ビタースイート喫茶店

まえだたけと

ビタースイート喫茶店

 人生というのはそう甘くない。そもそも人生を構築しているあらゆる事象は苦さで溢れかえっていると、高橋という男はそう考えていた。大学職員に就いたかと思えば、上長との揉め事の末に離職した男。それはまさに苦い経験であった。

 もう三十路を迎える高橋は、半年前からこの喫茶店で働いている。仕事を辞めた日に立ち寄ったこの店はマスターが1人で切り盛りしていた。そんなマスターの好意で、週に5日はシフトに入れてもらえることになった。「次の仕事を見つけるまでの間」という条件付きだが、その条件設定は珍しいほどに甘く優しい。

 半年も続ければ常連客のことも少しは覚えるようになる。3年前に愛妻と死別したという老人は、毎朝7時には決まってカウンターの一番奥に座って新聞を広げる。マスターとは旧知の仲だそうだ。注文は「いつもの」ホットコーヒー。ミルクは要らないがシュガーは匙に山盛り3杯。飲み終えたカップの底に残る黒ずんだシュガーを舐めるまでがこの老人のルーティン。新聞の社説にケチをつけては高橋に、

 「君らみたいな若いもんが選挙に行かにゃならん。こんな新聞は老人の暇つぶし。曾孫の顔は多分見れないけど、いい時代になってほしいもんだ」

と口癖のように語り掛ける。そしていつも、

 「こんな寂れた喫茶店が残っているということが大事。ワビサビってことだなぁ。兄ちゃん、マスターの後を継いでやれよ。まぁその時ワシはあの世だろうけど。さて、このチケットもちゃんと消化できるか分からないってのに……まぁ明日来なかったら死んだと思ってくれな」

 と、お道化ながらコーヒーチケットをカウンターに置いて帰っていく。

 平日の昼間に顔を出す20代と思しき黒髪の女性は、向かいのビルに入るオフィスで働いているらしい。それは彼女の口から聞いた話ではなく、高橋がたまたま買い出しで外に出た時にそのビルから出てくる彼女を見かけたことから知ったことだ。彼女の立ち居振る舞いは美しく、それが例え店の外であってもひと際目を引くものがあった。彼女はいつも日替わりランチ。ノンシュガーのホットミルクティがぬるくなるのを待ちながら、背もたれに背をつけることなく体幹に筒を1本通し、白く伸びた飾らぬ指でフォークを口に運ぶ。食後ぬるくなったホットミルクティを流し込んだら、手帳を見て仕事に戻る。なんとも無駄のない立ち居振る舞い。でも高橋は彼女の「ランチ、ホットミルクティで」という声以外は聞いたことがないし、笑顔も知らない。800円のランチをいつも1000円札で支払うことは知っていた。その手に100円玉を2つ乗せる高橋の手はいつも少し震えそうになる。

 この老人と女性は対照的な存在かもしれないが、高橋は同時に2人が似た者同士だと感じている。2人はいつも独りなのだ。高橋やマスターもそれは同じことで、自分の人生の登場人物は誰しもどこか自分に似ているのかも知れない、いやこの喫茶店は似た様なものを引き寄せる魔力があるのかもしれないと考えていた。

 ただ似た者同士とは言え、やはり他人は他人。老人がわざわざ苦いコーヒーを甘さで誤魔化すことや、熱々のミルクティが冷めるまで待つ意地悪な女性の態度は、自分には似ても似つかない不思議な魅力があった。

 その日は特別寒く、雪がちらつく朝だった。高橋はいつも通りシフトに入る。老人はいつもの調子で誤魔化してお道化るし、死の香りなど微塵もない。それはどんなに寒くても変わらない。

気が付けばランチタイム。例の彼女が意地悪にミルクティを飲み干して伝票を手に会計へと進もうとしていた。彼女が帰ればこの店はマスターと高橋の2人だけ。マスターは暇を持て余し、裏で自ら淹れたホットのブラックコーヒーをきつめのタバコと一緒に飲んでいる。マスター曰く、コーヒーはこうして飲む以外にあり得ない。

 そんなマスターの目の届かぬレジ。1000円札を挟む白い指に見とれた高橋は、

 「今日は冷えますね」

 と、ここ半年で初めて自分から声を掛けた。あの老人ですら自分から話しかけたことはない。これは高橋にとって初めての試みである。すると彼女は微笑み、柔らかい声で、

「でも今日は温かい日ですよ。はい、これ」

と、高橋に小さな包み紙を2つ、飾らぬ手でそっと渡した。高橋は何が起こったのかさっぱり分からずモジモジする他なかったが、彼女は相変わらず無駄のない身のこなしで高橋を真っすぐ見つめてこう言った。

 「やっぱりこういうのは無頓着なタイプなんですね。そんな気がしてました。今日は、バレンタインですよ。あ、変な意味はないですからね。義理……っていうのかな。ひとつはお兄さんの、もうひとつはいつも奥にいらっしゃるマスターに。いつもご馳走様です」

 高橋は自分から話しかけておきながら、次の言葉が出なかった。どういう感情からそうなったのかはさっぱり分からない。相変わらずモジモジする他ないまま、気付けば彼女はもう店を出ていた。ふたつの包み紙はレジの横にそっと置かれ、代わりに高橋の手には100円玉がふたつ。高橋はそれをそっとポケットに仕舞って、また次逢う時に御礼を添えて返そうと企み、彼女を追うことはなかった。

 マスターが奥から高橋に声をかける。

 「お、色男。どれどれ、俺の分もってか……。あぁ……俺の分も食べておいてくれ。この色は多分ミルクチョコレートだろ。甘ったるいのは苦手でな。彼女には美味しかったとだけ伝えるさ。俺はコーヒーとタバコで十分。あ、その200円はちゃんと返せよ。横領は訴えるからな」

 ガランとした店で、高橋は冷たい黒に甘い薄茶色を合わせる。人生を構築している事象は苦さだけではないし、誰も独りではないようだと感じながら。

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ビタースイート喫茶店 まえだたけと @maetake88

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