まるい眼

石濱ウミ

・・・


 駅から家までの途中にある小さな本屋は、耳に触る音楽BGMも、カラフルな手書きのPOPなども一つもない偏屈な本屋で、時間潰しの寄り道に丁度良かった。


 興味のない雑誌を立ち読みし、あまり変わり映えのしない陳列棚を端から眺め、手に取った平積みの本を適当に開くと目に入る文字を追う。

 時計を確かめ頃合いになり、気が向けば本か雑誌を手にレジへ行き、会計をして店を後にする。

 本屋に限らず、寄り道は、ほぼ毎日のことだが手ぶらで帰宅の途につくことの方が遥かに多かった。

 その為に、気づかなかったのだ。


 ――いつの頃からだろうか。


 レジの奥の壁に一枚のジークレー版アートポスターが貼られるようになったのは。


 オディロン・ルドンの『キュクロプス』


 単眼の雲突くほどの巨躯の怪物が、幼さを滲ませた表情で、やや首を傾け、眠る美しい裸婦を見つめている絵。

 ひとつ眼の巨人の名はポリュペモス。見つめているのは恋着している美しい海のニンフ、ガラテイアだ。

 ただひたすらに、ポリュペモスのガラテイアを見つめる様子は、穏やかで切なく優しげな眼差しにも見える。


「……気になりますか?」


 不意に声のした方を見れば、手元に視線を落としたまま、サービスで本の紙カバーをつけている頭頂部が目に入った。


「絵ですよ。ポスター」

「……ああ」


 カバーが浮かないようにと本に、ぱちん、と輪ゴムで留めた後、こちらに顔を向ける。

 見上げた先の僕は、随分と間抜けな顔をしていたことだろう。

 初めて話し掛けられたことにも驚いていたが、一瞬、何を言われているのか分からなかったからだ。


「じっと見ているから」

「え?」


 真剣な顔だったし何か間違ったかなって怒られるかと思っちゃいました、「私じゃなくて絵を見てたんですね」と天衣無縫な笑みを向けられ我に返る。


「……どうして、この絵を?」

「だって、いじらしくて。そう思いません? この表情。相手に気づかれていないからこそなんでしょうけど」


 好きなんです、と本を手渡された。

 その後、何を話しどうやって後にしたのか覚えていない。


 絵が、頭から離れなかった。


 巨躯とは裏腹に成熟はほど遠く、幼ささえも窺えるポリュペモス。

 首を傾げ、ただひたすらにガラテイアの肢体を覗き見る単眼と愉悦の浮かぶ表情には、相手の気持ちなど一向に頓着しないものがあるように見える。

 

 僕は、あの眼差しを、よく知っていた。


 付き纏い押し付けられる一方的な感情――

憧憬、敬慕、心酔、懸想、思慕、恋慕

 ――それらは何処までも、追って来る。


 見られていることに気づいていない振りで、やり過ごした。気づいていることに、気づかれてはいけないと思ったからだ。

 あの眼差しには、否定も肯定もしてはならない。

 絡みつく視線から逃れようと、降りる駅を変え、寄り道をし、時間を潰し、家の場所を悟られぬようにした。


 ……にも拘わらず。

 足が竦む。

 背中に、じっとりと汗が滲んだ。

 家の手前。

 暗がりで、小首を傾げ微笑む人物。



「見ているだけで幸せ、だったのに」


 

 知っていた。

 あの眼差しは、忽ちに豹変することがあるのだ。 


 ――狂愛へ、と。





 








《了》





Wikipediaより

 オディロン・ルドンの『キュクロプス』


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/be/Odilon_Redon_-_The_Cyclops%2C_c._1914.jpg/800px-Odilon_Redon_-_The_Cyclops%2C_c._1914.jpg

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