかりはあるだろうか。それともこれから出会う船に、見つけることができるだろうか。


     ◆


 その船は遠目からも分かるほどに大きな物だった。舟寄せは昼を少し過ぎた頃。珍しい本の船に、訪れたお客さんはめいめいに船内を眺めて歩いていた。気に入った本があれば、お代は食糧や日用品、不要になった本との物々交換だ。

 アスランと僕とでそれぞれに接客をしていると、不意に年配の女性に声をかけられた。


「すみません。本を探しているのですが……」

「はい。書名や著者は分かりますか?」

「それが……子供の頃に聞いた童話なのです。題名も作者も分からずにいて……」


 髪に白いものが交じり始めた婦人はバッグを手に、お孫さんだろう、手を引く小さな少女を見下ろし呟く。子供の頃に見聞きした本を探したいというのだろう。

 これは……アスランの手を借りなければならないかもしれない。書名や著者が分かれば僕でも探せるが、内容を聞いて本を見つけ出せるのは、この船の長にして猫のアスランしかいない。


「話を聞こうじゃないか」


 声を聞き留めたのか、したり、とアスランが僕の肩によじ登り声をかける。ここはオレ様の出番だと、耳はピンと立ち長い尻尾が揺れる。できれば爪は少し引っ込めてほしい……と思いつつも口にはせず、僕も頷いた。

 婦人が語った物語はこのようなものだ。




 昔々、大昔。まだ世界に大地と呼ばれる土で覆われた場所があった頃、白いカラスと暮らす少女がいた。

 少女は母の母のその母から受け継いだ、七粒の〝種〟を持っていた。

 種は大地に埋めると、芽を出し花を咲かせると言い伝えられていた。けれどそのためには雨がいる。少女が暮らす大地には、長く雨が降っていなかった。


 ある年のある夜、突然の雨が大地に降り注いだ。

 少女は雨に濡れた大地を見て、今が種を植える時だと考えた。そして一粒の種を大地に埋めた。明日の朝には芽を出すだろうか。そう思いながら少女は眠りについた。

 白いカラスは少女が埋めた種が気になってならなかった。

 少女とその母が大切にしていた種とやらはどんなものだろう。白いカラスは少女が眠っている間に土を掘り起こし、植えた種を突いてみた。突いた種は飛び跳ねて、カラスの口のくちばしの中に入ってしまった。それは甘い蜂蜜の味がした。


 翌朝、芽が出ていない種を見て、少女はもう一つ種を植えて眠った。

 淡い黄色になっていたカラスは、その種も突いてみた。突いた種は飛び跳ねて、カラスの口の嘴の中に入った。それは甘い苺の味がした。

 翌朝も少女はもう一つの種を植えた。夜、オレンジ色になったカラスは種を掘り起こして突いてみた。それは甘いソーダの味がした。


 こうして少女は一夜ずつ、全ての種を植えた。けれど種は一つも芽を出すことは無かった。母の母の母から受け継いだ種を芽吹かせることができず、少女は哀しみに涙を流した。側には黒いカラスだけが残った。


 カラスはその夜、少女に言った。

 自分がいつか死んだなら、その亡骸なきがらを大地に埋めてくれ。今までに植えた種から芽がでるように、大地の神様にお願いをするからと。それから黒いカラスは何も口にせず、七日の後に息絶えた。

 少女は悲しみながらも願いの通り大地に埋め、一人静かに眠りについた。


 翌朝、大地から七つの芽が顔を出していた。芽はぐんぐん大きくなり、七色の花を咲かせ種を実らせた。その実が大地に落ち、新たな芽を出し花を咲かせた。大地は数え切れないほどの花に溢れていった。

 やがて咲いた花を見て新しい鳥と獣たちが集まって来た。そうして少女はたくさんの生き物たちに囲まれ、幸せに暮らした。




 婦人の話を終わると、そばで聞いていた少女はじっと祖母を見上げた。


「カラスのお願いが届いたの?」

「そうかも知れないわね」


 囁きながら小さな少女の頭を撫でて、婦人は微笑んだ。その笑みに見覚えがあるような気がしたが、気がしただけでそれ以上のことは思い出せない。

 僕は肩の上でじっと話を聞いていたアスランを見た。


「この話の本に覚えはある?」

「ああ、あるぜ。アホなカラスの物語は、忘れようと思っても忘れられねぇ」

「またそんな言い方」

「まぁいい、持っていってくれ」


 そう言うと、アスランは軽い身のこなしで肩から下りて、複雑に入り組む船の中を行く。両側の壁には、天井までの本棚だ。明かり取りの細い窓から射す光を頼りに、僕らはある一角にたどり着いた。

 そこはこの飛空艇の中でも、特に古い時代の書物を集めた区画だった。

 アスランはもう一度僕の肩に乗ると、「そこだ」と顎でしめした。言われた場所には、黒の表紙の中に七色の花の絵をあしらった本があった。


「どうぞ、こちらがお探しの本です」

「まぁ……本当に。ずっと探していたの。ありがとうございます。船長さんと猫さんのおかげです」


 婦人は本を受け取り、ぱらとめくって中身を確認してから、もう一度ゆっくりと頭を下げた。

 僕の肩で、アスランがムッとした顔をする。

 まぁまぁと宥めるように、僕は柔らかなオレンジ色の頭を撫でた。


「実は僕は副船長で、こいつが船長でして」

「まぁ、そうでしたの。副船長さんもお若くいらして。お幾つですか?」

「僕はだぶん……二十三か、四だと思われます。十五年前に僕が拾われた時、先代の副船長が八つか九つだろうと言っていたので」

「先代の副船長……その方は今、どちらに?」

「船を下りました。探し求めていた本が見つかりましたので、僕に代替わりとなったのです。この飛空艇――本屋エキンはそうしていにしえの本を乗せ、世界を旅しているのです」

「では……」

「はい。僕も僕の本を探し求めています」


 婦人は「そうでしたの」と何度も繰り返してから、思い出したとばかりに手にしたバッグから一冊の本を取り出した。どうやら図鑑のようだ。


「お代はこちらでよろしいかしら」

「はい。ありがとうございます」


 受け取って、ぱらりと中を見る。色鮮やかな花々が描かれている。まるで黒いカラスから生まれた花たちを、すべて描き写したように。


「これは……大切な本ではないのですか?」

「大切なものですが、この本にある花は全て私たちの船にあります。ですからどうぞ受け取ってください」


 そう微笑んでから、婦人は少女を連れて自分たちの船へと帰って行った。

 客たちを見送り船を離して、また一人と一匹の旅が始まる。僕の肩にのったままのアスランが、手にした図鑑を覗き込むようにして聞いてきた。


「よぉ、その本に記憶が戻るようなことは書いてありそうか?」

「いや……」


 ぱらりとめくった本を閉じて、棚に収める。

 僕の記憶に繋がる手がかりは無かった。けれど大切な本が、望む人の元に届いたのだからそれでいい。そしていつの日か僕が望む本も見つかることを願い、今日も果てしない空を行く。






© 2023 Tsukiko Kanno.

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