星一つ

如月姫蝶

星一つ

「せや、先生、本屋さんへは行かはりましたか?」

 男は、お隣さんに呼び止められた。

 先生と呼ばれた彼の家では、最近とある慶事が持ち上がった。他人から話しかけられる機会も増えて、先生の性格に照らせば鬱陶しい限りである。

「本屋? 紙をわっさわっさ使い倒すあの本屋のことかいな」

「さよです」

「儂は、あいつらのことは好かん。紙の無駄遣いやとしか思えへん」

 人付き合いの鬱陶しさも相俟って、先生は吐き捨てるように言ったのだった。

「うわ、何言うてはりますのん。お宅の引きこもりの娘さんかて、紙をぎょうさん使い倒して、今日こんにちに至らはったんやおへんか」

「あれは、無駄遣いやあらへんから、かまへんのや!」

 先生は、親馬鹿を自覚しつつも、娘の才覚を買っていた。

 学者である彼の目から見ても、娘は読書を好み利発である。

 彼女が引きこもり中に書き記した物語は、友人たちの回し読みに端を発し、噂が噂を呼んで大評判となり、ついに宮仕えする決め手にもなったのだ。

 そう、先生の家に持ち上がった慶事とは、娘の就職なのである。

「藤原先生、娘さんの晴れの門出や。本屋で縁起を担いだげるくらいええんとちゃいますのん。縁起を担ぐんも処世術のうちどすえ!」

 そう言われると先生は弱かった。彼は世渡り下手ゆえ職を失ったこともある。その際、内気で引きこもりがちな娘が、他家の家事を手伝い幾許かの金を稼いでくれた。

 もっとも「女房は見た!」とばかりに、その経験を物語に織り込んだらしいが……


 藤原先生は、結局、本屋を訪ねた。本屋とは、お札の原本を売る陰陽師のことである。

 陰陽師は、勿体つけて紙の札を授与したが、そこには、一筆書きの五芒星が描かれていただけだった。

「やっぱりぼったくりや! 本屋いうんは、他人の不安に付け込む悪党や!」

 藤原為時ふじわらのためときは知らなかった。その星印が「安倍晴明判あべのせいめいばん」として、遥か後世でも有り難がられるということを——

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