第4話 マスクはなくともキスはできる
土日の休日を挟んで、月曜日。学校。
結局、縫衣がカラオケに行ったのか否か俺は知らない。――縫衣が本田とキスしたのか否か、俺は知らない。
秋夜、あの聖女――いや、あの傲岸不遜が言っていたことをずっと考えていた。嘘だ。数分考えて訳が分からなくなって、試してみようという結論に至った。
考えることは苦手だ。直感と実証だけを頼りにするのが俺の人生である。
実験方法は極めて簡単。机に突っ伏して寝てるふりをして、横目でチラリと縫衣を見る。
――と、目が合ったような気がして、しかし焦る胸をそのままに、じっと見続けた。
見られていると相手が思ったなら、そのまま見つめ続ける。相手が首を傾げたり、何らかのアクションをしても見つめ続ける。そうすると相手は必ず振り返り後ろを確認する。その間に視点を少しずらすのだ。
ネットに転がっていた視姦の方法を転用した結果、上手くいった。
何度かこれを繰り返して、気付いたこと。
――縫衣はずっと俺を見ている。
その結論に
というよりむしろ、彼女が頭の中央を闊歩していて、他のことを考える余裕がなくなってしまった。
しかし一つ、考えることはできた。――考えざるを得なかった。
気付いてはいたが、やはり俺は縫衣――縫町麻衣が好きらしい。
彼女を一度視界に入れると、心臓がドキドキと跳ねて、耳の後ろで大きな血流音が響いた。
*
「はぁっ、はぁっ――」
ずてん、とゴールにたどり着いた彼女はトラックの中に入り、俺の目の前で倒れた。そこから仰向けになり、激しく肩を上下させる。
「七分ジャストだな。お疲れ様」
「はぁっ――はぁっ……疲れ、とか、労う前に、コーラ、よこせ」
俺と縫衣の記録は全く一緒だが、男子は千五百メートル走、女子は千メートル走。俺はまだしも、縫衣はダントツで遅い方だ。
縫衣が悪態をつくが、走った後に炭酸は余計に苦しくなるだけだと思う。保健室行くか? ポカリなら飲ませてもらえるぞ?
そう声を掛けると、彼女は一分待ってと付け加えて、小さく頷いた。そして何かに気付いたのか、ポカリなんかもらえるわけ、と俺を睨んだ。
彼女を支えて保健室に入る。
「すいませーん、急患でーす」
「あら、じゃあそこに寝かせてあげて。ここに名前と学年書いといてね。マラソンね、ポカリいる?」
「お願いしまーす」
ほらやっぱりもらえるじゃねぇか。
そう縫衣を見ると、彼女は目を爛々とさせて、手を拳に固めた。
さっき俺についた悪態は既に忘れてしまっているらしい。
ボードに縫衣の名前を書いておくと、ポカリを渡される。
「じゃあ、私ちょっとだけ事務の方に出るから。いいかしら?」
「はい、大丈夫です」
「勝手に戻ってていいから。何かあったら事務に来てね」
そう言って保健の教諭が出て行くと、パーテーションで区切られた向こうからのいびきと、パソコンのファンが回る音と、縫衣の息切れが部屋に満ちた。
「ほら、飲めよ」
「うん、んぐっ――ごぼっ……げほっ、げほっ」
「おい大丈夫か?」
ポカリを渡したと同時に飲み始め、そしてすぐにむせた。バカだ。息切れしてるのに無理に飲もうとするからだ。
腕で口元は押さえていたので床は汚れなかったが、その代わり自分に返ってきたポカリが彼女の顔を濡らした。
「うわぁ――びちょびちょ」
しかめ面で彼女は俺の問いに頷き、嫌そうな声を漏らす。ティッシュを何枚か掴んで彼女の前に座ると、こちらの意図に気付いて、こちらに顔を差し出す。
拭おうとして頬にティッシュを当ててから気付く。先週末、マスクについていた口紅のことを。
「なぁ、化粧はしてないのか?」
「あぁ、してないよ。面倒くさいし」
「でもこの前マスクに口紅が――」
「……マーキングだよ。西園寺さんが好きな君を、私に向かせる為のね。鈍感なほだしんは私のアプローチに全く気付いてなかったみたいだしね、ちょっと過激にしてやろうと、思った次第。
なんだ、気付かず間抜けな顔して返ったのかと思えば、ちゃんとマスクに口紅ついてたこと気付いてたんだ。じゃあ余計にほだしんは鈍感だね。私、これ以上どうやって――」
長く喋る彼女は、ここで声を詰まらせた。ぎゅっと目を閉じてから、俺の手のティッシュを奪い、乱暴に顔を拭き、震えた声で言う。
「どうすれば、伝わるのかな? どうすれば、君の視界に入ることができるかな? 私を見るのはそんなに詰まらないかな? 面白くないかな?
折角掴んだきっかけなのに、活かそうとしたのに、どんどん結果は変な方に転がるし、私、自分の欲に任せて動いたせいで関係はギクシャクするし、誰とでもキスするようなヤツだって思われるし。
――こんなにキスしたのに、ほだしんはまだ分かってくれないの?」
潤んだ目と、湿った鼻づまりの声が胸を刺した。
俺は西園寺が好きだったはずだ。なのに、今、この瞬間で、頭の中に居座っているのは西園寺じゃなくて、縫町麻衣、ただ目の前の彼女一人だった。
目を閉じても開いても、目の前にいるのは縫衣ただ一人だった。
「ほだしんのばかぁ」
すびすびと鼻を啜って、泣きじゃくり始めてしまった彼女は、グチャグチャな顔を、ポカリを吸って湿ったティッシュで乱暴に拭うせいで、余計にグチャグチャにしてしまう。
ティッシュを新たに取ってきて、顔を覆う彼女の腕を取り払い、端からポカリと鼻水を涙の混合溶液を丁寧に拭いていく。
それからもう一度新しいティッシュで鼻を摘まんでやると、彼女は無遠慮に鼻をかんだ。
堆積したゴミをティッシュでくるみ、彼女を見る。
と、彼女が赤くなった目を床に滑らせて、ぽつりと言った。
「慣れてるね――」
「妹がな、恋多きおなご故、よく慰めてたからな」
「慰めなくて済むようにしてくれれば、それが一番嬉しいんだけど……ね」
折角泣き止んだのに、彼女は目を潤わせて、再び泣きそうになることを言う。妹と同じだ。すぐに自分が悲しくなるようなことを自虐的に言う。
全世界の女子がこんなふうに泣くのだろうか。
標本が二つしかないので定かではないが、この先増えることのないであろう標本数を鑑みるに、一生、結論づけることはできないだろう。
彼女の顎辺りを拭いていると嘆息が漏れた。
「隣の席のよしみだったはずなのにな。単なる友達だと思ってたんだけど」
「――へへ、ほだしんが悪いんだよ。好き」
唐突な、文法的な脈絡も、屋上階段のようなムードもなく彼女は言い放った。純真無垢なその言葉が胸に染みる。
最後の一枚のティッシュで全部拭ききると、ねだるような、縋るような、今にも泣き出しそうな、目で縫衣がこちらを見つめる。
気付いたら腰までどっぷり浸かっていて、しかし底は感じられないほど深い沼へと、どんどん引き摺り込まれていく。抜け出す方法は既になくなってしまっていた。
座り直して、顔を寄せようとすると、こちらの意図に気がついた彼女はぱぁっと顔を晴らした。現金な女である。ポケットに手を突っ込んで彼女は言う。
「マスクならあるけど――」
「なんだよそれ、コンドームじゃあるまいし」
「あ、そっか。じゃあこれってナマ――」
「黙れ、そういうつもりで言ったわけじゃないから下ネタに繋げるな」
不穏な話の流れを断ち切って、目を閉じてこちらを見上げる彼女に顔を寄せる――と、部屋の外から足音がして、ドアノブの金具が音を立てた。
ずでん、と鈍い音が体に響き、鈍痛が腰を這い回る。
「ただいま~あら、大丈夫?」
「は、はい」
「大丈夫です、ほだしんがすっころげて落ちちゃって」
縫衣は先ほどまでの涙声から一転、すっとぼけた声でそう言う。
突き飛ばされた俺は、床に尻餅を打って着地して、無様に倒れ込んでいた。保健の教諭が心配そうな顔で俺を覗き込む。
「あらま、怪我はない?」
「いてて――問題ないです」
「そう? あら、そろそろ授業終わるけど、戻らなくていいの?」
「あっ、忘れてた。ありがとうございます、失礼しました~。ほら、ほだしん行くよ」
「お、おぅ――」
縫衣にやや引き摺られるように保健室から出て、俺は開口一番文句を言った。てか、怒った。
いきなり突き飛ばされて、床に落とされたのだ。起こらない訳がない。
「危ねぇだろ!」
「ごめんごめん」
「ごめんじゃ済まねぇよ。マジで突然すぎてビックリして――」
文句を垂れ流そうと開いた口が、縫衣の人差し指で押さえられる。
口を噤むと、彼女はニヤッと笑って悪戯っぽく言った。
「あのままキスしたら止まれる気がしなくて、ね。先生来ても続けちゃいそうだったから。——今日は放課後、予定入れないでね」
「別に――」
「するのは当然キスだけだよ、変態。でも今日は長くなりそう」
「――」
嬉しそうに、秘め事を楽しむように、くすくすと笑う彼女を見て、俺は何も言えず、校庭への歩みを速めた。
PS:完結。うん、普通に変な小説でした。だめだね、こりゃ。
リハビリ:
今日の失敗:ヒロインの人格変わっちゃったきがする。なんとも言えんが。あと、プロットは作らんほうがいいな。なるべく。
隣の彼女はマスクを挟んでキスせがむ。 小笠原 雪兎(ゆきと) @ogarin0914
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