第3話 マスクの中でキスの復習




 何かがおかしい。――いや、何かではなく、キスをするという習慣がおかしい。


「なぁ、なにこれ」


 あの日から一週間が経って、土日曜以外は皆勤でキスが続いている。

 俺にとっては労働と等しい。縫衣はなまじっかモテるから、他の男とキスさせるよりはと、彼女のお願いに付き合っているが……。

 マスク越しという免罪符が、だらだらとこの関係を引き延ばしにしていたが、このままではダメだとようやく悟った。


 今日の労働が終わって、満足げな顔をする彼女は壁に背を預けて唇に手をやり、先ほどの感触を思い出して楽しみながら言う。


「なにもこれも、キスだよキス。ほだしんはやっぱり日本語ヘタクソだね」

「お前さてはキス魔だろ。変態だろ。将来のお前のカレシは可哀相だ。変なプレイ要求されて付き合わなきゃ浮気するって脅迫すんだろ?」

「キス魔は嫌い? 変なプレイは気分が上がると聞くけど。浮気はしないよ? 脅迫はするけど。あとカレシはいないよ? 人格を見誤るのも大概にしてよ、困るんだよね」

「あのなぁ、俺たちは付き合ってないんだよ。キスなんかマスク越しでもするもんじゃない」

「じゃあ付き合う? 実は尽くすタイプだけど」

「やめとく」


 ため息と共にそう答えると、彼女の目つきが変わった。

 少し潤んだ、しかし刺すような目つき。普段は見ないその表情に身構える。


「やっぱりあれか。静香西園寺ちゃんが好きなんだね。ほだしんのタイプは小さくて明るくてバカっぽい女子なんでしょ?」

「なっ……いや、ちげーし! 変な事言うなよ!」

「いや、嘘吐かなくていいよ。目が泳いでるし。それに、から知ってるもん」

「いやいや変な勘違いはやめてくだされお嬢さん。西園寺はなんていうか、ペットだペット。うん、愛らしいペット」

「それ本人に言っていい? ダメだよね。本心じゃないんだもん。それにペットなんて言ったら嫌われちゃうもんね」


 いつもなら言葉の合間に挟まれた毒舌が俺を刺すのに、それがいざなくなると空虚感を覚えてしまう。


「まぁいいや。むしろ好きな人がいないなら好都合。これからもよろしくね。青春ツンデレボーイくん」


 何も答えられないでいると、縫衣はそのまま背を向けて階段を下っていった。追いかければ良いのか、しかし追いかけたところで何を言えば良いのか。

 純真無垢じゃない俺には余計な考えと恐れが邪魔をして、ラブコメの主人公なら出来そうな振る舞いはできなかった。

 ただ、寂しそうな背中を見送った。



 *



縫町ぬいまち~カラオケ行こうぜ!」

「おっ、他に誰が行くのかな?」

明島あけしままことかな?」

「いいね、いつかな?」

「今週の日曜だ!」

「って、明後日じゃん。分かった、詳細はチャットで教えて」

「おうよ合点!」


 ピクリと聞き耳を立てるまでもなく会話が聞こえてきて、俺が何かを言おうかと思いすらする前に話は決着が付いてしまった。

 胸の奥がずきりと斧で伐たれたように痛む。モヤモヤと傷口からあふれる黒い雲の正体を俺は知っていた。幼馴染みがカレシを作った時と同じ感覚。知らないなんて誤魔化しは自分には効かなかった。


 嫉妬か――いいやタイプ外だ! 気にするなバカ!


 横目に縫衣を見ると、彼女は俺の方を見ていて、後ろを振り返るとなにもなく、彼女の方に目を戻せば彼女はすでに、スマホのカレンダーを弄っていた。


「本田とキスすればいいんじゃね?」

「は?」


 その日の放課後、ワークスペース屋上階段で俺はぶっきらぼうにそう言った。言ってしまった。

 彼女は淡々とマスクの傾きを整えていて、それから首を傾げた。


「本田にカラオケ誘われたんだろ? ついでに本田にやってもらえば日曜もキスが味わえるぞ」

「もしかして妬いてる? 私がカラオケ誘われたからって?」

「別にそんなんじゃなくてよ。その方がお前にとって良いんじゃないかと思って提案しただけだ。お前、キスできるなら誰でも良いって言ってたよな?」

「……じゃあ、君はそれで後悔しない? ほだしんはそれでいいの?」


 縋るような、しかし一方で最後の蜘蛛の糸を垂らすような声で縫衣は言う。

 反射で首肯しかけた頸椎を止め、無理矢理首を横に振った。

 この関係を始めた時の肯定と違い、今度は感情よりも先に理性が働いた。きっと、後悔しない、なんて嘘を言えば縫衣は自暴自棄になって、俺は後悔することになる。

 絶対に後悔してしまう。


「ふっ……よかった。じゃあしよっか」


 そう言われて顔を上げると、縫衣はマスクを外していて、彼女が何をしようとしているのか判別がついた時には、既にいつものように彼女の顔が視界を覆っていて、しかしいつもよりクリアな感触を唇に覚える。


 その日は少し長かった。



 *



 離れると同時にマスクを掛けた縫衣の顔は確かに赤かった。

 アイツも恥ずかしがるのかと、自分も赤い顔を覆う。

 縫衣が帰った後、俺は階段に座ったままボーッとしていた。


「ねぇ、どういう関係かしらあなたたち――ぶっ……」


 クールな声に顔を上げると、声の主は吹き出した。


「あっ、秋夜。どうしたって――」

「面白そうで覗いてみたらなにこの酸っぱいラブコメ。いや、コメディのコの字もないわ。青っ、臭っ、間抜けな顔っ」

「へ……? あ、秋夜?」


 階段の下に学年の聖女、秋夜柚菜が鼻を摘まんでしかめ面で俺を見上げていた。

 彼女の態度はその聖女たる所以の朗らかなそれとは真反対。高慢で勝ち気で毒舌。

 その豹変振りに開いた口が塞がらないでいると、その後ろから遠空遠空月弥が顔を出した。そして俺の顔を見て吹き出して、それから秋夜の肩を揺さぶる。


「秋夜さん、やめなって! 首突っ込んだら、ってか仮面外す本性見せるとか何考えてんの!?」

「月弥は分からないの? このバカがどれだけ月弥と同類か。いや、月弥以上に鈍感か」

「いや僕最初から気付いてたけど、自信なかっただけだからね?」

「えぇ、だから月弥以上。ねぇほだし、仏道修行の妨げさん」


 絆しほだし:仏道修行の妨げとなる物


 そんな注釈が出てくるのに数秒、自分の事だと気付くのに更に数秒。そのときには既に彼女は講釈垂れていた。


「時々見かけてたけど、彼女アンタのことしか見てないわよ。誰かと話すときも、廊下歩くときも、体育の授業中も」

「はぁ? 縫衣は誰とでも良いから――」

「アンタを焦らせる為よ。ツンデレねツンデレ。まぁ、彼女もそんな回りくどいことをして非合理的ね」

イロジカル非合理的なのは秋夜さんもだよ。ツンデレじゃん」

「黙ってて月弥。あとでかわいがって上げるから」

「ひぃっ――や、やめてくださいっ」


 変な茶番が始まって、数分間放置される。

 聖女の裏の顔と、遠空の虐められっぷりに呆れていると、ようやく惚気が終わったらしい。


「まぁとにかくそういうこと。ちゃんと彼女の顔を見て、気持ちを汲み取りなさい」


 そう言って、学年の聖女、もとい毒舌女は遠空を引きずって消えていった。


 帰宅中、周囲の視線が気になって、マスクを外して裏返してみると、そこには口紅の後が薄く残っていて、焦った俺は何も考えずに、今まで表にしていた方を口の方にしてマスクをつけた。

 口紅の甘い鼻の香りがマスクの中に充満した。








PS:ん〜文章が重い。これはプロットのせいだ。あと陰気な小説だからだ。僕は悪くない。なんてったって、ギャグが挟めないもの。

 リハビリ:

 今日の失敗点:ギャグが少ないので、陰気なムードがもっと陰気になってしまう。

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